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一 鳴き谷の骸骨
礼拝堂の扉を押し開けたとき、わたしが最初に見たのは、祭壇の前に座る骸骨だった。
錆びた鎧をまとい、床に突き立てた槍に背をあずけて、奥の大きな石の扉のほうを向いている。兜はなく、頭蓋骨のうつろな目が、扉の真ん中に彫られた竜の紋章をまっすぐ見つめていた。
「ね、姉ちゃん……」
弟のテオが、わたしの外套の裾をつかんだ。十歳の手が震えている。
「大丈夫。婆ちゃんが言ってたでしょう。何かあったら鳴き谷の礼拝堂へ行けって。あそこの骸骨騎士さまは、歌の娘の味方だって」
自分に言い聞かせるように言って、わたしは骸骨に近づいた。外では雨が降りはじめていた。谷の入り口で、追手の松明がひとつ、ちらちらと揺れているのが見える。
追手は、たった一人だった。灰色の外套を着た竜狩りの男。三日前にわたしたちの村に現れて、「歌の血の娘を出せ」と言った。
わたしの家は代々、子守歌を伝えてきた。三百年前に竜を眠らせたという、伝説の子守歌だ。竜の封じられた扉は、その歌でしか開かない。竜狩りは扉を開けさせて、眠っている竜を殺すつもりなのだと、祖母は言った。
――竜を殺そうとした国は、みんな竜の炎で消えたんだよ。リオ、逃げなさい。
骸骨の前に膝をついて、わたしは息をのんだ。
骨の右手が、小さな木の笛を握っていた。
胡桃の木を削った、指の長さほどの縦笛。穴は六つ。吹き口の少し下に、斜めにひびが走っている。
わたしは震える手で、自分の腰の袋を探った。
出てきたのは、ひと月前に自分で彫った胡桃の笛だった。穴は六つ。吹き口の少し下に、斜めのひび。削っている途中で、うっかり小刀を滑らせてできたものだ。
二本の笛は、まったく同じだった。木目の流れも、ひびの角度も。まるで、わたしの笛がそのまま三百年の歳月をくぐり抜けてきたみたいだった。違うのは、骸骨の笛のほうが黒ずんで乾ききり、斜めのひびからさらに深く、笛の半分まで縦に亀裂が走っていることだけだった。
よく見ると、骸骨の笛の下半分は、奇妙な木の枠にはめこまれていた。枠には小さな木の指が何本も並び、笛の穴の上に覆いかぶさっている。枠から伸びた細い軸は、壁を伝って、高い窓に取りつけられた古い小さな風車につながっていた。風車は雨風に吹かれてからからと空回りし、割れた笛からは、風を漏らすかすかな音しか出なかった。
「なんで……」
声がかすれた。
鳴き谷の笛の話は、子どもの頃から聞かされてきた。夜になると、谷の奥から子守歌が聞こえる。三百年前の名もない騎士の骸骨が、今も笛を吹いているのだと。
その笛の音が、今年の春から聞こえなくなった。そして、竜の眠る山が、ときどき低く唸るようになった。
「姉ちゃん、壁……」
テオに言われて、わたしは顔を上げた。
礼拝堂の壁という壁を、細い線が埋めつくしていた。小刀で刻んだような短い縦線が、天井近くから床まで、雨の筋のようにびっしりと並んでいる。
数を数えるときの線だ。けれど、妙だった。わたしたちは、線を五本ずつ束ねて数える。この壁の線は、六本ずつ、斜めの線で束ねられていた。
そのとき、扉の外で馬のいななきが聞こえた。
「……礼拝堂か」
低い男の声。わたしはテオを抱きよせ、あたりを見回した。逃げ場はない。窓は高く、出口は一つだけだ。
ふと、骸骨のすぐ横の柱に、苔に半ば埋もれた文字が見えた。指で苔をこそげ落とす。
《灰の外套の男が来たら、三本目の柱の陰へ。弟の手を離すな》
背筋が冷たくなった。
――弟の手を。
考えるより先に体が動いた。テオの手をつかみ、入り口から数えて三本目の柱の陰へ走りこむ。床石の一枚が、わずかに浮いていた。指をかけると、石は思ったより軽く持ち上がり、その下に、人ひとりがやっと通れるほどの穴が口を開けていた。
扉が開く音がした。
わたしはテオを先に穴へ押しこみ、自分も滑りこんで、石を引き戻した。
隙間から、一瞬だけ見えた。
礼拝堂の入り口に立つ、灰色の外套の男。若かった。濡れた銀灰色の髪の下で、冷たい目が骸骨を見下ろしていた。背中には、身の丈ほどもある竜狩りの槍を負っていた。
二 竜狩り
抜け道は、谷の裏手の森へ続いていた。
誰が掘ったのかはわからない。けれど、ずいぶん古い道だった。壁には補強の木が組まれ、足元には滑り止めの刻みまで入っていた。まるで、いつか誰かが走って逃げることを知っていたかのように。
抜け道を出てからも、わたしたちは道なき森をひたすら南へ走った。竜狩りの男がわたしたちに追いついたのは、四日後の夕方だった。
森の沢で水を汲んでいたとき、背後で枝の折れる音がした。振り返ると、灰色の外套の男が槍を手に立っていた。
「ヴァルター・グラウ。竜狩りだ」
男は感情のない声で名乗った。
「歌の娘。おまえに危害を加えるつもりはない。扉を開けてくれればいい。あとは、俺がやる」
「竜を殺すの?」
「ああ」
「無理よ。三百年前、竜を殺そうとした国がいくつもあった。みんな、炎で消えたわ。灰も残さずに」
「知っている」
ヴァルターは、沢の向こうの山を見上げた。
「十五年前、竜の寝返りで、火口から火の粉が飛んだ。それだけで、俺の村がひとつ消えた。……眠っていてさえ、あれは人を殺す。だから、眠っているうちに殺す」
わたしは何も言えなかった。テオが、わたしの背中に隠れたまま、ヴァルターをじっと見ていた。
そのとき、地面が揺れた。
遠く、鳴き谷の方角から、腹の底に響くような唸り声が聞こえた。鳥がいっせいに飛び立ち、沢の水面が細かく波立つ。
「起きかけている」
ヴァルターが低く言った。
「笛の音が止んだからよ」
わたしは言った。
「竜を眠らせていたのは、あの笛だった。わたしの家の子守歌と同じ節の。……ヴァルターさん。わたしが、竜を眠らせる。扉の前で、歌ってみる。それでも眠らなかったら――」
言葉が続かなかった。ヴァルターは、しばらくわたしの顔を見ていた。
「わかった」
彼は槍を下ろした。
「谷まで連れていく。おまえが歌って、竜が眠ればそれでいい。眠らなければ、俺が槍を使う。それでいいか」
「……ええ」
ヴァルターは頷き、それから、ふと思い出したように言った。
「礼拝堂の床の抜け道は、おまえが掘ったのか」
「まさか。柱に書いてあったのよ。『灰の外套の男が来たら、三本目の柱の陰へ』って」
ヴァルターは眉をひそめ、自分の灰色の外套を見下ろした。
それが、わたしが初めて見た、彼の表情らしい表情だった。
三 笛の練習
険しい山道を迂回したため、鳴き谷へ戻るには歩いて五日かかった。
ヴァルターは、ほとんど喋らない人だった。朝は誰より早く起きて火をおこし、夜は誰より遅くまで見張りに立った。笑わない。冗談も言わない。テオが話しかけても、「ああ」か「いや」しか返さない。
それでもテオは、二日目にはヴァルターの外套の端を握って歩くようになり、三日目にはヴァルターの膝を枕にして眠るようになった。ヴァルターはそのたびに、困ったような顔をして、それでも動かずにじっとしていた。
毎晩、ヴァルターは焚き火のそばで、槍の柄に小刀で線を刻んだ。一日に一本。六本目は、それまでの五本に斜めに重ねる。
「なんで六本なの?」
テオが聞いた。
「竜狩りの数え方だ。竜の爪は六本ある。六日ごとに、一本ずつ爪を折る、と数える」
「何を数えてるの?」
「村が消えてからの日だ」
焚き火がはぜた。テオは黙って、ヴァルターの膝に頭を戻した。
わたしは、礼拝堂の壁を思い出していた。六本ずつ束ねられた、雨のような線を。
四日目の夜、わたしは腰の袋から胡桃の笛を取り出した。
「これ、あげる」
「……何だ」
「笛。わたしが彫ったの。子守歌は、笛でも吹けるのよ。槍のほかにも、竜に向けられるものがあったほうがいいでしょう」
ヴァルターは、差し出された笛をしばらく見つめていた。礼拝堂の骸骨が握っていたのと、まったく同じ笛を。
「気味が悪いだろう。骸骨と同じ笛だ」
「だから、手放したかったのかも」
冗談めかして言うと、ヴァルターは笛を受け取った。大きな手のひらの上で、胡桃の笛はひどく小さく見えた。
「吹き方を知らない」
「教えるわ」
その夜から、ヴァルターの笛の練習が始まった。
ひどい音だった。ぴい、とかすれ、ぶう、と裏返り、ときどきまったく鳴らない。テオは笑い転げ、わたしも笑いをこらえきれなかった。ヴァルターは眉間に皺を寄せたまま、一言も文句を言わずに、何度でも吹き直した。
「指が太すぎるのよ」
「指は細くならない」
「穴をふさぐときは、指の腹で、そっと。歌うみたいに」
「歌ったことがない」
「じゃあ、それも教えるわ」
わたしは、家に伝わる子守歌を歌った。
ねむれ ねむれ ほのおの子
つばさをたたんで ねむりなさい
あさがくるまで ここにいる
あさがくるまで ここにいる
「三番まである。四番は、三百年前に失われたって言われてる」
「なぜ失われた」
「わからない。婆ちゃんは、『四番は、騎士さまが誰にも教えなかった』って言ってたけど」
五日目の朝、谷の入り口が見えてきたころ、ヴァルターはようやく子守歌の一番を、最後まで吹きとおした。
つっかえながら、ところどころ音を外しながら。それでも、ちゃんと子守歌だった。
吹き終えたヴァルターは、笛を口から離して、口の端をほんの少しだけ上げた。
わたしは、その顔を一生忘れないだろうと思った。
四 婆さまの話
鳴き谷の入り口には、小さな村があった。
村でいちばん年寄りのウルスラ婆さまが、わたしたちを囲炉裏端に招いてくれた。わたしが歌の家の娘だと名乗ると、婆さまは目を細めた。
「あんたの家の先祖は、この村の出だよ。子守歌も、もとはこの村のものさ」
婆さまは、古い話をしてくれた。
三百年前、炎の竜が国々を焼いていた。竜の吐く炎は、ただの炎ではなかった。焼かれたものは灰にならず、跡形もなく消えた。「時を喰う炎」と呼ばれたそうだ。
大昔に竜を封じようとして滅んだ古い国の礼拝堂が、谷の奥にひとつだけ残っていた。そのころ、そこにひとりの騎士が住み着いた。どこから来たのか、誰も知らない。騎士は毎晩、礼拝堂の扉の前で笛を吹いた。下手な笛だったが、その笛を聞くと、扉の奥で暴れていた竜がうとうとと大人しくなった。
「騎士さまは、四十年、毎晩吹いたそうだよ。竜を眠らせるためじゃない。寝かしつけて、待つためにね」
「待つ? 何を、ですか」
「歌の娘さ。……ある夜、竜の炎の中から、娘がひとり、小さな男の子を連れて現れた。娘が礼拝堂で歌うと、竜は深く眠った。それきり、三百年、目を覚まさない。娘は、炎の中へ帰っていったそうだ」
囲炉裏の火が、ぱちりとはぜた。
テオが、わたしの袖をつかんだ。わたしは、隣のヴァルターを見ることができなかった。
「騎士さまは、そのあと谷の入り口に村を拓いた。井戸を掘って、子どもらに字と子守歌を教えた。三番までね。四番は、誰にも教えなかった。『あれは、あの子の歌だから』と言ってね」
「その騎士は」
ヴァルターの声が、かすれていた。
「どんな男だった」
「さあてね。三百年も前のことだから。ただ、言い伝えでは――」
婆さまは、皺だらけの顔でヴァルターを見上げた。
「最初は、たいそう笛が下手だったそうだよ」
ヴァルターは黙って立ち上がり、外へ出ていった。
追いかけると、彼は村はずれの丘に立って、谷の奥の礼拝堂を見つめていた。手には、槍を握っていた。柄に刻まれた、六本ずつの線。
「ヴァルター」
「……壁の線」
彼は振り向かずに言った。
「六本ずつ束ねてあると、おまえは言ったな」
「ええ」
「この国で、その数え方をする竜狩りは、もう俺しか残っていない」
わたしは何も言えなかった。
ヴァルターは、懐から胡桃の笛を取り出して、長いあいだ見つめていた。それから、槍の柄を見下ろした。
「明日、扉の前へ行く」
彼は言った。
「槍は持っていく。……だが、先に歌ってくれ」
五 時を喰う炎
翌朝、わたしたちは礼拝堂の石の扉の前に立った。
骸骨騎士は、変わらず祭壇の前に座っていた。ヴァルターは、その骸骨を長いあいだ見下ろしていた。それから、黙って骸骨の横を通り過ぎ、扉の前に立った。
わたしは扉に手を当てて、子守歌を歌った。
ねむれ ねむれ ほのおの子――
石の扉が、低い音を立てて、内側へ開いていった。
奥は、巨大な洞窟だった。赤い光の中に、山のような影が丸まっていた。鱗が、呼吸に合わせてゆっくりと上下している。
その瞼が、薄く開いた。
金色の目が、わたしたちを見た。
わたしは歌い続けた。一番、二番、三番。竜の瞼が、わずかに下がりかけた。
けれど、三番を歌い終えても、竜は眠らなかった。
四番がないのだ。失われた最後の節。それがなければ、歌は終わらない。
金色の目が、大きく見開かれた。
ヴァルターが、槍を構えた。
穂先が、竜の目に向いた。十五年分の日を刻んだ柄を、彼の手が白くなるほど握りしめていた。
――眠らなければ、俺が槍を使う。
けれど、ヴァルターは槍を突き出さなかった。
竜の喉の奥が、白く光った。
「リオ、下がれ!」
ヴァルターが、わたしとテオの前に飛び出した。
白い炎が、彼を呑みこんだ。
熱くはなかった。音もなかった。ただ、灰色の外套が、炎の中で一瞬揺らいで――消えた。
灰も残さずに。
「ヴァルター!」
叫んだわたしの目の前に、二度目の炎が迫った。わたしはテオを抱きしめた。
世界が裏返るような感じがして――
何もかもが、遠ざかった。
六 四十年と、百十二日
気がつくと、わたしは同じ礼拝堂に倒れていた。
けれど、柱には苔がなかった。石は新しく、窓には風車もなかった。祭壇の前に、骸骨はいなかった。
かわりに、笛の音が聞こえた。
ねむれ、ねむれ、ほのおの子。
上手な笛だった。一つも音を外さない、穏やかで、少しかすれた音。
祭壇の前に、ひとりの老人が座っていた。
白い髪。深い皺。錆びかけた鎧の上に、色の褪せた灰色の外套。床に突き立てた槍に背をあずけ、奥の石の扉に向かって、胡桃の笛を吹いていた。
壁には、線があった。六本ずつ束ねられた線が、壁の半分以上を埋めていた。
老人が、笛を口から離した。
ゆっくりと振り返り、わたしとテオを見た。
灰色の目だった。
「……遅かったな、リオ」
その声を、わたしは知っていた。
声が出なかった。テオが、わたしの手を振りほどいて駆け出し、老人の膝にしがみついた。老人は、皺だらけの大きな手で、テオの頭を撫でた。
「テオ。おまえは、ちっとも変わらないな」
「ヴァルター……?」
わたしは、ようやくその名を呼んだ。
「ああ」
老人は――ヴァルターは、壁の線を見上げた。
「四十年と、百十二日だ。炎に呑まれて、気がついたらここにいた。竜が国を焼いていた頃の、この谷に」
四十年。
わたしにとっては、たった一瞬だった。炎がヴァルターを呑み、次の炎がわたしを呑むまでの、ほんの一呼吸。
その一呼吸の間に、彼は四十年を生きていた。
「どうして……」
「竜の炎は、焼いたものを過去へ飛ばす。強く焼かれたものほど、遠くへ。俺は先に、まともに焼かれた。おまえたちは、少し浅かった。……だから、おまえたちが来るのは、俺より後だとわかっていた。いつになるかは、わからなかったが」
ヴァルターは、胡桃の笛を見下ろした。
「だから、待った。竜が目を覚まして谷を焼いてしまったら、おまえたちが来る場所がなくなる。毎晩、笛を吹いた。三番までしか知らないから、眠らせることはできない。うとうとさせるだけだ。それでも、吹かないよりはましだった」
「四十年も」
「最初の五年は、ひどいものだった」
ヴァルターは、少しだけ笑った。
「竜のほうが、我慢して寝てくれていたのかもしれない」
わたしは泣いていた。いつから泣いていたのか、わからなかった。
抜け道も、柱の文字も、この人が残したのだ。四十年のあいだに。いつか、若い自分から、わたしたちを逃がすために。
扉の向こうで、竜が唸った。
ヴァルターは、わたしを見た。
「リオ。四番を、歌ってくれ」
「わからないの。四番は、失われて――」
「失われたんじゃない」
ヴァルターは、静かに言った。
「まだ、誰も歌っていないだけだ」
わたしは、扉の前に立った。
三番までを歌った。そして、知らない四番を歌った。胸の中にあるものを、そのまま歌にした。四十年分の、六本ずつの線を見ながら。
ねむれ ねむれ ほのおの子
おまえのゆめを だれかがまもる
よるがいくつ かさなっても
ふえのねが そばにいる
扉の向こうで、竜が長く、深い息をついた。
山の唸りが、静まった。
祭壇の脇の空中に、白い炎の裂け目が揺れていた。竜が最後に吐いた、眠りの吐息の名残りだった。裂け目の向こうに、苔むした柱と、雨の筋のような線に覆われた壁が見えた。
「帰り道だ」
ヴァルターが言った。
「夜明けまでには閉じるだろう」
「一緒に帰ろう」
わたしは、彼の手をつかんだ。皺だらけで、骨ばった、温かい手だった。
ヴァルターは、首を振った。
「俺は、もうこっちの人間だ。これから谷の入り口に村を拓く。字を教えてやりたい子どもらもいる。……それに、四十年眠らせ損ねた竜だ。深く眠ったとはいえ、しばらくは子守歌が要る」
「でも――」
「リオ」
ヴァルターは、わたしの手をそっとほどいた。
「もう一度、四番を歌ってくれないか。覚えておきたい」
わたしは歌った。声が震えて、何度も途切れた。ヴァルターは目を閉じて、一度も口を挟まずに聞いていた。
歌い終えると、彼は胡桃の笛を口にあてて、四番を吹いた。
一度聞いただけの節を。一つも、音を外さずに。
「……上手くなったね」
泣きながら言うと、ヴァルターは笑った。
五日間の旅でも、一度も見たことのない笑顔だった。
「四十年あったからな」
彼はテオを抱きあげ、それからわたしの背中を、裂け目のほうへそっと押した。
「今夜の分は、もう吹いた。明日の分は、三百年先で聞いてくれ」
白い光の中で、灰色の外套が遠ざかっていった。最後に見えたのは、祭壇の前に腰を下ろし、胡桃の笛を口にあてる、白髪の横顔だった。
七 壁の線
目を開けると、礼拝堂に朝の光が差しこんでいた。
壁は、雨の筋のような線で覆われていた。柱には苔が生えていた。
そして祭壇の前には、骸骨騎士が座っていた。
錆びた鎧。床に突き立てた槍。肩には、色の抜けた外套の切れ端がかろうじて残っていた。もとは灰色だったのだろう。うつろな目は、奥の石の扉を見つめていた。
骨の右手が、木の枠にはめこまれた胡桃の笛を握っていた。
わたしはその前に膝をついた。声を上げて泣いたのか、黙って泣いたのか、覚えていない。テオがずっと、わたしの背中にしがみついていた。
山は静かだった。けれど、それが長く続かないことは、わたしにもわかっていた。笛が鳴らなければ、竜はまた目を覚ます。
わたしは、壁の線を数えた。
六本ずつ束ねられた、小刀の線。一本が一晩。テオと、村の子どもたちと、ウルスラ婆さまも手伝ってくれて、三日かかった。
二千四百五十三束と、四本。
一万四千七百二十二本。四十年と、百十二日。
わたしと出会う、あの夜までの線だった。そこから先には、一本も刻まれていなかった。待つ必要が、なくなったから。
線の最後の束の下、骸骨の背中が隠していた柱の根元に、苔に覆われた文字があった。わたしは指で、そっと苔をこそげ落とした。
《リオへ。笛は、窓の風に預ける》
そのすぐ下の床石の隙間に、油紙に固く包まれた古い羊皮紙が挟みこまれていた。震える手で糸をほどき、折り畳まれた紙を開く。そこには、彼の手跡でこう記されていた。
《あの夜から、十一年たった。竜はよく眠っている。もう、毎晩吹かなくても大丈夫だろう。
この谷には、毎晩同じ向きに夜風が吹く。窓に風車を掛け、その軸で回る筒に、笛の穴を押さえる木の指を植えた。君の歌の節どおりに指を並べるのに、六年かかった。
四番は、誰にも教えなかった。風にだけ、教えておいた。
三本目の柱の下の穴は、俺が掘った。柱の文字も、俺が刻んだ。若い俺には、悪いことをした。あの頃の俺は、槍しか握れなかった。
あの夜、扉の前で、俺は槍を突かなかった。君が笛を渡してくれていなかったら、きっと突いていた。槍を下ろしても、人はちゃんと生きていける。四十年かけて、それがわかった。
テオに、背は伸びたかと聞いてくれ。
君の歌が、四十年、俺を生かした。
ヴァルター》
わたしは、骸骨の手の中の笛を見た。
吹き口の下の、斜めのひび。そのひびから、縦に深い亀裂が走り、笛の半分まで割れていた。
三百年分の夜風が、とうとう笛を割ったのだ。だから今年の春、笛の音が止んだ。
わたしは、そっと骨の指をほどいて、笛を手に取った。
この笛を彫ったのは、わたしだ。ひびの入り方も、木目の流れも、誰より知っている。
村の鍛冶屋に細い銅線をもらい、膠を溶かし、一晩かけて、ひびを繕った。それから笛を木の枠に戻し、骨の指にもう一度握らせた。窓の風車には、村の大工が新しい羽をつけてくれた。
八 鳴き谷の子守歌
その夜、谷に風が吹いた。
わたしとテオは、礼拝堂の骸骨騎士の隣に座っていた。
高い窓の風車が、からからと回りはじめた。軸が回り、筒が回り、木の指がひとつ、またひとつ、笛の穴を押さえていく。窓から吹きこんだ夜風が、骨の指の中の笛を通り抜けた。
ぴい、と、かすれた音がした。
それから、音が続いた。
ねむれ、ねむれ、ほのおの子。
一番。二番。三番。
そして、四番。
わたしが三百年前の夜に歌った、あの節だった。
――おまえのゆめを だれかがまもる
三百年、この谷の風だけが知っていた歌。
――よるがいくつ かさなっても
わたしは笛の音に合わせて、歌った。テオも、つっかえながら一緒に歌った。礼拝堂の外では、村の人たちが黙って耳を傾けていた。
――ふえのねが そばにいる
奥の石の扉の向こうで、竜が、深く長い寝息をついた。
歌い終えて、わたしは骸骨騎士の肩に、そっと頭をあずけた。錆びた鎧は冷たかったけれど、不思議と怖くはなかった。
「上手くなったね、ヴァルター」
あの夜と同じ言葉を言うと、答えるように、風がもう一度、笛を鳴らした。
今度も、少しも音を外さなかった。
村を焼かれ、槍だけを握って生きてきた人が、扉の前で槍を下ろした。そして四十年、下手な笛から始めて、竜に子守歌を吹き続けた。
ちゃんと、生きていけたのだ。
わたしは目を閉じて、風の笛を聞いた。夜が明けるまで、ずっと。




