黒幕
翌日になった。結局、麻奈未は酔い潰れたまま帰宅して、凛太郎に連絡できなかった。そして、凛太郎は麻奈未のスマホが充電切れを再度起こしたので、連絡が取れなかった。お互い、相手が怒っていると思い込み、朝になっても連絡ができなかった。
「お姉、充電は完了したんだから、凛太郎さんに連絡したら?」
キッチンで洗い物をしている聖生が呆れながらも助言した。しかし麻奈未は、
「嫌。今連絡したら、また出てもらえない気がする。直接会って話す」
できもしない事を言い出した。
「何言ってるの? 面と向かって話ができる程、お姉は神経が太くないでしょ? 電話の方が話し易いと思うよ」
聖生は溜息混じりに言った。
「もし、また凛君が出てくれなかったら、私はもう立ち直れなくなるのよ」
麻奈未は涙目で聖生に言い返した。
「はいはい、お好きにしてください」
聖生は匙を投げてしまい、出かけた。
「麻奈未」
そこへ太蔵が来た。麻奈未は昨夜の事を思い出し、ピクンとした。
「何、お父さん?」
麻奈未は顔を引きつらせて振り返った。
「お母さんから聞いた。付き合っている男がいるそうだな?」
太蔵は淡々と言った。麻奈未を責めている様子はない。麻奈未は太蔵を見て、
「いたの。もう別れたのよ」
「別れたのか?」
太蔵はつい嬉しそうに応じたが、すぐに顔を引き締めて、
「何故別れる事になった?」
俯いた麻奈未の顔を覗き込んだ。麻奈未は顔を上げて、
「先日の査察のニュース、見たでしょ? あの税理士事務所の職員なの。だから、迷惑がかからないように事前に別れたの」
元査察の調査官だった父に告げた。太蔵はさして驚いた様子も見せずに、
「そうか。悪かったな、嫌な事を訊いて」
踵を返すと、自分の部屋へ歩いて行った。
(何故教えてくれなかったと言われなくてよかった)
麻奈未はホッとして、
「行って参ります」
父の背中に告げた。太蔵は振り返らずに右手を上げて応じた。
柿乃木優菜は帰宅しない父啓輔に呆れ果て、家を出る決心をした。
(だからと言って、高岡先生のところには行けない)
優菜は綾子に嫌われたと思っていた。
(今は住むところを探さないと)
優菜は顧客だった不動産会社に行ってみる事にした。
「おはようございます、優菜さん。ご出勤ですか?」
そこへいきなり一色雄大が現れた。優菜は一色を睨みつけて、
「おはようございます、一色さん。何の真似ですか?」
身構えて尋ねた。一色は肩をすくめて、
「そう邪険にしないでくださいよ。私は柿乃木税理士事務所の行方を憂える者なのですから」
優菜は一色に背を向けて、
「嘘を吐かないでください。他の職員の方に聞きました。誰よりも早く事務所を出て行ったのは一色さんだと」
優菜の言葉に一色は一瞬険しい顔になったが、
「そんな妄言、信じないでくださいよ。私は所長が罪を償っている間、柿乃木税理士事務所を守ろうと思っているのですから」
作り笑顔で言った。優菜は振り返って、
「税理士の資格がない貴方が、どうやって事務所を守るんですか? 時間が惜しいので失礼します」
また背を向けて歩き出した。一色はニヤリとして、
「もちろん、協力してくださる税理士の先生にお願いするつもりですよ」
優菜はハッとして立ち止まった。
「先日、高岡さんに会いにいらした野間口絵梨子先生ですよ。申し分ない方でしょう?」
絵梨子と啓輔の関係を知らない一色は得意満面で言った。優菜はその名を聞いて震え出した。
「野間口先生は、父と男女の関係にある方です。そんな方に助けてもらいたくはありません!」
優菜は振り返らずに叫ぶと、駆け去ってしまった。
「え?」
啓輔と絵梨子の関係を知ってしまった一色はまさしく色を失ってしまった。
(そんな……。エロ所長の相手は、野間口先生だったのか?)
一色はショックのあまり、優菜を追いかける事ができなかった。
「凛、いつまで寝てるの!?」
実家に帰った凛太郎は久しぶりに自分のベッドで眠っていたが、母の綾子の怒鳴り声で叩き起こされた。
「うわっ!」
明け方近くまで麻奈未に電話しようか悩んでいた凛太郎は束の間の安眠をあっさりと破られた。
「早く朝ごはんを食べなさい! 仕事はまだたくさん残っているのよ」
綾子は布団を剥ぎ取って床に投げ出し、凛太郎の尻を叩いた。
「痛いよ、母さん」
急に厳しくなった母に凛太郎は辟易していた。すでにワインレッドのスカートスーツに着替えている綾子は大股で部屋を出て行った。
「頭が痛い……」
寝不足の凛太郎は大欠伸をして頭を掻くと、ベッドから出た。
(三年ぶりか)
凛太郎は部屋を出て階段を降りた。大学も近かったので、実家から通っていた凛太郎は就職のために家を出た。綾子は反対したが、凛太郎はそれを押し切って一人暮らしを始めた。
(考えてみれば、母さん、悲しそうだったよな)
凛太郎は洗面所へ行くと、顔を洗い、歯を磨いた。
(そうか。麻奈未さんの事を知ってから、母さん、急に当たりがきつくなったんだ)
母の嫉妬だと思った凛太郎は苦笑いをした。
(父さんと離婚する時も、俺の親権を絶対に譲らなかったんだっけ。あの時は母さんが大好きだったから、父さんについて行く気は微塵もなかったんだよな)
麻奈未が知れば、マザコン認定されそうな話である。
「凛、何してるの! 朝ごはん、冷めちゃうでしょ!」
綾子が怒鳴り込んできた。
「わかってるよ、母さん」
凛太郎は綾子が麻奈未に嫉妬していると思ったので、母の行為が可愛く思えていた。だから、笑顔で応じた。
「?」
綾子は凛太郎が笑った理由がわからず、首を傾げた。
「伊呂波坂、ちょっといいか」
出勤すると、早速織部統括官が麻奈未を呼んだ。
「はい」
麻奈未はバッグを机に置くと、織部の席の前へ行った。姉小路が興味深そうにそれを見ている。
「会議室で話そうか」
姉小路が聞き耳を立てているのに気づいた織部が言った。
「あ、はい」
麻奈未は織部について実施部門のフロアを出た。姉小路は落胆の溜息を吐いた。
「昨夜、父上から連絡があった」
織部は会議室のドアを後ろ手に閉じながら言った。
「え? 父から、ですか?」
麻奈未は思ってもいない事を言われ、目を見開いた。織部は頷いて、
「ニュースソースは明かせないと言われたが、ブレインホークの背後にいる政治家を教えられた」
「ええ?」
麻奈未は更に目を見開いた。
「誰なんですか?」
麻奈未は声を低くして尋ねた。織部は麻奈未を会議室の中央まで連れて行き、
「多言は無用にしてくれ」
「もちろんです」
麻奈未は姿勢を正した。織部はもう一度ドアの方を見てから、
「与党の重鎮で、キングメーカーとも言われている連間才明だ」
麻奈未は叫びそうになるのを何とか堪えた。テレビのニュースや新聞で何度もその迫力のある顔を見た事がある。スキンヘッドで細い吊り目の脂ぎった顔をしている。年齢は七十代であるが、もっと若く見えるくらいギラギラした人物だと感じた。
「もちろん、これが事実かはまだ調査しないとわからないが、状況証拠はある」
織部の含みのある言い回しに麻奈未は眉をひそめた。
「状況証拠、ですか?」
麻奈未は織部の言いたい事がわからず、鸚鵡返しに訊いた。
「昨夜、中禅寺君が何者かに尾行された」
「え?」
麻奈未は衝撃の事実の目白押しに圧倒されてしまった。
「何も危害を加えられてはいないが、中禅寺君が調べていたのがまさに連間なんだよ」
織部の言葉に麻奈未は絶句してしまった。
「このままでは東京国税局が舐められかねないので、部長が衆議院会館の連間の事務室へ行くそうだ」
織部は愉快そうに告げた。
「は?」
麻奈未はどういう事なのか理解が追いつかず、ポカンとして織部を見た。
「そんな事をしたら、まずい事になるのは先生の方ですよとわかってもらうためにね」
織部はニヤリとした。麻奈未は苦笑いをして、
「すみません、どういう事でしょうか?」
織部は微笑んで、
「中禅寺君を尾行していた連中は、ナサケの代田が全員を撮影している。それを手土産にするのさ」
「はあ……」
それでも麻奈未はまだ全容を掴めていない。
「恐らく、尾行をさせたのは連間ではなく、第一秘書の敷島幸雄だろう。秘書の手綱をしっかり握っていてくださいという事だ」
「なるほど」
ようやく麻奈未は理解した。
「敷島は反社会勢力ではないが、荒っぽい仕事をしていた過去がある。切れ者だが、すぐに暴力に訴えてしまう傾向があるんだよ。力で捩じ伏せれば、大概の人間はおとなしくなると思っている節がある」
織部はドアに向かいながら言った。麻奈未もそれに続き、
「マルサに脅しは通用しないという事を伝えるのですね?」
「そういう事だ」
織部は会議室のドアを開いて言った。
「それよりも、例の件は片づいたかね?」
「は?」
唐突に訊かれたので、麻奈未は一瞬何の事かわからなかったが、
「ああ、その、まだです」
ばつが悪そうに応じた。織部は苦笑いをして、
「そうか。まあ、焦る事はない。ゆっくりでいいと思うよ」
廊下を歩き出した。
「はい」
麻奈未は織部を追いかけるように歩いた。
「お話ししたい事があります」
柿乃木啓輔は検察庁に逮捕されてすぐに勾留が決まり、拘置所に移送される時、担当検察官に言った。
「何ですか?」
罪状を全て認めたので、検察官は啓輔に静かに尋ねた。啓輔は検察官を見て、
「実は、一連の脱税の背後には、大物政治家が関与しています。私は彼らとの会話を全部録音しています。それを聞いていただけませんか?」
啓輔の言葉に検察官は眉をひそめた。到底信用できる話ではないからだ。ブレインホークの背後に政治家が絡んでいるのは検察庁の特捜部も想定していたが、そのような形で明白になるとは想像していなかったのだ。
「お疑いなら、私が娘の名で借りている銀行の貸金庫を調べてください。ボイスレコーダーがあります」
啓輔はまっすぐに検察官の顔を見ていた。
「わかりました。調べさせましょう」
検察官は啓輔を拘置所へ行かせた。
「眉唾ですね」
検察事務官が検察官に囁いた。
「かも知れないが、此の期に及んで嘘を吐くとも思えないよ」
検察官は廊下を歩いていく啓輔の後ろ姿を見て言った。
「お忙しい中、お時間を取っていただき、恐縮です」
衆議院の議員会館の中にある連間才明の事務室を訪れたのは、東京国税局査察部のトップである部長の尼寺である。オールバックで黒のスーツを着ている。高身長で痩せ型だが、眼光は鋭い。
「今日はどういったご用件ですかな?」
目つきの鋭さでは負けていない連間は、細い吊り目を更に細めて尼寺とソファに向かい合って座った。
「では早速本題に入らせていただきます。昨夜、ウチの調査官が何者かに後を尾けられましてね」
尼寺はスーツの内ポケットから五枚の写真を取り出して、テーブルに並べた。連間は眉を吊り上げて、
「何ですか、それは?」
尼寺は連間を見て、
「尾行していた連中の写真です。ご存知の顔がありますか?」
連間は写真から顔を上げて尼寺を睨みつけた。
「全く知りません」
連間は尼寺の顔を見たまま言った。尼寺は、
「そうですか。ご存知ありませんか」
サッサと写真を集めると、内ポケットに戻した。
「尾行された調査官は先生のご自宅や事務所を調べていたので、てっきり先生のお知り合いの方かと思ったのですが、ご存知ありませんか。失礼しました」
尼寺は頭を下げてから立ち上がり、
「お手間を取らせました。これで失礼致します」
そのまま事務室を出て行った。
「ふざけた奴だ!」
第一秘書の敷島が毒づいた。金縁眼鏡をかけ、濃紺のダブルのスーツを着ている。小柄で痩せているが、気性は荒いようだ。
「敷島、ちょっと座れ」
尼寺が出て行ったドアを睨みつけている敷島に連間が静かに命じた。
「先生、国税庁に抗議しましょう。あまりにも無礼な行いですよ!」
敷島は連間の声が聞こえなかったのか、更に息巻いた。
「座れと言っているんだ!」
連間が声を荒らげた。
「はい」
途端に敷島が顔を引きつらせて、さっきまで尼寺が座っていたソファに腰を下ろした。
「どういうつもりだ?」
連間は静かに尋ねた。敷島は顔中から汗を噴き出して、
「いえ、その、国税に余計な事をするなと警告するためにですね……」
「愚か者め! お前の浅知恵のせいで、ブレインホークと関係があると思われただろう!? 何もしなかったら、奴らは未だに我々に辿り着いてはおらんのだぞ!」
連間の剣幕に敷島は縮み上がった。
「しかも、写真まで撮られて、特定されおって! この責任、どう取るつもりだ!」
連間は立ち上がって敷島に詰め寄った。敷島はその迫力のある顔と声に圧倒された。
「せ、責任ですか……」
絞り出した言葉はそれだけだった。連間はソファに戻り、
「お前のせいで私も使いたくなかった手を使わざるを得なくなった。この貸し、高いぞ」
「申し訳ありません!」
敷島は床に土下座をした。
「それなら、ちょうど空いた物件がありますよ」
優菜は顧客だった不動産会社の窓口で、若い女性の担当に言われた。
「ちょうど、ですか?」
優菜は思わず微笑んで応じた。女性の担当者は書類を優菜に差し出して、
「ええ。高岡凛太郎さんが昨日で引き払ったアパートなのですが、確か、同僚の方ですよね?」
「高岡凛太郎さん?」
優菜は何故か顔を赤らめた。
(ひょっとして、運命?)
私と凛太郎さんは惹かれ合っている? 優菜は疲れていたため、脳が暴走しかけていた。
「只、一応今月いっぱいのお家賃は頂いておりますので、しばらくは入居する事はできないのですが」
女性の担当はさも残念そうに告げた。しかし優菜は、
「大丈夫です。すぐに入居可なのは、そこだけなんですよね? 手付として家賃一ヶ月分を入れれば、押さえられますよね?」
身を乗り出した。女性の担当は苦笑いをして、
「ああ、そうですね」
若干引き気味に応じた。




