26.アルテミス、君はもう居ないと分かっている。
あの日、ジェイドに噛みつかれて己の運命を知ったアルテミスを見つけたのは路地裏だった。ヴァンパイアに噛みつかれ、血を混ぜ合わされた者は一旦眠りに落ち7日後に同族となる。息も絶え絶えの彼女はもう覚醒のための眠りを待つだけだった。
『カイ…ン?』
『すまない…遅すぎた…』
微笑む彼女。
『お願い…殺して…私が…化け物になる前に…』
『っ! 俺にそれをやれというのか!』
『今は貴方しかいないじゃない! 私を見つけた貴方しか!』〟
『……俺の気持ちを知っての事か』
悠然と微笑む彼女。血が腹から滲んで輪を広げていた。
『貴方に私をあげる、といっているのよ? 私の心臓を、血を』
『魂は、あいつのもの、か』
『そうよ、この心臓を、血をあげても魂はあの人のモノ…貴方に、ましてやあいつに渡すものか。でも貴方が少し良い化け物だから、私の心臓、血をあげようって言っているの』
『アルテミス…』
ふっ…と彼女の瞳が一瞬陰り、眠ってしまうのかと思ったが、ややあって輝きを取り戻す。
『神話の女神のように、アルテミスは一人のために貫くの…おねか…い…貴方も…この匂いにもう…耐えられないんじゃなくて?』
『貴女は残酷な人だ……』
伸びきった犬歯が唇に触れているのに気がつかれている…飢えが、乾きが…
『早く心臓を…早く!!』
切れた、理性
彼女の残酷な最後のセリフが、今も残っている。
『スキと言えなくて、ゴメンナサイ。大嫌いよ化け物。でも…貴方に会えて、良かったわ』
◇ ◇ ◇
「ルナッ!!」
差しのべた手が後少しで届くのに、ジェイドの身体が届く方が早いなんて。身体中の筋肉をフル回転させながら祈る様に手を伸ばす。否、まさにその瞬間俺は祈っていた。
―あの子の為に。あの人の為に。
時が止まった様に感じた。
ガウウウウン!!!
一つの、銃声が耳をつんざく。僅かして横を通り過ぎる小さな質量。火薬の匂い。その先。
「が……はああああああああああ!!!」
叫んだのは、ジェイドだった。残った左腕が肩ごと吹き飛んで、大量の血がシャワーの様に噴き出していく。ジェイドの腕が飛んだ瞬間にルナの肩に手が触れ、無意識に引き寄せる。血が自分の肩にかかり、逃げる様に飛びずさった。彼の方を改めて見る。端正な顔を鬼の形相のごとき有様に歪め、ただ一点を見つめているジェイドの視線の先を、二人で追っていた。
「この銃弾…きざまかああ!!!」
口から血を吐きだしながらジェイドがその方向へ吠えてかかった。
「え…」
カツーン…
教誨の入口に靴音が一つ、響き渡り。
「あーあ、なさけないな」
間の抜けたような声がその場に響いた。そして次にカチリ、という音と硝煙の匂い。規則正しく鳴らされる靴音は壊れた教誨にも良く反響した。
「あんたもあんただよ、そこの紫電の瞳の怪物。大事な女、見放すんじゃねえよ。おかげでお姫様が怪物の血ちょっと飲みこんじゃったぞ。まあ…それは後で考えよ」
「貴方は…」
軽く顔に血しぶきを浴びてしまったルナが、驚いて目を見開いている。それを見た瞳が少し面白そうに揺れた。
「ヴィオ…ヴィオ=クエイルード…」
前に会った服装とは違い、今のヴィオは黒い服に身を包み、片手に銀の銃を携えていた。その美しく荘厳な姿はまるで異界の者の姿を思わせた。カインに手を貸してもらい、よろよろと立ちあがりながら、ルナは彼の姿を今一度視界に納めた。黒の衣装はまるで神父の服を模しているかのようにゆったりとしていたが、インナーに着こんでいるものは身体のラインに沿うようなぴったりとした半そでトップス。その上から襟付きの裾の長いジャケット、というかコートを羽織って、その裾を優雅にたなびかせている。やがて近くに来たヴィオにカインはいち早く威嚇していたが、ルナはそれを無言で制し、彼を見上げた。ヴィオがこちらを見てクスリと声をあげる。
「…綺麗な顔が血だらけ…」
大丈夫? そう言って頭をなでられた。唖然となる。何故彼が?
「…ま、こういうことだよ。言ったでしょ? また会うよって。さってと…」
改めてジェイドの方を見やる。もう力がないのか、両手を失った身体は床にはいつくばる様に倒れていた。息も荒く、肌は血を失ったせいか青白い。それでも瞳の鋭さは失われず、煌煌とこちらを見つめていた。そしてヴィオの顔を視界に納めると獣のごとく歯を剥いた。
「貴様! なぜここに居る!」
「何故? 愚問だろうジェイド? お前がいるからだよ」
氷の様な瞳で見降ろし、ヴィオが冷たく言い放つ。
「しばらく見ないと思ったら女の連続殺人なんかおっぱじめて。まああいつがカインをひっぱりだしてきたから何かあるかと見張ってたらルナがいた。…ピンときたよ。あいつがルナをエサにお前らでチェスをしようって腹さ」
「あいつ…?」
うつろに呟いた言葉をヴィオが目ざとく拾って、くるりと振り向きざまにこちらに笑いかける。綺麗に笑うその表情は汚れない天使の様だった。
「君は知らなくていい事だよ、僕らの月。知らない方がいい」
「ヴィオ…貴方は何者なの…」
ヴィオは困ったように苦笑し、カインはじっとりとした眼差しでヴィオを見つめている。しばらくしてその表情に耐え切れなくなったかのように彼はふう、と一息つくと、仕方のない、と言った感じでがりがりと頭を掻きながらルナの前に進み出た。
「まいったな…ルナにちょっかいだしすぎたかな。正体まで明かすつもりなかったんだけど」
「貴様…」
「わかったよ」
降参、という風にしぶしぶと両手をあげてルナに向かって丁寧に腰を折ってお辞儀をする。
「俺もヴァンパイアだよ。まあそこの吸血鬼さんより格下ってことさ、小憎らしい事に」
「格下?」
そう言ってちらりとカインを見やると、彼はふん、と鼻をならして彼を見返した。
「ヴァンパイア・ハンターが何を謙虚に」
「ぃ。さすが数世紀生きると違うね。それもばれちゃってんの?いいけどさあ…」
やれやれと両手を肩までもちあげて、ヴィオは首をすくめる。目を白黒させているルナを見てから、いつもの笑顔が燦然と輝いた。
「黙っててもしょうがないしゲロっちゃうけど、俺は7番目に生まれた片親の魔女の血統から生まれた半ヴァンパイア。まあそれで俺もその一つってわけ。まあ、それで宿命のようにヴァンパイアハンターに。俺だけじゃない世界中でね、そういうハンターはいる。といっても昔みたいに居たら殺ってくって事もなくて、監視役みたいなものを兼ねてる。俺はこの地区担当、みたいな。厄介者の多い地区だしねー」
「はあ…」
ころころと愉快そうにわらうヴィオをしり目にルナは呆れたような声で答えた。
「ま、もっと厄介なのがいるんだけどねぇ…」
ちらりとカインの方に意味ありげな視線を投げかける。ふん、とカインはその視線をいとも軽く扱って流した。まあそれはいいや、とため息を吐くと、ルナの頬についた血を指で拭い、舌先でそれを舐めとった後、不味そうに顔をしかめた。ああ、ともどかしそうにつぶやくと、ルナの頬を指でなぞる。
「あれの血は駄目だなぁ。やっぱルナの方がいいなぁ…いって!」
「したら貴様の命が無くなると思え」
いつの間にかカインがヴィオの手首をひねりあげている。ふう、とため息をついた。ヴァンパイアって常にこんなんなんだろうか。まあ血の渇望は本能だし仕方のないことだけれど、性格まで変わりモノなのかしら。ていうかなんでヴィオはカインを知っているの? 昔からの中と言う訳ではなさそうだが。カインはそんな事読ませないし、ヴィオも…読ませそうにはない。ヴィオは親指で倒れてもがいているジェイドを指し、ふん、と息をもらす。
「ま、それはいいとして、アイツ要るんでしょ。お前の刑期をまがりなりにも減らす…俺としては至極どうでもいいが」
「…戴いていく。三千年くらいは減るだろう」
今更だけど、カインの刑期ってどれくらいなんだろう。ふう、とため息をついて、手首切っちゃったし、どう手錠をかけようか、とヴィオに相談しているカインを見やる。これでカインは帰っちゃう。あの白い地下牢へ。別れる時間は目の前にある。あーあと至極興味がなさそうにため息をついて、ヴィオは肩をすくめた。
「ま、拘束術かけても手無いし意味ないか、さっさと連行しちゃえば?」
「ああ…ルナ?」
「…っ! …ええ」
ぼーっとしていた所へ声をかけられたので反応が遅くなり、声が上ずる。気がつかれてしまっただろうか。すたすたとジェイドの方に歩いていくカインを追った。近くに来ると、ジェイドが変わらず射殺すような強い眼差しでこちらを睨み付けてくる。
「…ぐっ…貴様のような下賤の者に触れさせて…があああ!!」
「うるさいよこの爺」
バキイイイイ!!!
一言終わる前に傍らのヴィオが冷酷な瞳でジェイドの身体を踏みつけた。バキバキと骨の砕ける音が響き渡ると同時にぐじゅぐじゅと修復の音、ジェイドの咆哮が混じり合って奇妙な不協和音を立てて響く。彼はそんな行為もやり慣れているから平気なのだろうが、自分は一応人間なのだから、そんな事不快なだけだ。たまりかねて声を上げる。
「ヴィオ…」
ヴィオはジェイドの肩をぐりぐりと踏みつけながらきょとんとした顔でこちらを見る。その顔は悪い事が分からない子供の様に純朴そのものだ。踏みつけていた足を上げて何もない場所に降ろすと、不思議そうにまたこちらを見つめた。
「どうして? …君を傷つける者はどうあっても滅ぼさなくちゃ。この爺は君を殺そうとしたのに?君は相変わらず優しいね月の女神。俺ならこんなのとっくに肉片にして塵に還してる…ああ」
ふ、と気がついたようにカインに目を向け、そしてまたルナへと向け、皮肉気に唇を釣り上げた。
「アイツの為、か。なんだろうね…何だかカインも殺したくなってきた」
「止めてよ!」
「ルナ」
低く、諭す様な声が上から降りかかると同時に背後から抱きしめられ、引き寄せられた。耳元に軽く息がかかってぞわりと背中が粟立つ。
「落ち着け」
「っ…」
「さ、俺の月。連行といこうか」
そのまま足をすくわれ抱えあげられる。にっこりと笑顔で腕の中にいる自分を見下ろされて抵抗も出来ない。カインはそのまま顔を上げてヴィオに目で合図すると、ヴィオがやれやれと言って傍らに這い蹲るジェイドを抱えあげようとした。
―刹那。
(…やれやれ、使えないのは…)
自分の頭の中に、この場所にはいない何者かの思念がパッと飛び込んできて反射的にびくんと身体が跳ね上がった。次の瞬間には口がカインを呼んでいた。
「カイン!」
(モウイラナイ)
パアアアアアアン!!
自分の叫びとほぼ同じくして、水風船を思い切り割ったような破裂音が辺りに響き渡る。次に液体が地面に叩きつけられるビチャァ! という音がする。顔を上げ、自分の目の前の光景に愕然とする。彼女の眼の前に見えるのは彼、緑色の瞳を持つ彼、ジェイドがその緑の瞳大きく開いたまま固まっている。何が起こったの?という風にその顔は唖然としたままだ。
「……え?」
「ちい!!」
ヴィオが舌打ちをした時にはもう遅い。ジェイドの心臓ー正確にはあったであろう場所に大きな空洞が出来上がっていた。ジェイドは自分の胸を見下ろし、そしてまたこちらを見た瞬間、パキパキパキ…と彼の身体が石化してひび割れていく。
「しまった! 後催眠か!」
「違うわ! 誰かが…」
叫ぶカインに誰かが彼の心臓を潰した…と答えようとしたが、後半が声にならずに消えた。背中がさっきから寒い。誰かが見ている。今も、こうして、どこかで。寒気が走り、背中が針で刺されるような感覚に包まれる。誰かに見られている時にいつもこうなる。その恐怖、見えない圧力に声が出ない。目の前でジェイドがだんだんと石化して割れていく。パリン、パリンと欠片になっていく彼を見つめるしかできない。どうしてこうなってしまったのだろう。彼はどこで歯車を違えてしまったのだろう。12人も人を殺し、そして最後が自分となるなんて。
「アルテミス…」
かすれてか細くなってしまった声を聞きとって、ルナは目の前にゆっくりと歩み寄る。彼はもう大半が灰になって、風がさらさらと運び去っていく。
「君に…逢いたかった…もう一度……ねえ…あるて…みす…もう一度…この目を見て…」
つぅ、と彼の緑の眼尻に涙が伝う。その感情に胸が痛む。彼は純粋に彼女を愛していたのだろう。その純粋さが凶器だったのだ。だがこうなってしまっては…せめてもの安らぎを与えるには…少し考えて、そっと唇を動かした。
「綺麗なグリーンの瞳ね」
ー彼は、笑った。
「アルテミス…もう一度…逢えた…僕の月」
パキイイイイン!
最期の彼は、笑顔だった。




