エピローグ ときめき色のリボン
オルタンシアが戻ってきたのは、よく晴れた朝だった。
リュシーが青と白のストライプを棚の前列に並べ、
黄色の半端リボンを小さな箱に分けていたとき、
奥の扉が何事もなかったように開いた。
「ただいま」
リュシーは手にしていた箱を落としそうになった。
「オルタンシアさん」
「あら、店がきれい」
「そこではありません」
リュシーはカウンターから出た。
「少し出かけるとおっしゃいました」
「ええ」
「恋の相談がひとつ終わるくらい、と」
「終わったでしょう。いくつも」
オルタンシアは悪びれずに笑った。
リュシーは王女としてではなく、リボン屋として、
たいへんきちんと怒った。
「説明が足りません」
「そうね」
「わたしは帰れると思っていました」
「そうね」
「王宮では留学中になっていました」
「そうね」
「そうね、ばかりでは困ります」
オルタンシアは柔らかなショールを揺らし、棚の奥のときめき色のリボンを見た。
「でも、あなたは逃げなかった」
リュシーは言葉を止めた。
「逃げられなかったのです」
「最初はね」
オルタンシアはカウンターの上の硝子瓶を手に取った。
中には、小さな銅貨が一枚入っている。
「これは?」
「小さなお客様からいただいたお代です」
「売値に足りた?」
「ちょうどでした」
オルタンシアはくすくす笑った。
「よい店番ね」
リュシーは少し顔を赤くした。
「褒めても、説明は必要です」
「古い魔法はいつも人を丁寧に選ぶわけではないの」
オルタンシアは言った。
「けれど、理由なく選ぶわけでもない。
この国では王族の子が魔法に呼ばれることがある。
剣に呼ばれる者、森に呼ばれる者。
歌に呼ばれる者もいた。
そして、リボンに呼ばれる者」
「リボンに」
「あなたは、王宮の中で飾られるより、
町の気持ちを結ぶほうに向いていた」
リュシーは棚を見た。
やきもち色。
口下手色。
遠まわり色。
白い祈り。
黄色い朝。
青と白のストライプ。
自分が選んだリボンたちが、そこにある。
「王女では、いられないのですね」
「王女としての暮らしには戻らないでしょう」
オルタンシアは静かに言った。
「でも、あなたが王女として受け取ったものはね、
消えない。
礼儀、責任、誰かの前に立つ強さ。
それを町で使うだけ」
リュシーは手首の菫色を見た。
「わたしは、ここに残るのですか」
「それは、あなたが選びなさい」
オルタンシアは、真鍮の鍵を差し出した。
初日に渡された鍵。
この店に閉じ込めるものだと思っていた鍵。
「今なら、扉はどこへでも開くわ。
王宮の裏門へも、遠い国の学院へも。
この店の外の路地へも」
リュシーは鍵を受け取った。
手のひらの中で、鍵は温かかった。
「王宮へ帰れば」
言いかけて、リュシーは止まった。
帰れば、どうなるのだろう。
父と母は抱きしめてくれるだろう。
侍女は泣きながら髪を梳いてくれるだろう。
衣装部屋には、山ほどのリボンが待っているだろう。
でも、店の扉はどうなる。
花かごの少女は、次の恋に迷ったときどこへ来るのだろう。
パン屋の娘と少年は、けんかをしたら誰にほどけにくいリボンを選んでもらうのだろう。
小さな男の子は、お母さんが笑った日の話を誰にするのだろう。
リュシーは気づいた。
自分はもう、王宮へ戻りたいだけの女の子ではない。
町に、知っている顔が増えすぎた。
「わたしは」
リュシーは鍵を胸に当てた。
「ここにいます」
オルタンシアは笑った。
「寂しくない?」
「寂しいです」
リュシーは正直に言った。
「でも、不幸ではありません」
ときめき色のリボンが、棚の奥で明るく光った。
初めて見たときと同じように不思議な色合いだった。
白のようで、薄紫のようで。
朝焼けの桃色のようでもある光。
リュシーは手を伸ばした。
「もう一度だけ、結んでみても?」
「どうぞ」
リュシーは鏡の前に立ち、ときめき色のリボンを髪の横に結んだ。
きゅっと。
今度は少しだけ、長く留まった。
リュシーの胸が高鳴る。
けれど次の瞬間、リボンはするんとほどけた。
ひらひらと、彼女の手に落ちてくる。
リュシーは手の中のリボンをしばらく見つめた。
そして、笑った。
「まだ、わたしのものではないのね」
「悲しい?」
「少し」
リュシーはリボンを棚に戻した。
「でも、前ほどではありません。
わたしはこのリボンを、
誰かの気持ちに結ぶ係ですから」
オルタンシアは満足そうにうなずいた。
「では、店主はあなたね」
「オルタンシアさんは?」
「ときどき戻るわ。棚の奥でお茶を飲みに」
「それは店主ではなく、困った常連です」
「いい響きね」
二人は少し笑った。
昼前、オルタンシアはまた奥の扉へ向かった。
「今度は、いつ戻りますか」
「必要なときに」
「それは長いのですか、短いのですか」
「店主次第ね」
言い終える前にオルタンシアは扉の向こうへ消えた。
リュシーはため息をついた。
「やはり説明が足りません」
けれど、もう追いかけなかった。
リュシーは棚を整え、カウンターを拭いた。
青と白のストライプをいちばん見える場所へ置いた。
硝子瓶の銅貨も磨いた。
窓の外には、王宮の塔が小さく見える。
リュシーはそこへ向かって、ほんの少し頭を下げた。
父上、母上。
わたしは今日、ここに残ることを選びました。
王女としての暮らしからは離れたけれど。
あなたたちに、教わったものを持っていきます。
町から、この国を見ています。
手紙にはしなかった。
けれど、きっと届く気がした。
そのとき、入口の鈴が鳴った。
ちりん。
若い女性が立っていた。
手には何も持っていない。
ただ、胸の前で指をぎゅっと握っている。
「あの」
「いらっしゃいませ」
リュシーは椅子をすすめた。
ときめき色のリボンが、棚の奥でそっと光る。
まだ、自分には身につけられない。
けれど、もうそれを悲しいとは思わない。
誰かの気持ちがここへ来る。
誰かの言葉にならない思いが、リボンを探している。
リュシーは、町のリボン屋として微笑んだ。
「お話を、聞かせてください」




