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魔女は、最初で最後の旅に出る  作者: イメヤシクサ
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第9話

 夜中、エルシアは冷えた風に頬をなでられて目を覚ました。


 古いランタンには、夕暮れから借りた金色の光がまだ残っている。細い炎の周りで、火とエーテルがほどけかけた糸のように揺れていた。


 エルシアは指先だけを動かし、その流れをそっと整えた。光が静かになると、足元の岩に伸びていた影も止まる。


 体を起こそうとして、やめた。


 ルルが脇腹にぴったり寄り添い、半透明の体を平たくして眠っていたからだ。夜風を避けるというより、エルシアを岩壁に貼りつけておくつもりらしい。


「落ちない形、か」


 小声で言っても、ルルは動かなかった。体の奥に淡い光をため、ゆっくり膨らんだり縮んだりしている。


 エルシアは姿勢を変えず、マントの端だけをルルの近くへ寄せた。


 谷から吹き上げる風は、夜が深まるにつれて冷たさを増した。夏の名残を押し流し、乾いた葉と土の匂いを運んでくる。風に混じるエーテルの響きも、昨日までより細く澄んでいた。


 秋が来る。


 エルシアはその変化を聞きながら、朝まで動かなかった。


 東の空が白み始めるころ、ランタンの金色はガラスの中で一度だけ明るくなり、ふっと消えた。借りていた夕映えが、朝の空へ帰っていく。


 エルシアは芯が冷えたのを確かめ、ランタンを折りたたんで革の鞄にしまった。


 同時に、ルルが弾むように丸くなった。


「朝?」


「朝だよ」


「エルシア、固い」


「うん。ずっと同じ姿勢だったからね」


「どうして?」


「気持ちよさそうに眠っていたルルを起こさないためかな」


 ルルは少し考え、今度はエルシアの腰を押した。


「曲がる?」


「たぶん、ゆっくりなら」


 立ち上がったエルシアの右足は、三歩目まで思うように曲がらなかった。ルルも隣で動きを緩め、同じ速さでぺたり、ぺたりと進む。


「まねしなくていいよ」


「ルル、待ってる」


「それなら、もう少し格好よく待ってほしいかな」


 ルルは考えた末、道の真ん中で堂々と丸くなった。格好よさについては、あとで教えることにした。


 断崖から下り始めると、夜露に濡れた低木の葉先が赤く染まっていた。昨日まで緑だった葉に、朝の光を受けるたび赤が増えていく。


 ルルはしばらく葉を見ていたが、突然、道の端へ向けて体の先を尖らせた。


「下で、鳴ってる」


「何が?」


「細かい音。木の中まで、びりびり」


 次の瞬間、近くの幹から鳴虫が飛び立った。ルルは地面を伝う振動を追って伸び、空振りした先端を枝に巻きつけた。


 鳴虫は朝の空へ逃げていく。


「捕まらなかった」


「捕まえて、どうするつもりだったの?」


「近くで聞く」


「耳の近くで鳴かれると、たぶん後悔するよ」


「ルル、耳ない」


「また便利なところが出てきたね」


 何度か鳴虫に置いていかれながら山を下りると、麓の村では昼の鐘が鳴っていた。


 広場の市はもう店じまいを始めている。果物の籠は空になり、菓子屋の台には粉砂糖の跡しか残っていなかった。


 布屋は色とりどりの端切れを畳み、パン屋は最後に残った固いパンを一つ、荷車の御者へ渡している。焼いた木の実と蜂蜜の匂いだけが広場に残り、並んでいた品物はどこにもない。


 エルシアが空の台をのぞくと、ルルも隣で背を伸ばした。


「食べ物、ない」


「少し遅かったね」


「鳴虫を聞いたから?」


「それも少し。でも、昨夜は急いで下りられなかったから」


「ルルが寝たから?」


「私が起こさなかったからだよ」


 エルシアは空の台から離れた。ルルへ何か甘いものを渡したかったが、今日は縁がなかったらしい。


 聖所を出てから、ルルは自分の意思でエルシアと同じ道を選んでいる。それとは別に、納屋や穀物庫のムギトカゲを減らしてくれたお礼に、きちんと何かを渡したかった。言葉だけで伝えると、ルルはその意味を何度も別の形に置き換えて確かめようとする。


 甘いものなら、迷わず受け取れると思ったのだ。


 村を出る前、木のカップをすすごうと川へ向かった。柳の木陰では、白髪の老女が浅い木箱を川の流れに浸していた。箱の中には小さな型が並び、透き通った琥珀色の菓子が二つだけ残っている。


「きれい」


 ルルが水際ぎりぎりまで伸びた。


 老女は笑い、木箱を引き上げた。


「蜂蜜を煮て、果汁でやわらかく固めたのさ。冷たい水に当てると、ぷるんと仕上がる」


「ぷるん」


 ルルも同じように一度揺れた。


「よく似てるねえ」


「ルルのほうが大きい」


「張り合うところかな」


 エルシアが銀貨を出すと、老女は首を横に振った。


「市はもう終わりだよ。その二つは形が少し崩れたから、家へ持ち帰るところさ。旅の途中で食べな」


「でも――」


「代わりに、この子が食べた時の顔を見せておくれ」


「ルル、顔ない」


「じゃあ、食べた時の形だね」


 老女は慣れた手つきで菓子を一つずつ葉に包み、エルシアの手に載せた。代金はどうしても受け取らなかった。


 川辺を離れ、街道脇の平たい石で休むことにした。


 エルシアは包みを二つ、ルルの前に並べる。


「ルル。これは私からの贈り物」


「さっきのおばあさんから、エルシアへ、じゃないの?」


「受け取ったのは私だから、次に誰へ渡すかは私が決められるよ。村の穀物をムギトカゲから守ってくれたお礼として、ルルに受け取ってほしい」


 ルルは菓子へ近づき、それから少し離れた。


「お礼、食べたらなくなる」


「味は残るかもしれない」


「形は?」


「それは、なくなるね」


 半透明の体が迷うように左右へ揺れた。


「食べたら、ルルはエルシアのもの?」


 エルシアは菓子へ伸びかけたルルの先端を見た。


「ならないよ。贈り物は、相手を自分のものにするために渡すものじゃない。ありがとうを、相手のところへ届けるために渡すんだ」


「ルルは、誰のもの?」


「誰のものでもない。ルルはルルだよ。私も私。私がルルと歩きたいと思って、ルルも私と歩きたいと思う。その間は、同じ道を歩ける」


「片方が、歩きたくなくなったら?」


「その時は立ち止まって、話そう。それでも別の道を選ぶなら、相手を縛らない」


 ルルはしばらく動かなかった。


 やがて包みの一つを体の中へ取り込む。琥珀色の菓子は透き通った体の真ん中で揺れ、少しずつ角が丸くなった。


「冷たい。やわらかい。でも、ちゃんと甘い」


「どういう形?」


「もう一つ食べたい形」


「分かりやすくて助かるよ」


 二つ目も、ゆっくり体の中へ沈んでいった。


 ルルは甘さを確かめるように何度か小さく弾んだ後、エルシアの靴の隣でぴたりと止まった。


「ルルはルルのまま、一緒に行く」


「うん。私も一緒に行きたい」


「エストラ市まで?」


「まずはね。その先は、着いてから考えようか」


「旅、やっぱり形がない」


「少しずつ作るんだと思う」


 エルシアが立ち上がると、ルルも隣で弾んだ。一人と一匹は、エストラ市へ続く街道へ戻った。


 赤くなり始めた葉が風に揺れ、その下を二つの影が並んで進んでいく。

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