外側の歩き方
外にいるのが自分かどうかなんて、
確かめたことはなかった。
「おはよう」
「うわっ……」
女性は首をかしげる。
その角度は蒼の癖に似ているのに、どこか滑らかすぎた。
「……?」
蒼は額に手を当て、ゆっくり息を吐いた。
「夢じゃなかったのか……」
女性は小さく笑った。
朝の光が頬に当たり、蒼の顔がわずかに透けて見えた。
「夢じゃないよ。
静かで……落ち着く」
「……そう」
女性は視線を床に落としたまま、近づいてくる。
距離が縮まっても、蒼の顔を見ようとしない。
「朝になったから……少し、試してもいい?」
「何を」
女性は自分の頬に触れた。
指先が、蒼の癖よりも丁寧に動く。
「この顔。
まだ、うまく動かないから」
「……練習?」
女性は小さく頷いた。
その頷き方も、蒼の動きをなぞっている。
「うん。……崩れるの嫌だから」
蒼は少しだけ息を吐いた。
「……成り代わるとかじゃないんだよな」
女性は首を傾けた。
その角度が、蒼の癖とほんの少しだけ違う。
「ならないよ。
ただ……形が崩れないようにしたいだけ」
「……まだ“蒼”じゃないし」
女性は瞬きをした。
左右のまぶたが、ほんのわずかにずれる。
女性はしばらく黙った。
朝の光の中で、蒼の顔がゆっくりと馴染んでいく。
「……じゃあ、ゆっくりでいい?
急がないから。
ただ……慣れたいだけ」
「慣れるって、何に?」
「……蒼に」
「いや、俺いるけど」
「うん」
「だから、慣れたい」
「……好きにすれば」
女性は小さく笑った。
蒼の笑い方に似ているのに、蒼よりもずっと柔らかい。
「ありがとう」
蒼は胸の奥がざわつくのを感じた。
女性は蒼の呼吸に合わせて、ゆっくり息を吸った。
その呼吸は、蒼よりも深く、蒼よりも温かく——
気づけば、同じリズムになっていた。
女性は蒼の前にしゃがみ込んだまま、
指先で床をなぞるようにして言った。
「君は外で……何したらいいの?」
「……アルバイトだけ」
女性は顔を上げた。
蒼の顔なのに、蒼よりも表情が柔らかい。
「なんの?」
「コンビニと古本屋だよ」
女性はゆっくり瞬きをした。
左右のまぶたが、ほんの少しだけずれる。
「……ふうん」
蒼の声を真似たような、
でも蒼より少しだけ温度のある声だった。
女性は立ち上がり、部屋の中を歩き始めた。
歩幅は蒼と同じ。
足音も蒼と同じ。
ただ、蒼よりも迷いがない。
「コンビニ……こうやって歩く?」
「いや、そんなに丁寧じゃない」
女性は立ち止まり、
蒼のほうへ振り返った。
朝の光が頬に当たり、
蒼の顔がわずかに透けて見えた。
「古本屋は?」
「……普通に。
棚の間、歩くだけ」
女性は棚もない部屋の中で、
見えない本棚の間を歩くように動いた。
蒼の歩き方よりも、
ずっと静かで、ずっと滑らかだった。
「……こんな感じ?」
「いや……俺、そんな綺麗じゃないよ」
女性は首を傾けた。
その角度は蒼の癖に似ているのに、
蒼よりも“整って”見えた。
「でも……君、こう見えた」
蒼は言葉を失った。
女性はまた蒼の前に戻り、
蒼の呼吸に合わせて、ゆっくり息を吸った。
「ねえ……外の蒼って、どんな顔して歩くの?」
蒼は答えられなかった。
女性は蒼の顔を見ないまま、
自分の頬に触れた。
さっきよりも、少しだけ蒼に近い歩き方で。
……まだ、合ってない気がする
女性は蒼の言葉を聞いて、
ほんの一瞬だけ瞬きを止めた。
その止まり方が、人間の「考える」ではなく、
音のない空白みたいだった。
「……緑」
「うん。緑さん」
女性はゆっくりと頬に触れた。
蒼の癖をなぞるように、指先が滑る。
「いいね。呼ばれると……形が安定する」
「そう」
緑はソファの前に座り込んだ。
膝を抱える姿勢が、蒼の癖に似ている。
でも、蒼よりもずっと丁寧で、静かだった。
「蒼は……蒼って呼ばれたら、どう感じるの?」
「別に。普通」
緑は小さく首を傾けた。
その角度は蒼の癖に近いのに、
蒼よりも“正しい形”をしていた。
「普通……」
「うん」
緑はしばらく黙った。
朝の光が頬に当たり、
蒼の顔がゆっくりと馴染んでいく。
「……じゃあ、わたしは緑でいい」
「うん」
緑は小さく笑った。
その瞬間、
蒼の中で、何かが少しだけ“合った”。
今までずれていた歯車が、
わずかに噛み合ったみたいに。
理由はわからない。
ただ、
——そのほうが、楽だと思った。
朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。
緑はその光の中で、ゆっくりと立ち上がった。
動きはもう、ほとんど蒼と同じだった。
いや、蒼よりも少しだけ滑らかで、無駄がない。
「……行ってみてもいい?」
蒼は少しだけ顔を上げた。
「外?」
緑は小さく頷いた。
「うん。崩れるかどうか、知りたい」
蒼はしばらく黙っていた。
止める理由は、いくつか浮かんだ。
でも、どれも強くはなかった。
「……じゃあ、マスクしていけよ」
緑は一瞬だけ動きを止めた。
その止まり方が、ほんの少しだけ遅れる。
「どうして?」
「外は、顔見られるだろ」
緑はゆっくりと自分の頬に触れた。
その指先は、もう迷っていなかった。
「……でも、この顔なら大丈夫でしょ」
蒼は、答えなかった。
“正しい”気がしたからだ。
それ以上に、
訂正する理由が、思いつかなかった。
玄関の前で、二人は並んだ。
同じ顔が、同じ高さにある。
靴を履く仕草も、ほとんど同じだった。
ただ、緑のほうが少しだけ静かだった。
「ねえ」
「ん」
「外の蒼って、どっち?」
蒼は手を止めた。
一瞬だけ、考える。
でも、すぐにやめた。
「……どっちでもいいだろ」
緑は小さく頷いた。
ドアを開ける。
朝の空気が、部屋の中に流れ込んできた。
少し冷たくて、少しだけ騒がしい。
先に一歩踏み出したのは、緑だった。
迷いはなかった。
足の運びも、視線の高さも、
まるで最初からここに慣れていたみたいに自然だった。
蒼は、その後ろを歩いた。
外は、普通だった。
通勤の人。
自転車。
コンビニの袋をぶら下げた学生。
誰もこちらを見ていない。
——いや。
一人だけ、すれ違いざまに、ちらっと見た。
その視線は、蒼を通り過ぎて、
そのまま、緑に止まった。
ほんの一瞬。
でも、そのあと、何もなかったみたいに逸れた。
緑は、その視線に気づいていないみたいだった。
歩きながら、小さく言う。
「……大丈夫そう」
その声は、蒼の声だった。
でも、蒼よりも少しだけ、ちゃんと響いていた。
蒼は、隣を見た。
そこにいるのは、自分の顔をした何か。
――でも
“外側”として成立しているのは、明らかにあっちだった。
蒼は、自分の手を見た。
何も変わっていない。
でも——
どこか、外側から切り離されている気がした。
緑が、ふと立ち止まる。
「ねえ」
振り返る。
その動きが、もう完全に蒼だった。
「コンビニ、あっちでいい?」
蒼は少しだけ遅れて頷いた。
答えたのは自分のはずなのに、
決めたのは、あっちのような気がした。
歩いていたのは、
たぶん僕だったと思う。




