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第二十四話 白河の関

 八月四日。白河の関。

 下野と陸奥の境である。

 関白の本隊は、白河の城には目もくれず、長沼へ向けて先を急いでいた。

 黒川城に入るまで足を止める気がないらしい。

 俺の隊は、関の南で昼の休息を取った。

 陣幕を張らせ、床几を置かせ、俺は、待った。

 ――三人が入ってきた。

 絹だった。

 小袖の白が、日に透けていた。

 髪は結い直され、油が当ててあった。

 同じ人間とは思えなかった。

 (……着るものって、こんなに人を変えるのか)

 頼氏が、しきりに自分の袖に触っていた。

 指で撫でて、慌てて離して、また撫でていた。

 国朝は、背筋が伸びすぎて、かえって肩が上がっていた。

 腰には、あの、塗りの剥げた刀を差していた。

 嶋子は、両手を膝の上に揃えていた。

 絹の袖口から出た指の節だけは、木綿の日と同じだった。

 (……手までは、着替えられないもんな)

 孫兵衛が、目録を読み上げた。

 ――一、太刀一腰。

 俺は、自ら太刀を捧げ、国朝の前に置いた。

「足利国朝殿」

 俺は、両手をついた。

「長らくのご苦節、いかばかりかとお察し申し上げまする」

「関白様の思し召しにより、喜連川三千五百石、御家再興の儀、相決まりましてございます。某は、そのお手伝いを仰せつかった者にございます」

「――足利の御家は、必ず、お立ていたします」

 国朝の膝が、震えていた。

 頬に、汗が伝っていた。

 (……怖がられてるなあ)

 分かってはいた。


 鶏一羽で首を刎ねる男が、両手をついて礼を尽くしている。

 この子から見れば、機嫌を損ねた瞬間に何が起きるか分からない相手である。

 (前世でもそうだった)

 新入りは、俺の顔を見ると背筋を伸ばして、それきり口をきかなくなった。

 現場を止めないために怒鳴る男は、怒鳴らない日でも怖い。

 国朝が、絞り出すように言った。

「……羽柴殿。某は」

「はい」

「某は、戦が、不得手にございます」

 顔を上げないまま、この十九歳は言った。

「弓も、槍も。……人に誇れるものが、何もございませぬ。かような者が当主では、羽柴殿のお役には」

「結構にございます」

 俺は、即答した。

 国朝が、顔を上げた。

「戦の上手な当主は、戦を呼びまする」


 俺は言った。


「足利の御家に要るのは、強い当主ではございませぬ。――長生きなさる当主にございます」

「三千五百石で、家来を食わせ、田を守り、御舎弟を育て、畳の上で死ぬ。それが、どれほど難しいか」

「某は、それができるお方を、心から尊敬いたします」

 国朝の目から、ぼろぼろと涙が落ちた。

 拭きもせずに、この子は毛氈に額をつけた。

 しばらく、そのまま動かなかった。

 それから、身を起こして、腰の刀を鞘ごと抜いた。

 塗りの剥げた鞘を、自分の脇へ、そっと置いた。

「……これは、父の差料にございました」

 国朝は、その鞘に目を落としたまま言った。

「父は、三年前に、塩谷の城で身罷りました。……形見は、この一振りにございます」

「塗り直すことも、叶いませなんだ」

 俺は、黙って聞いていた。

 十九の男は、それから、俺の置いた太刀へ両手を伸ばした。

 押し頂くように持ち上げて、しばらく、額の前で止めていた。

 (――そうか)

 (刀を一振りしか持たない当主に、刀を一振り足したのか、俺は)

「国朝殿」

「……はい」

「その御差料、堺で塗り直させましょうか」

 国朝は、少し考えて、首を振った。

「――いえ。これは、このままで」

「父の、鞘にございますゆえ」

 (……そうか)

 俺は、それ以上、何も言わなかった。

 剥げた塗りも、ほつれた柄巻も、この家の三年分の帳面だ。

 帳面は、書き直すものではない。

 弟の頼氏が、兄の背中を、ぽかんと見ていた。

 それから、恐る恐る、俺を見た。

「……あの」

「はい」

「あの、黒い旗の……鬼、というのは」

 (うわ、聞いてきた)

「関白様が、お書きくださったものにございます」

「秀定様が、お書きになったのではないのですか」

「某が己で『鬼』と書いて掲げておったら、ただの阿呆にございましょう」

 頼氏が、ぷっと吹き出した。

 慌てて口を押さえたが、遅かった。

 押さえたまま、姉の顔を見た。

 嶋子は、叱らなかった。

 俺は、幕の外へ声をかけた。

「高吉」

 十一歳の筆頭家老が、入ってきて平伏した。

「藤堂高吉にございます」

「頼氏殿に、馬をお見せしろ。……手綱は、お前が持て」

 同い年の二人が、幕の外へ出ていった。


          *


 しばらくして、外から、子供の笑い声がした。

 嶋子が、顔を上げた。

 幕の外を見た。

 声のする方を、長いこと見ていた。

「……いつ以来にございましょう」

 独り言のような声だった。

 俺に聞かせるつもりは、なかったのだと思う。

 (……よし)

 そう思ったのは、一瞬だった。

 嶋子は、また、俯いた。

 絹を着て、膝の上の手を見ていた。

 弟たちが救われるほど、この人の顔は暗くなっていった。

 (……ああ、この顔だ)

 前世で、何度も見た顔だ。


 現場を潰して流れてきた職人が、最初の朝礼で見せる顔。

 「俺なんかが、ここにいていいのか」という顔。

 弟たちには、行く先ができた。

 この人には、まだ、何もない。

 あるのは、関白の上意と、俺の帳面の隅の一行だけだ。

「嶋子殿」

 俺は言った。

「少し、歩きませぬか。お見せしたいものがございます」


          *


 関の跡は、小高い丘の上にあった。

 古い社の脇に、それは立っていた。

 杉である。

 馬鹿みたいに、太い。

 大人が三人で手を回しても届くかどうか。幹の皮は幾重にも捻れて、天へまっすぐ伸びていた。

「――従二位の杉、と申します」

 俺は言った。

「鎌倉の昔、藤原家隆卿が手植えなされたと伝わっております。……四百年、近くになりましょうか」

 嶋子が、驚いたように俺を見た。

「……よく、ご存じでございますね」

「昔、こういうものばかり見て歩いておりました」

 (嘘は言っていない。四百年後の話だ、とは言わないだけで)

 休みが取れれば一人で電車に乗って、石垣と社を見に行った。

 案内板を端から端まで読んで、図録を買って、帰りの電車で開いた。

 図録の次は歴史の本で、その次が、なぜか歌集だった。

 現場では、一度も言わなかった。

 言えば半年は笑われる。日焼けした角刈りの監督が、休憩室で古今集を読んでいるのだ。

 (まさか、それで飯を食う日が来るとはな)

 俺は、幹に手を置いた。

 ざらざらしていた。冷たかった。

「大きな杉にございます」


 俺は言った。


「この杉は、ただ、ここに在るだけにございます。何もしておりませぬ。……なれど、道行く者は皆、足を止める」

「――なぜだと、お思いになりますか」

 嶋子が、戸惑ったように瞬きをした。

「……大きな木、だからでございましょうか」

「それも、ございましょう」

 俺は、笑った。

「なれど、某は、こう思うのでございます」

「苦しい日も、悲しい日も、嬉しい日も。この木は、ただ今日という一日を懸命に生きた。……それを、四百年、重ねただけにございます」

「だからこそ、人の足が止まるのだと」

 風が来た。

 梢が、鳴った。

 嶋子は、しばらく、杉を見上げていた。

 それから、幹に目を戻して、こう言った。

「……秀定様」

「はい」

「わたくしは、塩谷へ参って、八年になりまする」

 声は、型のままだった。

 宇都宮の座敷で、二度目の口上を述べた時と同じ声だった。

「望んで参った家では、ございませなんだ」

「なれど、参った以上は、塩谷の妻であろうと努めてまいりました」

「味噌を仕込み、帳面をつけ、家来の妻女の産にも立ち会いました」

「――父が身罷りましたのは、三年前にございます」

 嶋子は、そこで一度、言葉を切った。

「父は、死ぬ前に、わたくしに詫びました」

「……苦労をかけた、と」

 俺は、黙っていた。

 口を挟める話ではなかった。

「わたくしは、何も、申せませなんだ」

「詫びられるほどのことを、わたくしはしてきたのか。それとも、何もかも無駄であったのか。……分からなかったゆえ」

「そして、あの人は、城を捨てて参りました」

 嶋子は、杉を見ていた。

 俺の方は、見なかった。

「――あの八年は、何でございましたか」

 (……俺に、聞くのか)

 宇都宮で、会ったばかりの男である。

 しかも、上意で押し付けられた、次の家の主だ。

 (――だから、聞けるのか)

 (塩谷の者にも、弟にも、聞けないことだから)

 俺は、幹から手を離した。

「宇都宮で、嶋子殿の御手を、拝見いたしました」

 嶋子が、はじめて、こちらを見た。

「節が、太うございました」

「……お見苦しいものを」

「いえ」

 俺は、首を振った。

「あれは、八年、一日も休まずに家を回してきた手にございます」

「無駄な手は、ああはなりませぬ」

 嶋子の唇が、わずかに開いた。

「人も、この杉と同じにございます」

 俺は言った。

「過ぎた年月が何であったかは、後から誰かが決めるものではございませぬ。……一日ずつ、懸命に積んだ。それが、残っておる」

「その手が、証文にございます」

 嶋子が、自分の手を見た。

 膝の前で、指をそっと開いた。

 節の太い指だった。

 長いこと、それを見ていた。

「……父に」

 声が、掠れていた。

「父に、そう申せばよかったのでございますね」

 俺は、少し考えてから言った。

「喜連川へ入られましたら」

「――はい」

「お父上に、そう申し上げなされませ。……今からでも、遅うはございませぬ」

 嶋子は、深く、深く頭を下げた。

 肩が、震えていた。

 声は、出さなかった。

 (……説教だな、これ)

 知っている。あの顔は知っている。


 過去を言い訳にする人間から、先に辞めていった。

 残ったのは、昨日のことを言わずに、今日の一日分を積んだ連中だった。

 俺は、そういう連中と、四十年、飯を食ってきた。

 この人は、八年、言わずに積んできた側だ。

 ――その積んだものを、亭主が、一晩で蹴って出て行った。

 (……いや待て)

 (今の、傍から見たらどうなんだ。……口説いてないよな? 説教だよな?)

 (――説教だな。うん)


          *


 陣幕へ戻ると、老人が立っていた。

 剃髪して、法体である。


 だが、背筋が、若い侍より伸びていた。

「――細川幽斎にござる」

 (うわ、来た)

「羽柴秀定にございます。……ご高名は、かねがね承っておりまする」

 室町の生き字引。足利義輝・義昭に仕え、歌道と有職故実の頂点にいる男である。

 その後ろに、鋭い目の武将が一人。細川越中守忠興。

「羽柴殿。目録を、拝見つかまつった」


 幽斎が言った。


「宛所は、いかがなされた」

「『人々御中』といたしました」

 幽斎の目が、光った。

「どこで学ばれた」

「大谷刑部様に、頭を下げてお教えいただきました」

 ――老人が、ぽかんとした。

 それから、腹を抱えて笑い出した。

「知らぬと申されるか! 十万石の殿が、知らぬと!」

「存じませぬゆえ」

「よい! 実によい!」

 幽斎は、袖で目尻を拭った。

「知ったかぶりで公方家に恥をかかせる大名なら、掃いて捨てるほど見申した。……羽柴殿。故実で困ったことがあれば、いつでもこの幽斎に尋ねなされ。喜んで知恵を貸し申す」

 (――今、とんでもないものを貰ったな、俺は)

 幽斎が、丘の上の老杉へ目をやった。

「白河の関で会うたのも、何かの縁じゃ。……羽柴殿。この関を詠んだ歌を、ご存じか」

 (――来た)

 抜き打ちの試験である。

 (この爺さん、褒めながら測ってやがる)

「――都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」

 俺は答えた。

「能因法師にございましょうか」

 幽斎の目が、大きくなった。

「……羽柴殿は、歌もなさるか」

「読むばかりにございます。詠むのは、不調法にて」

「一首、所望してもよろしいか」

 (勘弁してくれ)

 (読むのと作るのは、図面を読むのと引くのくらい違うんだぞ)

 だが、断れば「教養を惜しんだ」ことになる。

 下手を晒す方が、まだ安い。

 俺は、関の向こうを見た。

 輿が三挺、担ぎ手に囲まれて、日陰で休んでいた。

「――越えてゆく 関のあなたに 家あれと 祈るばかりの 秋の旅かな」

 沈黙があった。

 (……ああ、滑ったな)

 幽斎は、しばらく黙っていた。

 それから、静かに言った。

「技はござらぬ」

「――は」

「じゃが、嘘がない」

 老人は、輿の方を見た。

「……家、と詠まれたな」

 俺は、答えなかった。

 答えようがなかった。

 幽斎が、そのまま四半刻ほど、足利家の格式について喋り倒して去っていった。

 残った忠興が、俺を見た。

 冷たい目だった。

 その目が、幕の外の桐箱を、ちらりと見た。

 (……気づいたな、この人。品の出どころに)

 忠興は、何も言わなかった。

 ただ、去り際に、ぼそりと言った。

「……災難ですな、羽柴殿も」

 (あなたもでしょう)

 俺は、深々と頭を下げた。


          *


 昼の休息が終わった。

 俺は、帳面を開いて、一日分を書いた。

 ――足利国朝 十九。頼氏 十一。嶋 二十三。


 ――太刀一腰、絹十疋、紬五疋、真綿三十把、小袖三領。代銀、相払い済み。


 ――輿三挺。小西摂津守様より。代銀、相払い済み。


 ――足利頼純殿、三年前、塩谷にて御逝去。御墓所、喜連川にて尋ぬべきこと。

 それから、別の紙を出して、短い文を書いた。

 ――白河にて、足利の御方三人に目録を差し上げ候。太刀一腰、御当主へ。

 ――隠し事はいたさぬと申し上げ候ゆえ、書き記し候。

 宛先は、春姫である。

 (……こういうのは、後から知られる方が、何倍も面倒くさい)

 (面倒くさい、じゃないな)

 俺は、書き直した。

 (――約束したんだ、俺は)

 筆を置いて、外へ出た。

「――出立!」

 四百十六の背旗が、いっせいに立ち上がった。

 黒に、黄の桐。

 その前を、「鬼」の一文字が進んでいく。

 後ろから、輿が三挺、ゆっくりとついてくる。

 簾が、少しだけ上がっていた。

 頼氏が、こちらを見ていた。

 俺が手を上げると、慌てて簾が下りた。

 下りる前に、隣の輿の簾が、ほんの少しだけ上がったのが見えた。

 頼氏の方ではなく、姉の方だった。

 すぐに、下りた。

 (――一人も、死なせん)

 俺は、鞍の上で、そう決めた。

 三人とも、四百十六人も、これから増える家来も、伊豆と相模の百姓も、全部だ。

 (この先に何があるかを、俺は知っている)

 葛西も、大崎も、和賀も、稗貫も。


 ――そして、九戸も。

 知っていて、止められない。

 知っていて、行くしかない。

 関を、越えた。

 ――陸奥だった。

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