第6話
「捧げものは、食べ物の形をしていることが多いよ」
エルシアがそう答えると、傾いていたルルの体がまっすぐに戻った。
「じゃあ、蜜も果物も捧げもの?」
「たぶんね。油も、灯りをともすために置かれたんだと思う」
ルルは石の台へ向き直った。蜜、果物、油の小瓶。一つずつ確かめてから、体の色を少し薄くする。
「知らないで食べた」
「知らなかったことと、何も起きないことは別なんだ」
エルシアはルルと同じ高さになるよう、石壁のそばに腰を下ろした。
「祈りを向けられたものは、その願いと少しずつ結びつく。受け取り続ければ、望んでいなくても離れにくくなることがあるよ」
「蜜から?」
「蜜からというより、蜜を置いた人の願いからかな」
ルルは蜜の瓶から、すっと距離を取った。
「甘いのに、くっつく」
「少し違うけど、今はそれでいいよ」
責任を引き受けずに祈りだけを受け取り続ければ、神々から人を惑わせる危険な存在と見なされる。エルシアは、難しい言葉を避けて順に説明した。
「前にここにいた魔獣も、食べ物を集めていた。人を怖がらせてね」
「そのひと、今は?」
「旅をしていた神官たちに倒されたよ」
ルルの体が、ぴたりと止まった。
次の瞬間、丸い体が床を滑った。石壁の切れ目を抜け、草むらへ一直線に向かう。
「ルル」
呼ぶと、草の手前で止まった。ただし、こちらは見ない。
「逃げるの?」
「逃げる。遠く。蜜が追ってこないところ」
「蜜は追ってこないと思う」
「神官は?」
「今は来ていないよ」
半透明の体が、草むらとエルシアの間で細長く伸びた。まだ逃げる方向へ気持ちが引かれているらしい。
エルシアは立たなかった。逃げようとするルルを追わず、力で止めようともしなかった。
「私は、ルルを捕まえに来たんじゃない。まず、本当に誰かを傷つけたのか確かめたい」
「傷つけたら、倒される?」
「何をしたか、どうしてそうなったかを聞く。何も確かめずに決めないよ」
ルルは少し縮んだ。
「ルル、村の人を食べてない」
「それは助かるな」
「大きいから」
「理由は少し気になるけど、食べていないなら十分だよ」
ルルの輪郭がわずかに揺れた。笑ったのかもしれない。
「ほかには?」
「ムギトカゲ。あと、虫。麦、食い荒らす」
「麦を?」
「麦を食べるのはムギトカゲ。ルルはムギトカゲを包んで飲み込む。虫も。麦は体の中で散らばるから、好きじゃない」
ムギトカゲは手のひらほどのトカゲに似た魔法生物で、麦畑を荒らし、納屋へ入り込んでは穀物袋を食い破る。
聖所の床に残っていた細い跡を、エルシアは思い出した。ルルは夜になると村まで下り、納屋や穀物庫に入り込んでいたのだろう。
それが本当なら、村人に害を与えるどころか、蓄えを守っていたことになる。
けれど、本人の言葉だけで判断するわけにはいかない。
「明日の朝、村の人たちに聞いてみよう。ムギトカゲが減ったのか。誰かが困っていないか。それから、オスカーに会いに行く」
「オスカー、神官?」
「街道を見守っている人だよ。あなたのことを心配して、私に調べてほしいと頼んだ」
ルルの体がまた草むらへ傾く。
「私も一緒に話す。ルルが何をしたのか、先に確かめてからね」
「エルシア、逃げない?」
「今夜はここに泊まるつもり」
「屋根、半分ない」
「見れば分かるよ」
今度こそ、ルルの体が小さく弾んだ。
日が沈む前に、エルシアは残った屋根の下へ落ち葉を集めた。マントを敷き、石壁の隙間を鞄でふさぐ。食事にできそうなものはなかった。
ルルは赤い果物を一つ、体の中へ沈めた。
「それも捧げものじゃない?」
「もう食べた」
「早いね」
「返す?」
ルルの中で、赤い果物が少しだけ上へ戻った。
「そのままでいいよ。明日、受け取った分をどうするかも話そう」
果物は安心したように、また沈んでいった。
夜になると、崩れた屋根から星が見えた。森の奥で小さな獣が鳴くたび、ルルの輪郭が音のした方角へ尖る。しばらくして、エルシアのマントの端まで寄ってきた。
「そこ、寒い?」
「ルル、冷たいほうが形がまとまる。でも夜の音は多い」
「じゃあ、ここにいればいいよ」
「鞄も歩かない?」
「今夜は歩かない」
それを聞くと、ルルは鞄とエルシアの間で丸くなった。
翌朝、一人と一匹は沢を渡り、林に近い小さな村へ下りた。
エルシアは井戸のそばにいた女性と、納屋を直していた老人に話を聞いた。聖所へ食べ物を置いた者はいたが、脅された者も、病気になった者もいない。
「それどころか、今年はムギトカゲがずいぶん減ったよ」
老人は納屋の隅を指した。
「麦の袋を破られなくなった。夜になると、床を何か丸いものが通るって子どもが言ってたがね」
少し離れた桶の陰で、ルルの体が得意そうに膨らんだ。
「丸いもの、役に立った」
「まだ隠れているつもりなら、小さな声でね」
ルルは慌てて縮んだ。桶より小さくなっただけで、半透明の体は朝日に光っている。
話を聞いた範囲では、被害の話は一つも出なかった。村人たちは、ムギトカゲによる被害が減った礼として聖所に食べ物を置いていた。ただし、そこに誰がいるのかは誰も知らなかった。
村を出るころ、朝の光は街道の石を白く照らしていた。
「オスカーに、どう言う?」
隣を滑るルルが尋ねた。
「見たことを、そのまま話すよ。知らずに捧げものを受けたこと。人を傷つけず、ムギトカゲや穀物につく虫を飲み込んでいたこと」
「蜜がおいしかったことも?」
「聞かれたらね」
ルルは少し考え、エルシアの歩幅に合わせて進んだ。
一人と一匹は、オスカーの祠がある街道へ向かった。




