表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

借りた顔は、よく笑う

顔を見ないでください

何をしても、特に何も思わなかった。

面白いとも、つまらないとも。

だから、何をしていたかもあまり覚えていない。


 深夜二時。 街灯の届かない路地を、無野蒼はマスクを忘れたまま歩いていた。

 それに気づいたのは、だいぶ歩いてからだった。


でも誰もいない。だから顔を晒していても、構わないはず。


路地の奥に、人影が倒れていた。

近づくと、それは人の形をしていた。 ただ、首から上の部分が、のっぺりと平らで、影一つ落ちていない。


「……あれ」


しゃがみ込んで肩に手を置いた瞬間、冷たい指が蒼の腕に絡みついた。


皮膚の内側から、何か大事なものがゆっくり吸い取られていくような、粘つく感触。

 

まるで長時間歩き続けた後のような、重い倦怠。

蒼は眉をわずかに寄せただけだった。

それ以上、気にする理由もなかった。

触られること自体は、珍しくなかった。


「……死ぬかと思った」


その声が、自分のものとは少し違う気がした。 スマホを出そうとすると、その存在は慌てたようにもう片方の手を伸ばし、蒼の目をそっと覆った。


掌は湿っていて、妙に人間らしい体温が残っていた。


「見ないで……今は、まだ」

 

数秒後、手が離れた。 そこに立っていたのは、蒼にやけに似た女性だった。


髪の分け目、目の位置、唇の形——ほとんど同じ。


ただ、笑うときの目尻の下がり方が、蒼の顔には絶対にない柔らかさだった。


まるで、誰かが蒼の顔をじっくり観察して、少しだけ「優しく」作り直したみたいに。


「……借りるね」


女性は小さく息を吐き、そう言った。

蒼はぽつりと呟いた。


「……ドッペルゲンガー?」


女性は肩を落として、困ったように微笑んだ。


「うん……バレちゃった」


その笑顔は、蒼が見たことのないほど優しかった。 優しすぎて、逆に胸の奥がざわついた。


同じはずの輪郭なのに、表情が動くたびに、ほんの少しだけタイミングがずれる。


瞬きのあと、瞼が上がる速度が左右で違う。まるで、不慣れな義体を操作しているようだった。


「俺、死ぬの?」


「多分。でも、少し前の人と混ぜてるから……大丈夫だと思うよ」


女性は一歩だけ近づき、視線を自分の足元に落としたまま続けた。


「……お願いがあるの」


路地の奥で、風がひゅうと鳴った。 蒼はまだ何も理解していなかった。


ただ、目の前の「自分に似た誰か」が、まるで自分の一部を失ったように小さく震えていることだけは、はっきりとわかった。 彼女の瞳は、蒼の顔を避けるように少し逸らされていた。



 蒼の部屋は、ワンルームの古いアパートだった。

窓には厚いカーテンが引かれ、街灯の光すらほとんど届かない。

ここではマスクを外しても、誰も文句を言わない。


「ここでいい……?」


女性は小さく頷き、部屋の隅に立ったまま、しばらく動かなかった。


彼女は相変わらず、蒼の顔をまっすぐ見ようとしない。視線はいつも少し下か横に逸らされている。


蒼はソファに腰を下ろし、ぼんやりと彼女を眺めた。


「とりあえず、朝までだ。朝になったら……どうするか考えよう」


女性はゆっくり近づき、床の端に腰を下ろした。


距離は、目を合わせないちょうどいい間合い。

彼女の動作は蒼のそれに似ていた——歩幅、肩の落ち方、息を吐くタイミング。 


でも、どこか違う。


まるで、誰かが蒼の動きをビデオで観察して、丁寧に真似しているだけみたいだった。


「……ありがとう」


彼女の声は柔らかく、優しかった。

でもその優しさは、響きが薄い


夜が更けるにつれ、部屋の空気が重くなった。

二時間ほど経った頃、女性の指先が小さく震えた。


彼女は慌てたように自分の頰に手を当て、そっと撫でる。


その瞬間、蒼は見た気がした——彼女の目尻の柔らかい下がり方が、ほんのわずかだけ、色を失って平坦になっていく。


「……大丈夫?」


声をかけると、女性はすぐに手を下ろし、微笑んだ。


優しすぎる笑顔。


でも今は、その笑顔が少しだけ「空っぽ」に見えた。


蒼の顔を真似しているはずなのに、笑うたびに「蒼らしさ」が薄れて、ただの肉だけが残っている。


「うん……少し、疲れただけ。

触っても……いい? また、少しだけ」


彼女はそう言って、ゆっくり手を伸ばした。


指先が蒼の腕に触れた瞬間、あの粘つく倦怠が再び広がった。


栄養を吸われる感覚。

でも、何かが減った気はしなかった。


女性は目を逸らしたまま、静かに言った。


「同じ顔の人と、こんなに近くにいるの……初めてかも。怖くない?」


蒼は答えに詰まった。


怖くない、とは言えない。

でもその怖さは、彼女が自分を殺すかもしれないというものじゃなかった。


もっと静かで、もっと粘つくもの——


鏡に映った自分の顔が、笑っているのに、中身が空っぽで、ただ形だけを保っている。


「俺の顔……どれくらい持つんだ?」


女性は少し間を置いて、答えた。


「人によるよ。

強い記憶や、深い感情が多い人ほど、長く保てるみたい。」

「……あ。消えやすい。この顔、すぐ透けちゃうね」

 

彼女はそう言って、小さく笑った。

その笑い声は、蒼の喉から出たもののように聞こえた。


ただ、感情の深みが足りなくて、すぐに平坦な音に変わる。


蒼はふと思った。

彼女が「蒼に似ていない」のは、顔のせいじゃない。


でも、その下にあるのは、ただ生きるために必死に形を保とうとする、何か別のもの。


女性は再び目を閉じ、顔を保つように静かに息を整え始めた。


その横顔は、ますます蒼に似てきていた。

似れば似るほど、彼女の「人間らしさ」が薄れていくのが、はっきりとわかった。


朝までは、まだ時間がある。

この部屋で、二人は同じ顔を共有しながら、微妙にずれ続けていた。



 女性は蒼の腕に触れたまま、

ゆっくりと息を吸い込んだ。

その呼吸の音が、蒼の呼吸とほんの一瞬だけずれていた。

吸うタイミングが遅れ、吐くタイミングも遅れる。

まるで、蒼の呼吸を録音して、少しだけ再生速度を落として真似しているようだった。


「……そんなに、俺の顔って薄いのかな」


女性は目を閉じたまま、小さく頷いた。

声に抑揚はほとんどない。


「うん。

形はあるのに……中身が、あんまりない。

だから、すぐに色が抜けちゃう」


「……ごめん」


女性は首を横に振った。動きは丁寧だが、感情が伴っていない。


「違うよ。

薄い顔は……混ざりやすいから。

わたしには、ちょうどいいの」


優しさの輪郭は揃っているのに、奥に何も詰まっていない。

 

 

蒼はふと、彼女の横顔を見た。

さっきより、確かに蒼に似てきている。

目尻の線、口元の動き、肩の落ち方——すべてが近づいている。

なのに、似れば似るほど、人間らしさが溶けていく。

目尻の柔らかさはすでに消え、

口元は蒼の癖を正確に再現しているのに、

そこに乗っているのはただの「動き」だけ。


「……俺の顔、そんなに使いやすいかな?」


女性は少し間を置いた。考える素振りすら、どこか練習したように見えた。


「……ちょうどいいよ。君の顔、誰も見てないみたいだから」

 

蒼の胸に、静かで冷たい痛みが広がった。

痛みというより、ただの「欠落」の感覚だった。

女性は続けた。声は穏やかだが、底が抜けている。


「君の“薄さ”は、私にとって、とても静か。だから、居心地がいい」


「……それ、褒めてる?」


女性は微笑んだ。

蒼の笑い方に似ている。

でも、蒼よりずっと整っていて、ずっと空っぽだった。


「褒めてないよ。

でも……助かってる」


部屋の時計が、コツ、コツ、と規則正しく鳴る。

その音に合わせて、女性の呼吸が徐々に蒼の呼吸と同期していった。

遅れていたタイミングが、まるで寄生するように、じわじわと重なっていく。


蒼は、彼女の喉仏が自分と同じリズムで上下するのを眺めていた。自分よりもずっと、血の通った動きで。

 


彼女が着ているのは、蒼の顔。

 だが、その輪郭は蒼が纏うよりもずっと、生きるための熱を帯びているように見えた。

 

 外に出るなら、顔を隠さないといけない。

 

「……ねえ、明日の朝、どっちがマスクをつけて外に出る?」


 そいつは、俺の顔をしていた。

でも、俺よりちゃんと“人間みたいに”立っていた。


どちらが本物かは、あまり重要ではありません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ