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中禅寺茉祐子の危機とある男の好機

 麻奈未は酔っているせいで、号泣していた。

「もう凛君に呆れられたあ! もう終わりよ!」

 聖生はうんざりした顔で、

「うるさいな、酔っ払い! 公共の場で大声出すのはバカだって言ってたよ、お笑い芸人が」

 麻奈未をたしなめてから、従業員を呼んで、コンセントを借りたいと告げた。従業員は麻奈未の泣き声にドン引きしながらも、快く承諾してくれた。

「ほら、お姉、充電して、すぐに凛太郎さんに連絡すれば大丈夫よ! お姉にメロメロだった凛太郎さんがそんなあっさりとお姉を見限ったりしないって」

 聖生は麻奈未をなだすかして肩を撫でた。

「そう?」

 涙で化粧が落ちかけた顔を上げて、麻奈未は聖生を見た。

「その顔、絶対に凛太郎さんに見せられないよ、お姉。充電している間に直して」

 聖生はハンドバッグから鏡を取り出して、麻奈未の顔を写してみせた。

「ヒイイ!」

 麻奈未は自分の顔が化粧崩れで大変な事になっているのを知り、慌てて自分のハンドバッグから化粧ポーチを取り出した。聖生は溜息を吐き、スマホの充電を開始した。

(これ、時間かかりそうだな。お父さんにラインしとこう)

 聖生は太蔵に遅くなりそうだと連絡をした。


「麻奈未さんの携帯に繋がらなくなったよ!」

 凛太郎も涙ぐんでいた。綾子は呆れ顔で、

「いちいち騒がないで。もう遅いから、食事に行くわよ、凛」

 軽く凛太郎の頭を叩いた。

「もう話すのも嫌なのかな?」

 凛太郎の妄想劇場が始まった。酔ってもいないのにタチが悪いと綾子は思った。

「シャキッとしなさい!」

 綾子は強めに凛太郎の背中を叩いた。

「いで!」

 凛太郎は顔を歪めて叫んだ。

「ほら、早くしなさい! あんた、荷物はそれしかないの?」

 綾子は凛太郎がアパートから持ってきた小さめのスーツケース一個を見て訊いた。

「取り敢えずはこれだけあれば平気だよ」

 凛太郎は叩かれた背中をさすって言った。

「まあ、いいわ。駐車場の私の車のトランクに積んで。近くのファミレスに行くから」

 綾子はさっさとドアに近づくと、凛太郎がまだトランクの取っ手を伸ばしているのを気にも留めずに明かりを消してしまった。

「わあ、母さん、何も見えないよ!」

 凛太郎が騒ぎ出す。綾子はキッとして、

「まっすぐ歩いてくれば大丈夫よ。キビキビ動きなさい」

 ドアを出て振り返った。


「何?」

 仕事を終え、家路を急いでいた中禅寺茉祐子は誰かが後ろから尾けてくるような気がして振り返った。仕事の性質上、何度かそんな事に遭遇しているので、気のせいという事はないと判断していた。

(政治家の配下?)

 前にも政治家の脱税を調べていて、その取り巻きに囲まれた事がある。茉祐子は持っていた防犯ブザーを鳴らして、相手が怯んだ隙に逃げられた。

(家を知られるのはまずい。今夜は局に泊まろうかな)

 実家暮らしの茉祐子は両親や年の離れた妹達に害が及ぶのを恐れ、大通りを目指した。

(確実に尾けられてる。何人いるの?)

 茉祐子は早足になりながら、尾けてくる足音に聞き耳を立てた。二人はいる。悪くすると、別のルートから前に回り込まれているかも知れない。

(そうなると逃げられない。どこかの建物に入ろう)

 茉祐子は避難場所を探して舗道を歩いた。

(とにかく、統括官に連絡できる時間が欲しい)

 茉祐子は雑居ビルのバーへ駆け込んだ。茉祐子を尾けていた一団は総勢で五人いたが、バーへは入らず、周辺に潜んだ。

「ええと」

 茉祐子はカウンターの一番奥の席に座った。そしてスマホを取り出すと、直属の上司である統括官に連絡した。

「どうした?」

 統括官の声は明らかに真由子の状況を察しているトーンだった。

「数人に尾行をされています。今、近くのバーに入りました」

 茉祐子は声を低くして報告した。

「尾行者はどうした?」

 統括官の声が尋ねる。

「外にいます」

 茉祐子が答えた。

「わかった。すぐに迎えを行かせる。そのまま待っていてくれ」

「わかりました」

 茉祐子は通話を終えると、溜息を吐いた。

(以前の尾行と違う。人数が多い)

 彼女はそれに恐怖を感じていた。


「あんたがタラタラしてるから、ファミレスに入れなかったのよ」

 車を運転しながら、綾子が文句を言った。

「すみません……」

 何も言い返せない程落ち込んでいる凛太郎は素直に謝った。

「仕方ないから、行きつけの店に行く事にしたわ。帰りは運転お願いね」

 綾子は飲む気満々で助手席の凛太郎を見た。

「はい」

 更に素直に応じる凛太郎である。

(母さん、絡み酒なんだよなあ。嫌だなあ)

 凛太郎は綾子がどれくらい飲むつもりなのか考えていた。

(麻奈未さんにもう一度連絡してみよう)

 凛太郎はスマホを取り出した。

「ああ!」

 いきなり凛太郎が大声を出したので、

「びっくりするじゃない!? 何事よ!?」

 綾子が信号で停まって怒鳴った。

「ご、ごめん。スマホの充電が切れちゃって……」

 凛太郎はスマホの暗くなった画面を見せた。

「全く、グズねえ。お店の電源を借りて、充電させてもらいなさい」

 綾子は信号が青になったので、車を発進させた。

「うん……」

 麻奈未の声を聞いて元気を出そうと思った凛太郎はまたしょげてしまった。


 茉祐子は度胸がある。今まで仕事が怖くなった事はなかった。しかし、その日は違った。バーに誰かが入ってくるたびにビクッとして身をかがめ、ドアを見る程怯えていた。

(尾行者から、気のせいではなく殺気を感じた。囲まれたら命を奪われると思った)

 茉祐子は背中に冷たい汗を掻いていた。

「中禅寺さん、遅くなりました」

 次に入ってきたのは、同じ部署の後輩である代田だいたみつるだった。姉小路が茉祐子を探しに来た時に対応した男だ。

「代田君……」

 代田の姿を見て、茉祐子は涙をこぼした。

「中禅寺さん、大丈夫ですか?」

 茉祐子が泣くのを初めて見た代田は狼狽うろたえていた。

「遅いよ! もっと早く来てよ!」

 茉祐子は立ち上がって代田に駆け寄った。

「申し訳ありません。自分が一番近かったのですが、遅かったですね」

 代田は頭を下げて謝罪した。すると茉祐子は涙を拭いながら、

「ううん、ごめんね、代田君。君が悪い訳じゃないのに」

「ありがとうございます。服を用意したので、これに着替えてください」

 代田は持っていた紙袋を茉祐子に差し出した。すると茉祐子は、

「着替えなら持っているから大丈夫。ちょっと待っててね」

 茉祐子は自分のバッグを持つと化粧室へ行った。

「それじゃあ、これはどうしよう?」

 代田は紙袋の中身を覗いた。


「よし!」

 麻奈未は復活したスマホを聖生から受け取ると、凛太郎に連絡した。

「あれ?」

 ところが、

「おかけになった電話番号は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、かかりません」

 凛太郎の携帯に繋がらなかった。

「凛君に繋がらないよ。どうしよう?」

 また麻奈未は涙目になって聖生を見た。

「しばらく待ってかけ直せば?」

 聖生は酔っ払いの姉の相手をするのに疲れていた。

「そうね……」

 麻奈未は項垂れてスマホをテーブルに置いた。

「すみません、スマホの充電が切れちゃったので、コンセントお借りできますか?」

 隣の個室から女性の声が聞こえた。

「どこにでもいるのね、スマホの充電切らせている人」

 聖生が呟いた。


「お待たせ」

 戻ってきた茉祐子を見て、代田は唖然とした。

「本当に中禅寺さんですか?」

 思わず訊いてしまった程だ。いつものダークグレイのパンツスーツと黒縁眼鏡、三つ編みの茉祐子からは想像もつかない姿だったのだ。

「ええ、そうよ」

 小首を傾げて微笑んだ茉祐子は、ダークトーンのワンピースに黒のヒールパンプス、髪は三つ編みを解いて右に流している。眼鏡はかけていない。化粧も普段とは違う濃いめのもので、代田はドキドキしていた。

「さ、行きましょ」

 茉祐子は支払いをすませると、マスターに会釈して代田の左腕にスッと右腕を絡ませた。

「あ、はい」

 代田は茉祐子から漂ってくるいい香りにうっとりしながら、バーを出た。

「またどうぞ」

 マスターも茉祐子に見惚みとれていた。

「ありがとう、代田君」

 茉祐子はギュウッと腕を強く絡めた。

「あ、はい」

 代田は茉祐子の柔らかいものが二の腕に当たるのを感じて心拍数が急激に上がり始めた。茉祐子を尾けていた連中はその変貌ぶりに気づかず、二人は代田が車を停めている時間制の駐車場へ難なく辿り着けた。

「じゃあ、局まで送りますね」

 緊張の面持ちで運転席に座った代田が告げた。

「局じゃなくて、代田君のアパートでもいいよ」

 助手席の茉祐子が耳元で言ったので、

「ええ?」

 代田は茉祐子を見た。茉祐子の顔はすぐそばにあった。茉祐子はそのまま、代田の唇にキスをした。

「ちゅ、中禅寺しゃん……」

 舌が入ってきて、代田の舌に絡んできた。

「ふわ……」

 そこから代田は恍惚としてしまい、何も考えられなくなった。

「まさか、キスをした事ないなんて言わないでね」

 唇を離した茉祐子が言った。

「初めてじゃないですけど、こんな濃厚なのは……」

 代田が言いかけると、また茉祐子が襲いかかってきた。

「あぐあぐ……」

 代田は溺れている感覚になった。茉祐子が唇を離してくれないのだ。

「どうする? 私をどこに送ってくれるの?」

 茉祐子は目を細めて代田を見た。

「俺、実家暮らしなんで、ええと……」

 代田が顔を赤らめて言うと、

「一応、統括官に報告しないといけないから、一度局まで連れてって」

 茉祐子はニコッとして小首を傾げた。

「はい……」

 代田は自分が期待している事を茉祐子に悟られたと思い、俯いた。

「もちろん、続きはその後でするけど」

 茉祐子の小悪魔的な囁きは、代田を気絶させそうだった。


「もう、スマホの充電くらい管理してなさいよ」

 綾子はしょんぼりしている凛太郎を叱った。二人は居酒屋の個室に来ていた。

「二軒目も三軒目も、あんたのせいで入れなかったんだからね!」

 綾子は凛太郎の動きが遅いのをまだ責めていた。

「繋がらないよお! 充電が切れそうだよお!」

 隣の個室から、若い女性の声が聞こえてきた。

「スマホって、そんなに充電切れやすいの?」

 その声に綾子が呟いた。凛太郎は自分のスマホが復活するのに全神経を集中させているので、女性の声を聞き逃した。

「麻奈未さん……」

 凛太郎は通話ができない悲しさで涙ぐんでいた。

「もう、そんな顔しないで、凛」

 綾子は従業員が持ってきた生ビールジョッキを凛太郎のほっぺたに当てた。

「ひい!」

 凛太郎はその冷たさに素っ頓狂な声をあげた。

「いただきまーす」

 綾子はその反応を見て嬉しそうにジョッキをあおった。


「隣のカップル、年の差があるのかしら? 女の人はさっきトイレに行く時チラッと見えたけど、三十代後半くらいだったかな」

 聖生が言った。

「隣のカップリュなんてろうでもいいの! るんきゅんにつらがらないの!」

 自棄やけになってハイボールを空けた麻奈未が叫んだ。

「お姉、呂律ろれつが回らなくなってるよ。もうその辺にしときなよ。そろそろ帰るよ」

 いつもは聖生が飲み過ぎて潰れるのだが、今日は麻奈未が荒れて飲みが進んだので、立場が入れ替わっている。

「お隣に迷惑だから、もう少しボリュームを下げてよ」

 聖生はまだ飲もうとする麻奈未からグラスを取り上げた。

「お勘定お願いします!」

 聖生は目の前を通った従業員に告げた。

「畏まりました」

 従業員は聖生に愛想笑いをして行った。聖生は寝そうになっている麻奈未を揺り動かして、

「お姉、帰るよ。起きて!」

 無理やり立ち上がらせた。しかし、全く身体に力が入っていないので、麻奈未は座敷に倒れた。

「大丈夫ですか?」

 隣の個室の女性が来て声をかけた。それは綾子だった。しかし、聖生とも麻奈未とも面識がないので、お互いに相手が誰かは知らない状態である。

「ああ、すみません、ご迷惑をおかけします」

 聖生は手を貸してくれた綾子に礼を言った。

「大丈夫ですか?」

 そこへ伝票を持って従業員が来た。聖生は支払いをすませ、従業員に手を借りて、麻奈未を出入り口まで連れて行った。

「ありがとうございました」

 聖生は心配そうに見ている綾子に礼を言って歩いて行った。

「お気をつけて」

 綾子は聖生に声をかけてから、凛太郎がいる座敷に戻った。

「あんたねえ、母さんが隣の人を助けに行ったのに、しらばっくれていないでよ」

 綾子はスマホにかじりついている凛太郎の頭を叩いた。

「痛いよ、母さん」

 凛太郎は涙ぐんで綾子を見上げた。

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