続くすれ違い
お昼休みになった。麻奈未は国税局の建物を出ると、近くの食堂で手早く食事をすませ、すぐそばの公園へ行った。
(凛君、今度こそ!)
聖生には直接会って話すと言ったが、やはりそれは無理と思い、電話をする事にした。麻奈未は震える指でスマホを操作して、凛太郎へ連絡をした。コールがしばらく続き、
「留守番電話サービスに接続します……」
繋がらなかったので、慌てて切った。
(どうして? 何で?)
麻奈未はまた涙ぐんだ。
(やっぱり、直接会うしかないの?)
そう思ったが、やはり怖い。もし、凛太郎に面と向かって拒否されたら、どうなってしまうのだろうと考えると、足がすくんだ。
「ああ……」
昼休みの時間が残り少ないのに気づき、麻奈未は国税局に戻って行った。
(凛君のお母様の事務所はどこにあるのかしら?)
麻奈未は信号待ちの時間を利用して、ネットで調べた。高岡綾子税理士事務所は簡単に検索でき、住所も電話番号もすぐにわかった。
「あら?」
ホームページの所長の挨拶に掲載されている高岡税理士の写真を見て、麻奈未は見た事があるような気がしてきた。
(どこかでお会いしたのかしら?)
それが昨夜の居酒屋で、泥酔していた時だとは夢にも思わない麻奈未であった。
(事務所に連絡したら、凛君が出るのかな?)
それを試そうと思ったが、もし高岡税理士が出たら、パニックになってしまう気がして、行動に移せない。
(どうしよう?)
麻奈未は信号が変わり、人の流れが生まれたので、横断歩道を渡り始めた。
「ああ!」
一方、凛太郎はスマホをバッグの中にしまい込んでいて、鳴っているのに気づき、慌てて探したのだが、一歩遅くて切れてしまったので、がっかりしていた。
「どうしたの? 麻奈未さんからだったの?」
自分の机でパソコンを起動していた綾子が顔を上げて尋ねた。
「うん……」
凛太郎は項垂れたままで応じた。
「だから、お昼休みがチャンスだって言ったのに、グズグズしているんだもの。本当にダメねえ、あんたは」
綾子は肩をすくめた。そして、
「さっさとかけ直しなさい!」
凛太郎に歩み寄り、背中を叩いた。
「でも、もうお昼休みが終わっちゃったから、無理だよ。麻奈未さんは公務員だから、時間には厳しいんだよ」
かけ直すのが怖い凛太郎は見え透いた言い訳をした。
「ああ、そう。だったらずっとそうしていなさい。もう、母さんは知りませんから」
綾子は強めに言うと、パソコンに向かった。
「……」
綾子に見放された凛太郎は呆然とした。
(ちょっときつ過ぎたかな?)
落ち込んでいる愛息を横目で見て、綾子は思った。
(私が代わりに麻奈未さんと話をしてあげようかな)
そんな事を思い始めてしまう綾子は「凛太郎命」の母親でもあった。
「凛、スマホ貸して。母さんが麻奈未さんと話をするから」
綾子の言葉に凛太郎はビクッとした。
「ダメだよ! 母さん、麻奈未さんに酷い事を言うつもりだろ? 絶対にダメだよ!」
凛太郎はスマホを握りしめると、綾子から飛び退いた。
「はあ? そんな事、する訳ないでしょ? 未来のお嫁さんに」
綾子は意味がわからない事を言い放った凛太郎を睨みつけた。
「お、お嫁さん?」
凛太郎はその言葉に麻奈未のウエディングドレス姿を想像して顔を赤らめた。
「ほら、貸して!」
綾子は椅子から立ち上がり、凛太郎に詰め寄った。
「嫌だ、絶対に嫌だ! 母さんは麻奈未さんに嫉妬しているから、絶対にダメ!」
凛太郎は更に飛び退いて綾子から離れた。
「嫉妬? 何訳のわからない事を言ってるのよ。あんたがどんどん麻奈未さんと連絡を取りづらくしているから、助けてあげるって言ってるのよ!」
綾子は自分の感情を見抜かれた気がして、声に怒気を滾らせて言い返した。
「嫌だよ!」
凛太郎はスマホを後ろ手に隠して抵抗した。
「いいから貸しなさい!」
綾子の声が一段と大きくなった。凛太郎はまたビクッとした。
「ほら」
その一瞬の隙を突き、綾子は凛太郎からスマホを取り上げてしまった。
「ああ!」
凛太郎は焦って綾子に掴みかかろうとしたが、綾子はそれをすり抜け、スマホを操作して麻奈未にかけた。
「母さん!」
凛太郎は涙ぐんで叫んだ。
「留守電になった」
綾子は通話を切ると、凛太郎にスマホを差し出した。凛太郎はそれをひったくるように取り返すと、
「麻奈未さんと直接会って話すから、もう何もしないで!」
スマホをスーツの内ポケットに入れた。
「はいはい。好きになさい」
綾子は自分の机に戻ると、椅子に腰を下ろした。
「ああ……」
午後の会議を終えて席に戻った麻奈未は凛太郎からの着信を見て溜息を吐いた。
「誰から?」
向かいの席の姉小路がニコニコして尋ねた。麻奈未は作り笑顔で、
「妹からです。次は夕ごはんの当番を忘れないでねって」
咄嗟に嘘を吐いた。
「妹ちゃんから?」
ところが、聖生にも興味がある姉小路は身を乗り出した。昨夜野間口絵梨子に酷い目に遭わされたのを忘れてしまったかのようである。
「姉小路さん、妹には恋人がいますので」
麻奈未はあまりにも節操がない姉小路に目を細めて告げた。
「ああ、そうなんだ」
姉小路はがっかりした顔で席に着いた。
(姉小路さんて、女性なら誰でもいいの?)
麻奈未は姉小路に寒気を覚えた。
(定時を過ぎたら、すぐに凛君に連絡しよう)
麻奈未はスマホをスーツの内ポケットに入れた。
「はい、わかりました」
織部が電話を終えて席を立った。
「部長が局長に呼ばれたらしい」
織部は麻奈未と姉小路を見て言った。
「局長にですか?」
麻奈未と姉小路は異口同音に言った。織部は頷いて、
「そうだ。どうやら、あちらが反応したようだ」
フッと笑った。姉小路はキョトンとしたが、麻奈未は顔を引きつらせた。
「局長に長官から連絡があったそうだ」
「そんな上からですか?」
姉小路は事情を飲み込めていなかったが、長官という言葉にギョッとした。言うまでもなく、国税庁長官である。
「決定的ですね。間違いなくブレインホークと関わりがあります、その人物は」
麻奈未が言った。織部は麻奈未を見て頷き、
「バカな秘書の尻拭いをせざるを得なかったのだろう。まあ、心配する事はない」
織部は麻奈未が深刻な顔をしているので、右の肩を軽く叩いた。
「はい……」
麻奈未はそれでも気持ちが落ち込んでしまった。
「やり過ぎだよ、尼寺。君に脅迫まがいの事をされたと先方は長官に言ってきたそうだ」
局長室の自分の机を強く叩き、局長が査察部部長の尼寺を睨んだ。尼寺は背筋を伸ばして、
「申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げた。局長は椅子を回転させて背を向けると、
「君は私の昇進を潰すつもりかね?」
尼寺は顔を上げて、
「いえ、決してそのような事は考えておりません」
局長はまた尼寺に向き直り、
「だったら、もう少し考えて行動しろ。わかったな」
「はい、気をつけます」
尼寺はもう一度頭を下げた。
「もういい。行きたまえ」
局長は右手を振って言った。
「はい。失礼致します」
尼寺は一礼すると、局長室を出て行った。
「だから、ブレインホークには手を出すなと言ったんだよ!」
局長はまた机を強く叩いた。
「ご迷惑をおかけしました」
部長室に戻った尼寺を情報部門の統括官と織部が訪問した。二人は一緒に頭を下げた。尼寺は笑いながらソファを勧め、
「謝るのが私の一番の仕事だ。気にするな」
織部達と向かい合って座った。
「先方は火消しをしたいのだろうが、自ら関係者であると言ったようなものだ。調査は進めてくれ。地検特捜部も待っている」
「はい」
織部の情報部門の統括官は頷いて応じた。
「但し、荒っぽいのがいるから、部下の安全を第一に考えてくれ」
尼寺は情報部門の統括官に言った。
「わかりました。的を絞れたので、二人一組、あるいは三人一組にします」
その時、机の上の電話の内線が鳴った。
「私だ」
尼寺は素早く立ち上がって受話器を取った。
「そうか」
尼寺は外線を取った。
「お電話代わりました、部長の尼寺です」
しばらく相手が話しているようで、尼寺は机の上のメモ帳にボールペンで書き取りを始めた。
「ありがとうございます。早速係官を派遣します」
尼寺は受話器を置いて織部達を見ると、
「検察庁からだ。柿乃木啓輔が政治家との会話を録音していたらしい。それを取りに銀行へ行くそうなので、担当の者を検察庁へ行かせてくれ」
メモを破り取って差し出した。
「わかりました」
情報部門の統括官がそれを受け取った。
「昨日は本当にありがとうね、代田君」
中禅寺茉祐子は代田充を無人の会議室に呼び出していた。
「いえ」
代田は昨夜の茉祐子との濃厚なキスを思い出して顔を赤らめた。
「積極的な女子は嫌い?」
茉祐子が小首を傾げて尋ねた。代田は俯いて、
「いえ、嫌いじゃないです」
すると茉祐子はフッと笑って、
「代田君は伊呂波坂先輩狙いだって聞いた事があるよ」
その言葉に代田はビクッとして、
「いえ、その、あの、ええとですね……」
完全にパニックになってしまった。
「気にしなくていいよ。私はそういうの関係ないから。狙った獲物は逃さない主義だし」
茉祐子はスッと距離を詰めて代田に密着して来た。
「え?」
代田の心拍数が跳ね上がったのは茉祐子にもわかった。
「昨日の続き、いつする?」
茉祐子は代田の顔に吐息がかかるくらい近づいた。
「今日にでもお願いします」
代田は顔を引きつらせて言った。
「わかった。またメールするね」
茉祐子は手を振って会議室を出て行った。
「ふう……」
全身の力が抜けた代田はその場にしゃがみ込んだ。
「ああ、中禅寺、いたか。ちょっといいか?」
情報部門のフロアに戻るなり、統括官が声をかけて来た。
「はい、何でしょう?」
茉祐子は仕事の顔になり、統括官の席に近づいた。
「検察から連絡があってな。柿乃木が政治家との会話を録音したものを銀行の貸金庫に保管していると言ったらしい。確認のため、その銀行に検察の人間と一緒に行って欲しい」
統括官は茉祐子を見上げて告げた。
「わかりました。検察庁へ行けばよろしいのですか?」
茉祐子が訊いた時、代田が遅れてフロアに現れた。統括官は代田をチラッと見て、
「そうだ。代田と一緒に行って来てくれ」
代田は自分の名前が出たので、
「はい?」
統括官を見た。統括官が手招きをしたので、代田は茉祐子の隣に立った。
「話は私が通しておくので、すぐに向かってくれ」
統括官が言った。
「はい」
茉祐子と代田は異口同音に応じた。
「はい、柿乃木です」
アパートに引っ越すために実家に荷物をまとめに帰っていた優菜はかかって来た電話に恐る恐る出た。
「いそな銀行赤坂支店の忽那と申します。柿乃木優菜様はご在宅でしょうか?」
優菜は全く取引がない銀行の人間からの電話だったので、
「私が柿乃木優菜ですが、どういったご用件でしょうか?」
眉をひそめて尋ねた。すると忽那と名乗った銀行員は、
「実は優菜様名義で貸金庫をお使いいただているのですが、その件で東京国税局と東京地方検察庁の方がお見えでして」
「はあ?」
優菜は何の事か一瞬わからなかったが、
「ああ、それでしたら、恐らく父親が私の名義を使って作ったものなので、私には何もわかりません」
父親の啓輔の仕業だと気づいたので、そう言った。
「そうですか」
忽那は電話のそばにいる国税局や検察庁の人間と話をしているらしく、ひそひそと声が聞こえるが、何を言っているのかまではわからない。
「大変申し訳ないのですが、金庫を解錠するのにお立会いいただけませんでしょうか?」
忽那が言った。優菜はイラッとして、
「ですから、私にはその貸金庫の事は何もわかりません。立ち会っても何もお答えする事ができません」
「それは差し支えないそうです。名義人の方に立ち会っていただければ、それでよいそうです」
忽那は助けてくれという雰囲気で優菜に告げた。優菜は溜息を吐いて、
「わかりました。今から伺います」
「よろしくお願い致します」
優菜は受話器を置き、脱力したが、行くしかないと思い、ハンドバッグを持つと、家を出た。
凛太郎は、綾子に命じられた入力業務を凄まじい速さで完了すると、
「出かけます」
唖然としている綾子を尻目に事務所で出た。
(何であんなに速く入力できるの?)
雨だれ打ちしかできない綾子は初めて息子を尊敬の眼差しで見た。
(麻奈未さん、待っていてください!)
凛太郎は東京国税局へ向かった。
「あれ?」
地下鉄の駅へと急ぐ途中、凛太郎は優菜を見かけた。優菜も同じ地下鉄の駅の階段を駆け下りていった。
「優菜さん、どこへ行くんですか?」
気になった凛太郎はつい声をかけてしまった。
「あ、高岡さん」
優菜はまた運命を感じてしまった。
(でも、教えてはダメだろうなあ)
相手が相手なので、優菜は、
「ちょっと父の事で……」
言葉を濁して作り笑いをした。
「あ、そうですか」
凛太郎も、優菜の父親がどんな状態なのか知っているので、それ以上は問い詰められない。
「では、失礼します」
優菜は階段を急いで駆け下りると、ホームに入って来た電車に乗った。
(方向が一緒だ)
凛太郎は優菜とは違う車両に乗った。
(尾けてきたと思われるとまずい)
凛太郎は優菜から見えない位置に移動した。優菜は次の駅で降りた。
(よかった)
凛太郎はホッとして近くの空いている席に座った。
(麻奈未さん、いるかな?)
それすらわからないのに国税局へ向かってしまった自分に呆れる凛太郎である。




