異種間交歓(桃)
魔界は別名、冥界とも呼ばれているらしい。
誰に呼ばれているかというと、それはもちろん隣の界――人間界、とひとまず俗称されているところからだ。
あちらはどうか知らないけれど、魔界ではここ以外にいわゆる異世界というものが無数に存在するというのは当たり前に皆が知っている常識で、その中でも唯一ある程度自由に行き来できる異世界を、便宜上人間界と呼んでいる。
元々二つの別の世界だったものが、何かの偶然で一部重なり合ってしまったのか。はたまた、ひとつの世界が二つに分かれてしまったのかはわからない。魔界の住人はそういう理由とか原因とかにはあまり頓着しないのだ。現状がこうなんだからと受け入れる。深く考えないんだな、要するに。実力主義と言えば聞こえはいい脳筋集団なもんだから。
だけど、良いところももちろんある。例えばこの人間界。魔界の住人からしてみればあまりにも弱っちい人間なんて種族が支配している。でも、魔界の住人達は「奴らに取って代わって俺たちがあの世界を支配してやろうぜ!」とは思わない。人間たちがあまりにも弱すぎるからだ。
実力主義っていうのは、簡単に言ってしまえば強いものが正義! ではあるんだけれど、だからといってあまりにも力の差があり過ぎる相手を暴力的に支配することを良しとはしていないのだ、面白いことに。おかげで我らがスライム族も平穏無事に生きてます。って、そうじゃなくって。そうそう、人間に対する魔界住人の基本的な態度だっけか。
まっとうな魔界住人にとって、人間っていうのはあまりにも弱すぎて、相手をしようとすることそれ自体が恥みたいなものらしい。「え、あいつ人間くらいしか勝てそうな相手いないの? うわー、マジだせえ」ってことだ。ちなみにこのセリフ、嘲笑付きならまだしも、ひょっとすると憐れまれてしまう可能性もある。
蟻一匹潰すのに核兵器を持ち出すようなものだ。臆病者の誹りは免れないし、その評価は当人だけじゃなくその一族にまで波及することは間違いない。だから、万が一にでも人間界侵略を目論む輩がいれば、一族の恥を晒すなとばかりに同族がこぞってそいつをメッタメタにすることだろう。そういう風に、人間界の平和は保たれている。
実際、過去に人間界の支配を目論んだ下級魔族がいたんだそうだ。理由は単純。人間風情に世界をひとつ支配させておくのは魔族のプライドが許さない云々かんぬん。もちろんぷちっと魔王様にお仕置きされました。わざわざ勇者なんてものを人間たちに選ばせて、ほんのちょっぴり助力してやってね!
魔王様直々のお仕置きだったのなら、その下級魔族にとっては手も足も出ない代わりに「人間は下賤で下等」という価値観も変わらなかっただろう。そこを敢えて手間暇かけて、見下しきってた人間に止めを刺させる魔王様。素敵に鬼畜な所業だと私は思うのだけれど、実際こうしてその魔王様自身を目の当たりにすると、うっかりその事実を彼方に放り投げてしまいそうになる。
「前髪の寝癖は結局諦めてしまうのだな……そうだな、もう出ないと遅刻してしまうからか。って、ああ! またあの妹は弁当箱を忘れていったのか! せっかく早起きして姉のお前が作ってやったというのに……なんと、届けてやるのか。だが朝の講義、は、『ギリギリ間に合うかな』だと……? 馬鹿を言うな! あの近道は! あの近道だけは使ってはならぬぞ!」
それくらいならば遅刻、いやサボってしまうのだ! と身を乗り出して叫ぶ魔王様の手は、水鏡の縁をぎっちりと握りしめている。
まるでスポーツ観戦でもしているかのようなノリだけれど、魔王様が水鏡で見ているのはそんなものじゃない。そもそも魔界の住人にとって、ルールありきで安心安全なスポーツとかスリルがなくてつまらないらしいし。
じゃあ何を見ているのかっていうと、端的に言えば異世界の光景だ。たぶん、私の前世と同じか、限りなく近く似通っている世界。しかも、魔王様が見るのは漠然とした異世界全体じゃない。ピンポイントで、まるで毎週の放送を楽しみにしているドラマやアニメのファンのように、特定の人や場所のアレコレを水鏡越しに眺めているのだ。
これは、最近魔界で流行りの娯楽。異世界の存在は認知されていても、具体的にどういう世界があるのか知らなかった魔界の住人達向けに、千里眼を持つ一族が始めた新しいビジネスだ。まあ、魔界版テレビみたいなものだと思ってくれれば間違いないんじゃないかな。で、魔王様も見事にそれに嵌ってしまっていると。
水面に映るのはお人好しそうな女の人。どうも大学生らしい。中学生の妹がいて、忙しい母親と交代で家族のお弁当を作っているんだとか。つまりこれは前世で言う日常系ほのぼのドラマなんだなと思えば、ところがどっこい。そんなハートフルな物語が魔界住人の需要にマッチするわけがない。
実は今映っている女子大生はいわゆる脇役。主人公にあたるのは彼女の妹である女子中学生で、なんとこの女子中学生、異世界から来た謎の生物に頼まれて、異世界からの侵略者〈ダーク・ソル〉軍団と戦う変身ヒロインだったのだ。
有体に言えば魔法少女ものだよね。日曜朝九時とかから放送してる女児向けアニメだ。でも、魔法少女とか言いつつ決め技にいくまでがどう考えても殴る蹴るの肉弾戦だわ、決め技も必殺技と言うよりは、ダウンした敵をどこか遠くに放り出す後片付け技だわで、実力重視の魔界住人間達には大いに受けた。肉弾戦一辺倒じゃなく、敵側も搦め手を駆使してきたり、魔法少女として戦っていることを一番身近な家族に隠すための苦労も適度に映されたりなど、千里眼の一族の編集が本気過ぎて若干引く。だってこれ、映っている先の異世界ではリアルなんだぜ……ここまでピンポイントで切り継ぎされて、作りこまれた物語みたいになるとか超怖い。
他にも人気なのは古代ギリシアやローマを思わせる泥臭い感じの戦争ものだったり、生き残りをかけたサバイバルものだったり、どこかしら血腥いものがほとんどだ。今魔王様が見ている魔法少女もどきくらいじゃないだろうか? 間抜けな敵とのコメディくさいやり取りで、ほのぼのとしていられるのって。
本日分の放映が終わったらしい。お弁当を届けに妹の中学校に行って、校門を出たところで姉に迫る影……! というところで切るとは、なかなか引きも考えている。「後ろだ、後ろを見るのだ!」とか、ひと昔前のコントみたいなセリフを言っている魔王様はひとまずスルーしよう。ハマりすぎでしょう、魔王様。
「いつものことながら、どうしてこうも続きが気になるところで終わるのだろう……どう思う、シシィ」
「……はあ、そーですねえ」
それがあちらさんの商業戦略なんじゃーないでしょうか。そして魔王様は、面白いくらいにそれに引っかかっちゃってるんじゃねーでしょーか。
そんな感じで適当に流したいけど、そこは腐っても魔王様。水鏡に向かっていた注意がこちらに向いたことで、半端じゃない威圧感に晒されてとてもじゃないけどそんな軽口は叩けない。
だからまあ、ここはオブラートに包んで「そうやって視聴者の期待を次回まで惹きつけるためなんでしょうねえ」とだけ言っておく。実際、魔王様はその戦法にかなり嵌っちゃっていることだし。
「むう、そういうものか。なかなかアレらも考えているのだな」
うんうん頷いて感心してるとこ悪いけど、これくらいは多分、感心されるまでもなく当たり前のように千里眼の一族がやってきたことだ。
魔界においては、彼の一族は昔から占い師みたいな存在として重宝されている。が、見たものを全部そのまま素直に相手に伝えるかと言えば、もちろんそこには色々な駆け引きがあるわけだ。
どの情報をどこまで伝えるか、それこそ一族が興って以来ずっと他の魔界住人達と駆け引きを繰り返していて、そのノウハウがこの新ビジネスにも生かされている。……基本脳筋の魔界住人達相手じゃあ、その駆け引きも大分生ぬるくちょろいものだったんだろうなあっていうのはさて置いて。
水鏡から離れた魔王様は、いそいそと脇に置いてあった等身大クッションを引き寄せた。
膝に抱え込んでぎゅうと腕を回せばあら不思議。立派な抱き枕と変わったそれには、認めたくはないが目を逸らしたくても逸らせない、無駄に精緻な人物画が等身大で描かれている。
ああこういうの、前の世界でもあったよね、知ってる知ってる。初めて目にした時、そう遠い目をした私の気持ち、わかってもらえるだろうか。だって魔王様がぎゅうぎゅう抱きしめているのは、さっきまで水鏡に映っていた女子大生のリアル過ぎるイラスト付きの抱き枕なのだ。
はっきり言っていい。魔王様は、オタクだ。千里眼の一族が放映する、どことも知れない異世界の物語で、役割としては重要だけど、所詮脇役でしかない平凡な女子大生を、私費でグッズ化しちゃうレベルで愛しちゃっているのだ。
わかるだろうか、このなんとも言えない微妙な気持ち。わかってもらえるだろうか。公式がやらないなら俺がやる! とばかりに、日々せっせと最推しキャラのグッズ作りに余念のない魔王様を見守るこの気持ち。なまじ魔王様が冷酷無慈悲で絶世の美貌を誇っていたことを知っているだけに、この行くところまで行き着いちゃった感のあるオタクっぷりに最早驚愕を通り越して諦念しか抱けないこの気持ち。私は魔王様に呼び出される度に、現実逃避したい気持ちでいっぱいです。
無駄に金持ちで権力も暇も持て余してるもんだから、魔王様の私室は日々くだんの女の子のグッズに浸食されていっている。ちなみに、流石に彼女そっくりのダッチワ……もとい、ちょーっと精巧過ぎるマネキン人形もどき作成は全力で阻止させていただいた。同じ女子として、流石にその一線は超えてはならぬと決死の覚悟で魔王様に意見しましたとも。
とはいえ、正攻法じゃあ魔王様に逆らうなんて文字通り自殺行為だ。ちょっとイラッとしただけで相手をぷちっと潰しちゃえるくらいにはお強い魔王様だもの。
だがしかし。前世でちょっくらオタクの傾向を把握していた私には、切り札とも言うべき決め台詞があった。
まあ、言葉としては簡単だ。ちょっと首を傾げつつ、こう言えばいい。「それ、その子が知ったらどう思いますかねえ」と。私首ないけど。
効果は覿面。この際、住む次元どころか文字通り世界が違うのにどうやって魔王様の所業が彼女に伝わるのかとか、そういう現実的な思考は星雲の彼方に放り投げちゃって構わない。
あり得ないとわかっちゃいても、ついつい考えてしまうのがオタクというものだ。今ここにその人がいたらどうなるかな、と。
以来、魔王様は大変自粛をなさっている。くだんの女の子がいやんあはんな目に逢う、俗にいう同人誌なるものも、こそこそと見つからないような場所に保管してるのを私は知っている。お前は思春期男子かなんて突っ込みをしてはいけない。魔王様は真剣だ。
魔界のトップがそんな調子なものだから、近頃魔界では急速に同人文化らしきものが発展しつつある。同人誌なんかが良い例だろう。十八歳未満お断り系ジャンルで私が大活躍だと聞いた時にはひっそりと涙を呑んだものだ。他の男(時には女)に喘がされるのは、たとえ創作物の中でも許せないけれど、それが桃色スライムなら話は別だとか、まったく意味がわからない。やめてくれ。私は幼気なロリショタはもちろん、ガチムチな傭兵も童顔巨乳な美少女も、果ては麗しい美男子や婀娜っぽい熟女までアンアン言わせて堕落させる趣味はない。ないったらない。しまいにゃ出演料取るぞこのヤロウ。
おっといけない、話がズレた。
まあとにかく、そんなわけで全力疾走でオタクの道を邁進する魔王様は、どこで拾ってきたのか要らない知識まで身に着けておしまいになった。キーワードは「異世界トリップ」。はい、皆さん。嫌な予感がした人、もしかしてと身に覚えがある人は手を挙げなさい。大丈夫、先生怒らないから。ちょっと膝詰めでお話ししたいだけだから。
最愛キャラの抱き枕をぎゅっぎゅとしながら、魔王様は私の向かい側で手帳を広げる。こっそりネタ帳と呼ばせてもらっているそれは、革の表紙が使い込まれたいい色合いをしていた。
「彼女がこの世界に逆トリップしてきたらの話だが、いろいろ考えた結果、やはりそなたに世話役を頼むのが一番だと思うのだ」
「あーはい、そうですかねー」
自信ないですねー、と言う私の声は、我ながら大分死んでいる。多分目も同じくらい死んでいただろう。私に目があればの話だけれど。
「どの時間軸の彼女がトリップしてくるかも懸念事項のひとつだが、今のところ彼女には特定の想い人がいる描写もないし、第一印象さえ悪くなければ仲良くなれると思うのだ。懐の広さは、彼女の長所だとあの妹も言っていたしな!」
「あーそうですねー。第一印象、大事ですよねー」
「その点で、やはり一番の適任はそなただと思うのだ。魔界一温厚なスライム族であるし、人間の事情に通じておる。彼女のよき相談者になってくれるだろう」
「それはまあ、こちらの努力次第って感じでしょうねー」
魔王様は真剣だ。真剣だけれど、別にその女の子をこちらの世界に召喚する手立てがあるとか、そんなわけではもちろんない。これは全て「もしも」の話だ。
くだらない? あり得ない? そうすっぱり切り捨てないであげてほしい。わかっちゃいても、心のどこか片隅で「もしかしたら」って考えちゃうのがオタク心というものだ。しかも魔王様の場合、相手は創作物のキャラじゃなくて異世界に実際にいる人物。これで「もしも」を考えるなという方が無理だろう。
基本的に異世界間の移動は魔王様や神様にも不可能で、天文学的な確率の偶然が起きなければ無理、ということになっている。私の場合、それが転生時に起きちゃったってことだな。本来魂というものはその世界の中で循環するものらしいが、それでも肉体を伴っていない分、そういう「偶然」が生前よりも起き易いらしい。まあ、私の前世が魔王様の最押しがいる世界と同じかどうかはわからないんだけども。
もしかしたらこの歴代最強を誇る魔王様には、彼女をこの世界に呼び寄せる手段があるのかもしれないけれど、例えそうであっても魔王様はその手段を取らないだろう。何故かって? そうやって身勝手に彼女を大切なものから引き離してしまったら、好かれるどころか恨まれて嫌われるってことが、重々わかっているからだ。
好きな相手には嫌われたくないというのは、あまりにも当たり前の感情で。せっせと彼女のグッズを作る傍ら、魔王様はもしもの場合に備えて余念がない。もしも彼女がこの世界に逆トリップしてきたら、もしも魔王様が彼女の世界にトリップしたら、もしも魔王様が彼女の世界に転生したら、なんてものまで様々に。
そしてそして。魔界住人にしては珍しく、彼女たち人間寄りの思考を持つ私はなんと魔王様の相談役に任じられてしまった。権力と金と暇を持て余したオタクはこれだから……いや、なんでもない。
にょん、と触手を二本出して、私は出されたお茶をずずっと啜る。本日の議題は、どうやらずっと「彼女が逆トリップしてきたら」で続くらしい。
「やっぱり魔界の環境が一番彼女に毒なんじゃないですかねー。ほら、人間って基本的に脆弱ですし。多分、相当念入りに守護の術をかけるか、強化に強化を重ねた結界内にいてもらうとかしないと、一分と経たずに体調を崩しちゃうんじゃないでしょーか」
「うむ。やはり環境を整えるのが最優先事項だな」
「後は、食事ですかねー。魔界にある食材って、人間にとっては基本的に毒物ですし」
「食事、食事と……いつ彼女が来ても良いように、人間界の食材を常備させておくか」
「……そーですねー」
なんだかとっても気持ちがしょっぱい。私何やってるんだろうなあとか、ふと冷静になるとそこはかとなく悲しくなってくる。
おかしいな。私、先日の誘拐騒ぎの調書不備で呼び出されたはずのロジーの報告が、どうにもこうにも要領を得ないっていう理由で呼び出されたはずだったのにな。誘拐騒ぎの聴取が二言三言で終了して、後は延々魔王様とのオタクトークってどういうことなの。
仲良くなって両想いになるまで味見は厳禁ですよとか、いざコトに及ぶとなっても、無理をしたら人間の体なんてすぐに壊れちゃうんですよとか。如何にも現実的な助言のようでいて、実はそもそもの大前提が「異世界の人物が逆トリップしてきたら」なんていう非現実極まりない条件だということで全部絵空事めいてくるのは仕方のないことだと思う。だけど魔王様はこれ以上ないくらい真剣。……うん、これもきっと、魔界の平和のためなんだな。無尽蔵だと言われる魔族の破壊衝動や極端な快楽主義の向く先が全力でオタク道だってことに、複雑過ぎる気持ちになるのは確かだけれど。
(……心の底から真剣な魔王様には悪いけど、万が一にも彼女が本当に逆トリップなんてしてきませんように)
そんなことになったら、間違いなく今のちょっとお間抜けな魔界の平和は崩壊してしまう。
何故かって? 自分の身に置き換えて考えてほしい。自分の知らないところで、自分の生活を覗き見られていた挙句、グッズやら同人誌やらをせっせと作って萌えられていたら、いくら相手が超絶美形でも気持ち悪くない? んで、そういうストーカーの方がまだマシな相手を好きになれるのか? 普通にのんびり暮らしてた、女子大生というものは。つまりはそういうことだ。
ネタ帳片手に真剣な表情でメモを取る魔王様を尻目に、私は内心彼女がいるだろう異世界の神様に合掌した。どうか、どーか万が一の偶然なんてものを起こしてくれませんように! と。