凛太郎と聖生と麻奈未と
麻奈未は地下鉄を降りると、猛ダッシュで階段を駆け上がり、地上に出た。
(聖生みたいな厚かましい女なら、直接凛君の勤務先があるビルに行っているはず!)
麻奈未は呼吸を整えると、帰宅途中の人々がたくさん行き交う舗道を走り始めた。
「凛君に何かしたら、許さないんだから!」
麻奈未は周囲の人が驚いて振り返るのも気にせずに叫んだ。
その頃、聖生は強引に凛太郎を近くにあるカフェに連れ込み、窓際の席に相向かいに座っていた。
「あの、ご用件は?」
凛太郎は幾分怯え気味である。聖生は作り笑顔を全開にして、
「実はですねえ、お昼休みに偶然、凛太郎さんをお見かけしたんです」
その言葉に凛太郎の顔が引きつった。
(まさか?)
じんわりと額に汗が浮かんでくるのを感じつつ、凛太郎は、
「それで?」
探るように聖生の顔を見る。聖生は心の中で、
(しめた!)
ガッツポーズをとって、
「姉と一緒でしたよね?」
凛太郎の顔が更に引きつった。
(まずいのか? でも、麻奈未さんの妹さんだから、俺と麻奈未さんが付き合っているのは知っているし、何も疚しい事はない)
凛太郎は意を決して、
「それが何か?」
どこまで話を聞かれたのかわからないので、慎重に言葉を選んで尋ねた。
「途中からだったので、定かな事はわかりかねるのですが、姉は凛太郎さんに別れを切り出したような気がしたのですが、私の聞き間違いでしょうか?」
聖生は笑顔のままで訊いた。その瞬間、凛太郎の頭は真っ白になった。
(ほぼ聞かれていたのか?)
凛太郎が瞬きもしなくなったので、聖生は、
「凛太郎さん、聞いてますか?」
確認のために声をかけた。
「いらっしゃいませ」
そこへ店員の女性が水を運んで来た。
「私、ホットコーヒーを」
聖生は微笑んで告げ、凛太郎を見る。
「あ、同じもので」
凛太郎はハッとして言った。
「畏まりました」
店員の女性は二人の只ならぬ雰囲気を感じ取ったのかそそくさと店主のいるカウンターへ歩き出し、
「ホット二つです」
注文を伝えると、一度チラッと振り返ってから、カウンターへ入って行った。
「そうです。麻奈未さんに別れようと言われました」
隠しても仕方がないと思い、凛太郎は聖生を見た。聖生はふうっと溜息を吐き、
「姉は理由を言いましたか?」
麻奈未が何も告げずに立ち去ったのを知っているのにも関わらず、尋ねた。
「いえ。僕が言葉を発する事ができなかったので、麻奈未さんはそのまま立ち去りました」
凛太郎は視線を落とした。聖生は、
「まあ、酷い。そんな別れの切り出し方ってないですよね。姉に代わって謝罪します。申し訳ありません」
頭を下げた。しかし、下げた状態で顔は笑っていた。
「そんな、やめてください。きっと、僕が至らなかったんです。麻奈未さんはそれを言わずにいてくれたのだと思っていますから」
凛太郎は聖生が顔を上げないので、慌てていた。
「優しいんですね、凛太郎さんは」
聖生は出てもいない涙を拭うふりをしながら顔を上げた。
「いや、そんな……」
凛太郎は聖生が泣いていると思い、ますます慌てていた。
「私、姉が凛太郎さんと付き合う前から、ずっと気になっていたんです」
チャンスと見た聖生は動いた。
「え?」
凛太郎はいきなり聖生に右手を両手で握られ、顔を赤らめた。
(お姉とは手も繋いだ事がないのは本当みたいね)
聖生は凛太郎の手を強く握りしめ、
「節操のない女だと思われるでしょうけど、それでも構いません。これを機に私とお付き合いしてくださいませんか? 不人情な姉の事など綺麗さっぱり忘れて」
ぐいっと自分に引き寄せて顔を近づけた。
「あ、あの……」
凛太郎の顔は更に赤みを増した。
(もうひと押し!)
聖生はここぞとばかりに目を潤ませた。
(瞬きを抑えて目を乾かしたから、涙も出る!)
今度は本当に涙が浮かんで来た。女性の店員と店主も固唾を呑んで見守っているのがわかった。店主は店員にコーヒーを持って行くように身振り手振りで指示した。店員はトレイにカップを二つ載せて、静かに近づいた。
「聖生さん、お気持ちは嬉しいのですが」
凛太郎はそっと聖生の手を解いて言った。
「は?」
聖生は今まで一度も男に告白した事がない。全部、男から告白されて付き合ってきた。自分が魅力的な女だという自負もあった。恋愛初心者の凛太郎に断られる事なんてあり得ないと確信していた。ところが、凛太郎は、
「僕は麻奈未さんの妹さんとお付き合いする事はできません。ごめんなさい」
それだけ告げて立ち上がった。
「凛太郎さん!」
聖生はまさに目を見開いて凛太郎を見上げた。
「失礼します」
凛太郎は女性店員の持っているトレイから伝票だけ取ると、電光石火の早業で会計をすませ、店を出て行ってしまった。聖生はその間ずっと凛太郎を見ていたが、何も言えずにいた。
「はあ、はあ」
麻奈未は地下鉄の駅から凛太郎の勤めている税理士事務所のあるビルまで駆け続け、息が上がっていた。
(間に合って!)
麻奈未は税理士事務所があるビルのエントランスへ駆け込んだ。
(聖生はいない。どこ?)
麻奈未はロビーを見渡し、警備員に気づいた。
「あの、すみません、この女性が来ませんでしたか?」
麻奈未はスマホに入っている聖生の写真を見せて訊いた。警備員はそれをじっと見てから、
「ああ、いらっしゃいましたよ。男の方と出て行かれました」
すると麻奈未は警備員に詰め寄り、
「どっちに行きましたか?」
警備員は鬼気迫る表情で美人に顔を近づけられたので、息が止まりそうになりながらも、
「どちらに行かれたのかは見ていません」
「そうですか、ありがとうございました」
麻奈未は頭を下げながら、ロビーを出た。
「どっち?」
左右を見たが、もちろん凛太郎の姿はない。
(手当たり次第に探すしかない)
麻奈未は右方向へ走り出した。その直後、そのビルの斜向かいにあるテナントビルの一階のカフェから凛太郎が出て来た。そして、麻奈未とは逆方向へ歩き出した。
「麻奈未さん……」
凛太郎は星が見え始めた空を見て呟いた。
「はっ!」
しばらくの間呆然としていた聖生は我に返って周囲を見回した。女性店員は素早く顔を背け、ジッと見ていた事を誤魔化そうとした。店主も態とらしくカップを布巾で磨き始めている。目の前に置かれたコーヒーはすっかり冷めていた。聖生は大きく溜息を吐くと、自分の分のコーヒーを一気に飲み干し、
「ご馳走様」
力なく微笑んで店を出て行った。
「聖生!」
その時、麻奈未の怒声が聞こえた。
「お姉?」
聖生は姉の声に身じろぎ、その形相に息を呑んだ。
「あんたねえ!」
麻奈未は聖生にぶつかりそうな勢いで詰め寄ると、
「凛君はどこ!? 凛君に何をしたの!?」
聖生の両肩を掴み、前後に揺さぶった。
「何もしてないわよ! 落ち着いてよ、お姉!」
聖生は麻奈未の手を振り払って叫んだ。
「それなら、凛君はどこにいるの?」
麻奈未は周囲の目が集まり始めていたので、聖生を促して舗道を歩きながら尋ねた。
「知らないわよ。先に出て行ってしまったから」
聖生は肩をすくめて応じた。
「どういう事?」
麻奈未は眉をひそめて訊いた。
「見事に撃沈したのよ。麻奈未さんの妹さんとはお付き合いできないって言われてね」
聖生は口を尖らせて麻奈未を見た。
「そうなんだ。何だ、よかった」
麻奈未は堪えきれずに笑い出した。
「私、今まで一度も振られた事ないのにさ」
いじける聖生を麻奈未は嬉しそうに見て、
「それはそうよ。凛君は年上が好きだって言ってたもん」
誇らしげに言った。
「何よ、それ!?」
聖生はムッとして麻奈未を見た。




