普通じゃない
混沌とした未曾有の事態は玄関口だけではなかった。
構内の廊下を逃げ回るナカジとアカネは窓越しに外の状況が嫌でも目に入る。息を飲むような凄惨な光景が広がっており、それは少し前まで理性のある人だった化け物が生ける人間を捕食しているのである。被害は火を見るより明らかであり、逃げ遅れた人はもうそこから逃れる望みはないだろうという程のゾンビの数に膨れ上がっていた。
「これは本当に現実なのかねえ。ゾンビがいきなり現れるなんてまるで悪い夢でも見てるみたいだねえ」
そうぼやきながら早足で歩いていた先行するナカジだったが、手を引く後方のアカネの動きの鈍さが気になり振り返る。
アカネは反対側の腕で頬から流れ落ちている涙を拭いながら歩いていた。その様子を見てナカジは一旦足を止めた。
「どうしたんだい」
アカネの方に身体を向けたナカジは、泣きじゃくるアカネの顔を覗き込むようにしてそう聞いた。
「死んじゃった……。私のことを慕ってくれてた子達が、私の目の前で……」
アカネは溢れ出す涙を拭いながらそう言葉を吐き出した。それが精一杯の様子だった。
ナカジはそう言われると苦虫を噛み潰したよう顔をしながら後頭部を掻き毟る。そうして再びアカネの手を握る。
「とりあえず今は逃げることに専念するよ。どんなに泣いててもいい。だが生きる為に今足を止める訳にはいかない。今の目的地は駐車場にある俺の車だ。それでここからの脱出手段とするからね。いいかい?」
ナカジは諭すようにアカネにそう伝えた。
アカネはそれに対し弱々しい声で「はい」とだけ答えた。
その返事を聞いたナカジは再び歩み出す。アカネは手を引かれるままに行く。涙が止まることは相変わらず無さそうだが、歩幅は先程よりも大きく、しっかりとした踏み込みでナカジの背を追っていく。
やがてふたりは駐車場へと続く廊下へと至る。しかしそこはゾンビに襲撃され、腹を裂かれ臓器を撒き散らした無惨な死に様を晒している死体が幾つもある。
「なんだいこれは……」
ナカジはその光景を見て息を飲んだ。そして背後にいるすっかり泣き止み目を赤く腫らしているアカネは眼前に広がる光景を見て嗚咽した。そして吐瀉物を足元に撒き散らすと自身の足が震えていることに気がついて自由になっている手で震えを止めようとして太ももを抑えはじめた。
「参るねえ……。食後に見るにはなかなかにキツい光景だねえ」
そうナカジが独白する頃、死体になっているはずの遺体が数体ピクリピクリと痙攣していた。そんな様子をナカジは見ており、眉間に皺を寄せ渋い顔をした。
「ゾンビ作品お決まりの噛まれたら感染するって奴かい……。あれはそろそろ起き上がる前兆なのかねえ」
そうナカジは独白すると、アカネの方に顔を向けた。
「走れるかい?」
「無理です。足が震えて、歩くこともどうか……」
震える足を手で抑えるアカネは潤んだ瞳でナカジにそう訴えかけた。
ナカジは確かに震えるアカネの下半身をまじまじと見て納得した後、アカネの手を離した。そしてくるりと身を翻すとアカネの前でしゃがみ込んだ。
「歩けないのなら仕方がない。遠慮しないで乗りなさい」
アカネはそんなナカジの突然の振る舞いで困惑する少しの暇もなく、「ほら、早く。いつ死体が起き上がるかわからないから」とナカジに催促されて、アカネはナカジの背中に飛び乗った。
そしてナカジは屍の並ぶ廊下を駆けた。それをきっかけにしたかのように、ゾンビになった遺体が身体を少しムクリと起こし始める。下半身を食い荒らされたゾンビは上半身を引きずりながらナカジの背後を追おうとしている。
幸いなことに動きの鈍いゾンビは飄々と駆けるナカジに追いつくことは叶わないのだが。
「ごめんなさい、重いですよね」
おぶられているアカネが恥ずかしそうにナカジにそう尋ねた。
「重くないというと嘘になるねえ。でも気にならんさ。気兼ねなく俺の背中で寛いでおくれよ」
アカネは『重い』と言われ少しムッとした顔をした。だがそれを水に流したか平然とした顔に戻ると言葉を紡いだ。
「ナカジさんはこの状況が怖くないのですか」
「もちろん恐いさ」
「そうは見えませんが」
「訳もわからず目の前にフィクション作品の権化みたいなゾンビが現れたんだよ? 俺だって心穏やかじゃないさ」
「それにしてはこうして果敢に状況を打破しようとしてる勇姿は何なんですか……。私は足がすくんじゃっているというのに。というか普通の人なら私みたいな反応になると思うのですが」
「そりゃあ、ゾンビ映画をたくさん見てきたからねえ。多少はグロテスクな場面に遭遇しても耐性があるから平気なのさ。ゾンビの弱点は頭と相場は決まっているし、作品によっては走ってくるゾンビがいるがコイツらはとろとろ歩いてくるだけだから対応がしやすいと踏んだからこうして思い切りのいい逃げ方をしているんだよねえ」
「でも……、そういうゾンビに対する予備知識だったら私もあります。でもこれは現実なんですよ。妄想や空想で思考したことを実行しようと思ってもなかなか簡単に出来ることじゃないです。普通だったら怖くて萎縮しちゃうはずなのに。普通だったら、あんな血の池地獄みたいな場面に遭遇するだけで悲鳴のひとつをあげてもいいはずなのに、冷静だったナカジさんは凄いです……」
アカネの『普通』という言葉を聞く度にナカジは遠い目をした。
「まあ……、俺は普通じゃないからねえ。退役軍人だから、ちょっと感傷の受け方が違うのかもねえ」
「えっ! 軍人さんだったんですか?」
驚いた様子のアカネは大きな声音でそう言い放った。
「あーっ、声が大きいよ。ゾンビが寄ってきちゃうから静かにねえ」
「ご、ごめんなさいっ」
アカネは即座に謝るが興奮冷めやらぬ様子で言葉を紡いできた。
「どうして退役された軍人さんが大学に? 退役されてからここの学生だったんですか?」
「いや、学生ではないよ。俺はここの食堂の飯を食いにやってきていたただの一般人なんだよねえ。昔からここの学生でもないのによく飯を食いに来ていたんだけれど従軍してから来れずにいてねえ。退役して自由になったから足を運んでみたらこの始末なんだよねえ。まるで神様がここの食堂で俺に飯を食わせたくないかのような気さえしてくるねえ」
ナカジはまったく……と言った様子であり、しかめっ面をしていた。
「災難ですね。私もそうですけど……、でも、私にとってナカジさんは救いの神でした。ナカジさんがいなければ、たぶん、今頃私もゾンビの仲間入りしています。助けてくれたこと、感謝しています。ありがとうございます」
そして先程の暗い表情から気が紛れている様子のアカネの声音を聞いてナカジは安堵した。打ち解けてくれたような、そんな会話にナカジは微笑ましさを感じたのだ。
やがて先程の通路から遠くない場所にある駐車場へとふたりは辿り着いた。
アカネを担ぐナカジはいそいそと自身の車を探す。
「何色の車ですか?」「黒だよ。分かりず辛いと思う」「どんな形ですか?」「SUVタイプって言ったらわかるかな」「わからないです……」
等とアカネもナカジからヒントを聴きながら車を探していた。アカネはおぶられている自身の方が視界が開けている為探しやすいと理解しているからだ。勿論根底には早くゾンビが溢れるこの場所から早く逃げたいという欲求の元にその思考が導き出されているのだが。
駐車場にもゾンビはいた。大学構内ほど大きなゾンビの群れは見当たらなかったが、そこから流れてきたゾンビも少なからずいた。
接触されないように気をつけながら車を探しているナカジとアカネだったのだが、アカネは本人が見つけてはいけない物体を見つけてしまう。
「あっ……。あぁっ……」
アカネは嗚咽に似た泣き声を出した。
背後で様子がおかしくなったアカネを心配したナカジが「おや、どうしたんだい」と、そう問掛ける。
ナカジは返事を少し待ったがアカネからの返答が得られず、咄嗟に首を限界まで後ろに捻り、アカネの様子を見た。
アカネはナカジの右後ろを見ていた。ナカジもそれに習ってその場所を見た。
そこには、首元を大きく食い散らかされた血染めの学生服を着ているゾンビがいた。その傍に似たような格好のゾンビがいるが、顔面の大半を食われ、血まみれになった表情筋丸出しのゾンビがいた。




