第23話
オーヴェンは、二つの窪みを見たまま動かなかった。
工房の外では、水車が一定の間隔で軋んでいる。いつの間にか日が高くなり、朝の光は作業台の端まで届いていた。
「分かった気がする」
やがて、老人は言った。
「彫ってると、分かるんだ。木の中に、形だけじゃないものが残る時がある」
ルルが木像から少し離れた。
「ルルの残り?」
「違う。おまえから削れたものじゃない」
「じゃあ、何?」
オーヴェンの手が止まる。答えの代わりに、太い親指が二つの窪みをなぞった。
「目を仕上げれば、動く」
「目が命を作るんじゃない。誰が彫っても起きることでもない。わしが形を追い込んだ時、まれに木の中に気配が残る。目は、そいつが自分の形をつかむ最後のきっかけになるらしい。なぜかは、わしにも分からん」
それは推測ではなかった。
昔、一度だけ最後まで彫った像が、自分の足で作業台を下りた。オーヴェンが呼び止めることも、捕まえることもできないまま、像は開いていた窓から森へ消えた。それからオーヴェンは、どの像にも目を与えていない。
「作ったものが動くのが怖かったんじゃない」
彼は小刀を置いた。
「動いたあと、どう扱えばいいのか分からなかった。売り物か。飼うのか。逃げたなら、追うべきなのか。わしには決められん。だから、目を彫らなければ済むと思った」
「済んでる?」
ルルが棚を見回す。目のない鳥、狐、ウサギ、眠る子どもが、工房の薄暗がりに並んでいた。
「……見ての通りだ」
エルシアは作業台の前に立った。
「私にも、これが何になるのかは分からない。安全だとも言えない」
「なら、やめるか」
「ううん。怖くなったところで、始めたことを途中で止めたままにはしないで。生まれるなら、そのあとの選択まで見届けよう」
オーヴェンはすぐには小刀を取らなかった。ルルを見て、木像を見て、最後に戸口を見た。
「逃げたら?」
「どこへ行くか、見よう」
「噛んだら?」
「木だから、たぶん痛いね」
「そこは止めろ」
低い声に、ほんの少しだけいつもの調子が戻った。
オーヴェンは細いのみを握り直した。片方の窪みに刃を当て、木槌を一度だけ振り下ろす。乾いた音がした。もう片方にも同じ一打を入れ、最後は小刀の先で、瞳にあたる小さな点を刻んだ。
何も起きない。
ルルが息をするように、体を一度ふくらませた。
「寝てる?」
「木は最初から寝てる」
「起こして」
「今やった」
言い合うルルと老人の間で、こつ、と音がした。
木像が右へ傾いた。
反対側の丸みが、わずかに遅れてついてくる。昨日から何度も見てきた、ルルの揺れ方だった。けれど二度目の揺れは違った。木像は自分で重心を探し、短い脚のような出っ張りを作業台に押しつけた。
そして、立った。
オーヴェンが息をのむ。喜びではなく、責任の重さに耐えるような顔だった。
木の生き物は、刻まれたばかりの目で、その場にいる者たちを順に見た。次の瞬間、作業台の端から飛び下りた。
床に落ちて一度転がり、丸い体を起こす。そのまま戸口へ向かって、こつこつと走り出した。
「待って」
ルルの声に、木の生き物が止まった。
「ルルと同じなの?」
返事はない。木の生き物は振り返り、しばらくルルを見た。それから来た道を戻り、作業台の脚の前まで歩いてきた。
ルルが床へ下りる。半透明の体と、淡いブナの体が向かい合った。木の生き物はルルに額らしい部分を一度だけ触れさせると、また戸口へ向き直った。
「戻ってきた」
オーヴェンがつぶやく。
「呼び声を聞いて、自分で戻ったんだと思う」
エルシアは答えた。
「だから、ここに残りたいとは限らない」
木の生き物は閉じた戸の前で、体を左右に揺らしていた。隙間から入る冷たい風に顔を向け、その向こうの匂いを探している。
「これを開けたら、森へ行く」
オーヴェンの手が、戸の取っ手にかかる。
「たぶんね」
「わしが作った」
老人はそこで口を閉じた。長い沈黙のあと、言い直す。
「わしの手から、生まれた」
「うん。でも、生まれたあとの行き先まで、作った人が決めていいわけじゃないよ」
ルルが小さく弾んだ。
「呼んだら、戻った。でも、ずっといるかは、あの子が決める」
オーヴェンは取っ手を下げた。
初冬の風が工房へ流れ込み、床の木屑をさらった。木の生き物はすぐには外へ出ない。敷居の手前で止まり、冷たい土に片足を置き、引っ込め、もう一度置いた。
それから、自分の重さを確かめるように、一歩ずつ歩き出した。
エルシアたちは少し離れてあとを追った。工房の裏手を抜け、共有林の手前まで来る。木の生き物は凍り始めた土、落ち葉、露出した根を一つずつ踏んだ。滑れば起き上がり、枝にぶつかれば回り込む。誰かの命令ではなく、自分の体で道を選んでいた。
森の入口で、エルシアは足を止めた。
「ここから先は、ついていかない方がいいね」
「捨てるの?」
ルルが尋ねる。
「違うよ。あの子が行きたい方へ行けるように、追いかけない。戻ってきたら、ここを知っている子として迎えればいい」
オーヴェンは答えず、木の生き物の背を見ていた。
小さな丸い影は、ブナの根元で一度だけ止まった。だが、もう振り返らなかった。そのまま落ち葉の色に溶け込み、こつこつという足音も遠ざかっていった。
老人は森に向かって、短く言った。
「行け」
命令ではなく、ようやく口にできた別れの言葉だった。
その夜、エルシアは客用の小部屋で横にならなかった。
窓の外には、初冬の森がある。冷えた地面は昼より硬く、水は土の奥へ退き、風は枝の間を細く抜けていた。火は工房の暖炉に集まり、エーテルだけが、離れたもの同士の気配をかすかにつないでいる。
五つの元素――地、水、火、風、エーテル。そのうち、今夜エルシアが追ったのは、地とエーテルの流れだった。
地は木の重さと輪郭を作り、どこまでが体で、どこからが外なのかを定める。エーテルは形の内側にある気配を、その輪郭に結びつける。命そのものを作る力ではない。ただ、自分がここにいると感じるための、細い道になる。
師と山の工房で暮らしていた頃、秋分の日にも同じ二つを観察したことがあった。
あの頃の地はまだ夏の熱を残し、エーテルは地表を広く滑っていた。昼と夜の長さが等しくなる日に、エルシアは二つの流れが釣り合う場所を探した。師は何も教えず、土の上に置いた石を指して、「どこまでが、その石だ」とだけ尋ねた。
当時のエルシアは、表面から内側まで全部、と答えた。
今なら、少し違う。
初冬の地は縮こまり、エーテルも秋分のようには広がらない。それでも木の生き物は、自分の重さで敷居を越えた。形を与えられたからではない。輪郭の内側を自分の場所として感じ、外へ踏み出す方を選んだからだ。
形は、外から見える線だけではない。
内側から、自分がそこにいると感じられる範囲でもある。
翌朝、エルシアは工房の前でルルと向かい合った。
冬の陽は低く、石の上には薄い霜が残っている。オーヴェンは少し離れた場所で薪を割っていたが、斧を振り下ろす動きは、いつもより静かだった。
「ルル。昨日の木の子が、自分の体をどう感じていたか、少しだけ分かった気がする」
「森の匂い?」
「それもあったかもしれない。でも、私が渡せるのは匂いじゃない」
エルシアは右手を差し出した。
「自分の形を、内側から感じるための手がかり。ほんの少しだけ、受け取ってみる?」
「人の形になる魔法?」
「違うよ。人の形も、完成した形も渡せない。ルルの体のどこまでを自分だと思うか、それを探しやすくするだけ」
ルルは差し出された手の周りを一周した。
「痛い?」
「たぶん痛くない」
「甘い?」
「たぶん味もしない」
「少し残念。でも、やる」
「この感覚を、ルルの中へ流してもいい?」
「うん」
エルシアはルルの表面に指先を触れた。
地の魔力で輪郭を押さえつけるのではなく、今ある丸い体の重さをたどる。そこに、ごく細いエーテルの流れを添えた。外から別の姿をかぶせるのではない。中心から表面まで、自分の体が続いていると感じるための、薄い道筋だけを渡す。
半透明の体の奥で、淡い光が一度またたいた。
ルルはじっとしたまま、長いこと何も言わなかった。やがて、右へ少し傾く。
「ルル、丸い」
「それは昨日も知ってたね」
「昨日は外から見た。今は、中から丸い」
薪を割る音が止まった。
「丸いのに、ずいぶん手間がかかるな」
オーヴェンが言うと、ルルは得意そうに二度弾んだ。
「丸いの、奥が深い」
まだ別の姿にはならない。腕も、顔もなく、人の声色をまねることもない。けれどルルは、自分の内側を確かめるように、ゆっくり輪郭を揺らしていた。
形は外から写すものではなく、内側から「自分がそこにいる」と感じるものだった。




