第8話
古い聖所を離れた翌朝、一人と一匹はリーネ杉街道を抜け、山裾の小さな村へ着いた。
石造りの家々の向こうには、灰色の岩山がそびえている。エルシアが村の広場へ入ると、甘い匂いが風に混じった。
軒下で、白髪の老女が蜜蝋を細く伸ばしていた。芯に巻きつけ、手のひらで転がすたび、薄い板だった蜜蝋が一本のろうそくになる。
ルルは初め、エルシアの半歩後ろを静かについていた。けれど甘い匂いに気づくと、丸い体の前半分がじわりと伸びた。
「食べ物じゃないよ」
「まだ聞いてない」
「聞く形をしてたから」
「ろうそく、おいしい?」
「やっぱり聞くんだね」
老女が声を立てて笑った。
「食べたって腹の足しにはならないよ。祠に供えるものさ」
ルルはすぐに元の丸さへ戻った。興味も一緒にしぼんだらしい。
エルシアは出来上がったろうそくを三十本選び、言われた額より少し多めに銀貨を渡した。
「多いよ、お嬢さん」
「三十本もまとめて包んでもらうから。受け取ってください」
老女は少し迷った後、ろうそくを十本ずつ紙で巻き、麻紐で結んだ。
一人と一匹は村へ入る前に通り過ぎた、街道脇の小さな祠まで引き返した。腰ほどの高さの石屋根の下で、オスカーの像が旅人を見送っている。
エルシアは二十七本を像の前のくぼみに供え、そのうち一本を、そこで燃えていた祈りの灯からともした。
「二十七。三つ、残った」
「よく数えたね」
「ルル、数えられる。おいしいものなら、もっと早い」
炎が風もないのに一度揺れた。硬貨の触れ合うような音が、祠の奥から返ってくる。
「ルルを古い祈りから解いてもらった借りは、これで返したことにしようか」
答えるように、祈りの灯が少しだけ明るくなった。
祠を離れるころには、ルルはもう静かではなかった。
草むらで羽虫が飛べば、全身に細かな波紋を立ててそちらを向く。木から乾いた実が落ちれば、地面を伝う振動を追い、体を長く伸ばして、転がる実の先へ回り込む。捕まえた木の実は飲み込まず、得意そうにエルシアの靴の前へ置いた。
「拾ってくれたの?」
「止めた」
「ありがとう。でも、これは食べられないかな」
「ろうそくも。村、食べられないもの多い」
しばらく歩くと、今度はエルシアの歩き方をまね始めた。エルシアが右足を踏み出せば右へ膨らみ、左足を踏み出せば左へ膨らむ。
「私、そんなに揺れてる?」
「鞄が揺れる」
休憩中、エルシアが革の鞄を岩に立てかけると、ルルもその隣でぺたりと止まり、同じ角度に体を傾けた。
「それは何のまね?」
「荷物の休み方」
「ルルは荷物じゃなかったはずだけど」
丸い体が勢いよく起き上がった。
「ルル、歩くほう」
「うん。知ってるよ」
昼過ぎ、街道は木の柵で狭められ、王国の旗を掲げた関所へ続いた。
番兵に止められ、エルシアは師から受け継いだ記録を開いた。末尾に綴じられた旅券には、出発地と旅人としての登録が記されている。
番兵はそれを確かめた後、革の鞄の留め金に目を留めた。
「裏も見せてもらえるか」
エルシアが留め金を裏返すと、古い魔女の印が現れた。番兵は台帳をめくり、ずいぶん前のページで手を止める。
「山の工房の通行印か。まだ使う者がいたんだな」
「旅券とは別に必要ですか?」
「旅券は、誰がどの道を通るか確かめるものだ。そっちは魔術を扱う者の身元を示す印だよ。道を通る許可と、魔術の行使に責任を負う者であることの証明は別だ」
番兵は旅券へ日付を入れ、木戸を開けた。
「エストラ市へ行くなら南の道だ。グレイフェルは勧めない」
その名を聞き、エルシアは木戸のそばに並ぶ古いランタンへ目を向けた。露店でランタンを修理していた老人が、煤けた指で山を示した。
「断崖道を越える気かい?」
「道の様子を知りたいんです」
「昔の巡礼路さ。近道にはなるが、片側はずっと崖だ。日が落ちれば、死んだ巡礼者の声が名前を呼ぶともいう」
「呼ばれたら、返事をしなければいい?」
老人はルルを見た。ルルはエルシアの鞄の後ろへ半分だけ隠れ、黙っている。
「そう簡単なら、怖い話にはならんよ」
「では、そのランタンを一つください」
「話を聞いていたかい?」
「よく聞いたので、暗くなる前に買っておこうと思って」
老人は呆れた顔で、枠に傷のある古いランタンを差し出した。エルシアは代金を払い、ランタンを受け取った。
夕方、一人と一匹はグレイフェル断崖道へ入った。
初めは荷車も通れそうな幅があった道は、登るほど細くなった。岩壁には古い言葉が刻まれ、ところどころに手のひらほどの丸い印がある。巡礼者が無事を願って触れてきたのだろう。印の表面だけが、長い年月をかけて滑らかに磨かれていた。
ルルも体の先を伸ばし、そっと触れる。
「つるつる」
「たくさんの人が触った跡だね」
「みんな、ここ歩いた?」
「歩いて、怖がって、それでも先へ進んだんだと思う」
「エルシアも怖い?」
エルシアは道の外を見た。谷底は、夕方の影に沈んで見えない。
「落ちたくはないかな」
「ルルも。落ちたら、ずっと丸くなる」
「今より?」
ルルはしばらく考え、崖とは反対側の岩壁へぴたりと寄った。
頂上へ着いた時、太陽は山並みのすぐ上にあった。細い道の先には、道幅がわずかに広がった岩場がある。先へ進むには暗すぎ、引き返すには遅すぎた。
「今夜はここで休もう」
「逃げる場所、ない」
「風から隠れる場所も少ないね」
空は赤から紫へ変わり、岩肌の熱が急速に失われていく。エルシアは古いランタンを足元へ置き、消えかけた西の空へ手を伸ばした。
夕焼けに残る火の気配を、指先でひとすじだけすくう。散らないようにエーテルで包み、ランタンの芯へ静かに移すと、金色の光がガラスの中で花のように開いた。
金色の光が、ルルの半透明な体を淡く照らした。
「空、入った」
「少し借りただけだよ。朝には返る」
「空、寒くない?」
「あれだけ広いから、たぶん大丈夫」
ルルは納得したように一度揺れ、エルシアの脇へ滑ってきた。
狭い岩場では、離れて眠る場所もない。エルシアがマントを体に巻きつけて横になると、ルルは崖とは反対の山側へ回り込み、エルシアにぴったりと体を寄せた。
「近いね」
「落ちない形」
「それなら安心かな」
谷から吹き上げる風が、遠い声のように岩壁を鳴らした。けれど名前を呼ぶ声は聞こえない。
ランタンの中で、夕暮れから借りた光が揺れている。
一人と一匹は逃げ場のない断崖の上で寄り添い、秋の始まりの夜を迎えた。




