1話
ぴちょん――
ぴちょん――
規則的な水音に、少しずつ意識が浮上していく。
湿った匂いとひんやりした空気。目を開ければ薄闇の奥に岩肌が浮かんでいた。
そして――
「痛っ――」
強烈な痛みが走った。浅く乱れた呼吸を何度も無理やり整えて、痛みをやり過ごす。
ようやく覚醒した頭で全身へと神経を行き渡らせれば、右足と右脇腹がひどく痛い。甘く見積もっても、骨が折れているのかもしれない。とはいえ、あの高さから落下して生きているだけでも奇跡だ。
体勢は変えず、視線だけを巡らせた。どうやら薄暗い洞窟のようだった。横から差し込む光の方へ目をむけて、思わず息を呑んだ。
――卵
縦穴の上から差し込む日の光をわずかに避ける位置に、巣と大きな卵がひとつ。さらに目を凝らせば、薄灰色の殻が淡く発光している。
――まずい
見るのは初めてだが、それが「何」であるのかはよく知っている。幼き頃から大人たちが子守唄がわりに口にする伝承。何とか助かったと思ったが、実は最悪の場所へ落ちていた。
動く手足で何とか立ち上がり、洞窟の奥へ続く暗闇に向かって移動する。外へと続く横穴がなければ、どちらにしてもこの身体では脱出できない。アレに食われるか、干からびて死ぬか。――後者の方がまだマシだ。そう思って足に力を込めた瞬間、岩に足を取られて転倒した。
その時――
背後でひび割れの音が響いてきた。荒い息を漏らさないよう歯を食いしばりながら、ゆっくりと振り返る。ちょうど卵の向こう側から鼻先が出てくるのが見えた。
淡く発光していた殻は、今は緩く点滅している。パリパリと乾いた音と共に頭が見えてきた。上方から差し込む光へ向かって鼻先を伸ばしているようだった。殻の点滅が消え、代わりに殻そのものが振動し始めた。次いで、いく筋ものヒビが走り、とうとう殻がパリンと澄んだ音を立てて飛び散った。
中から現れたのは、藍色の竜。濡れた全身が差し込む光に照らされ、宝石のように輝いている。
綺麗だ……
身の危険すら忘れ、その姿に魅入ってしまった。
竜は身震いすると、折りたたんだ両翼をゆっくりと広げる。長い尾がそれに合わせて左右に振れる。
そうして――こちらを振り向いた。
暗がりにいる自分の姿は見えないはずなのに、銀色の瞳が確実にこちらを見据えている。目が合ったと思った瞬間にはもう、竜は跳び上がってすぐ目の前に着地していた。
食われる――
竜は孵化までに長い年月を要する。そうして孵化した幼竜は極度の飢餓状態にあり、最初に見たものを食らう――そう聞かされて育った。
目の前にいる藍色の竜とて同じだ。最初に目についた自分を生まれて初めての獲物として選んだ。
獣に食われて命を落とすのは嫌だと思っていたが、こんな美しい竜であるならば、むしろ光栄かもしれない。――そう思えるほど、藍色の竜に目を奪われた。両脚で立って自分を見つめる銀眼の位置は、子供の自分よりやや低い。こんなに小さくてどうやって自分を食べるのだろうかと逆に心配になってきた。
「……クルッ……クルクル」
お互いに身動きせず対峙していたら、妙な音が聞こえてきた。
「クル……クルル」
どうやら目の前の藍竜から聞こえてくる。じっと見つめれば、藍竜はスンスンと辺りの匂いを嗅ぎ始めた。そして、匂いを探るようにこちらへ近づいてくる。思わず後ずさったが、岩に当たって尻餅をついてしまった。竜の鼻先が首筋に触れる。
食いちぎられる――とっさに目を閉じた。
だが、竜は鼻先を押し付けて何やらスンスンと匂いを嗅ぐだけで何もしてこない。恐る恐る目を開ければ、眼前に銀色の光。
「――っ!」
同時に藍竜が大きく口を開けた。
「きゅるるん――」
そこから聞こえてきたのは、愛らしい鳴き声。
「……は?」
目を細めた藍竜は、クルクル喉を鳴らしながらゴツゴツした頭を胸に擦りつけてきた。
「きゅう」
どう見ても獲物にする行動ではない。――むしろ
「お前、オレを親だと思ってるのか?」
とんだ勘違いだ。だが、幼竜はへばりついたまま離れない。あまりにも鼻先を擦り付けてくるので、思わずその頭を撫でてしまった。
「……クルッ、クルッ、クルルル」
喉の音がさらに盛大になる。これはもう、決まりだろう。だが、それはそれでかなり不味い。本来の親が戻ってきた時に、確実に殺される。それこそ本当に、最初の食事にされかねない。
「――お前、オレを連れてあの穴から出られるか?」
縦穴は十五メートルほど。生まれたばかりの幼竜が自分より大きい人間を抱えて飛ぶには、いささか無理難題な要求だろう。そして、外に出られたとて、この怪我で里まで降りるのは無理だ。こんな山奥まで捜索隊が来るとも思えない。
――どう考えても打つ手がない
だが、幼竜は嬉しそうに声を上げた。
「きゅるっ!」
任せろと言わんばかりだった。次の瞬間、幼竜は背中に回って服を咥え、前足で身体を抱えてきた。バサッ、バサッと背後で羽ばたく音が聞こえてくる。
「いや、待て!お前生まれて初めての飛行だろ!」
予行練習もなく、しかも人間を抱えて飛ぶなど絶対に無理だ。壁に激突するか墜落するしか見えてこない。
「きゅっ!」
「行けるって、何を根拠に――」
言い終わらないうちに、つま先が浮いていた。だが、持ち上げるだけで精一杯なのか、それより前へ進まない。上下左右に振り回され、酔いそうになる。
「無理じゃないか」
そう言うと、一気に加速し出した。右に傾いて目前に岩壁が迫る。今度は左上方へ急上昇し、真下へ急下降。地面に足がつく直前で持ち直してもう一度上昇した。そのままゆっくりと縦穴を上昇していく。バッサ、バッサと、渾身の羽ばたきが絶え間なく響く。
そうして上下に揺られながらも、とうとう縦穴を抜け出すことができた。




