表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/32

太蔵の憂鬱

 麻奈未は国税局の建物を出ると、すぐに聖生の携帯に連絡した。

「お姉、珍しいね。今、どこなの?」

 聖生の声は穏やかだった。麻奈未はそれでも気が引けているので、

「ごめん、聖生。机の上にスマホを置き忘れて、今局を出たところなの」

「そうなの。ま、私も何度かお姉に当番を代わってもらった事があるから、今日は不問にしましょうか」

 聖生の声が急に上からになったので、麻奈未はカチンと来たが、

「本当にごめんね。お父さんはどうしてるの?」

 我慢して尋ねた。

「出かけたみたい。私には『外で食べる』とだけ連絡があったよ」

 麻奈未はその答えに目を見開いた。

「今まで一度も外で食事した事ないのに、どうしたのかしら、お父さん?」

 すると聖生は、

「多分、お母さんよ。お誘いがあったんじゃない?」

「え? お母さん?」

 麻奈未の背中を冷たい汗が伝わった。

「どうしたの? お父さんがお母さんと会うと都合が悪いの?」

 すかさず聖生が詰めてきた。

「そんな事はないけどね」

 麻奈未はそう応じながら、母親に凛太郎と一緒のところを見られたのを思い出していた。

(お母さんには誰にも言わないでって言ったけど、約束を守るような人じゃないからなあ)

 母親から娘が交際していると聞かされた父親がどんな反応をするのか、麻奈未は想像もつかなかった。

「お母さんがお父さんにお姉の事を喋るって思ってるでしょ?」

 妹の鋭い推理に麻奈未はビクッとした。

「どうしてそう思うの?」

 麻奈未は顔が引きつるのを感じながら訊いた。

「だって、お母さんに凛太郎さんと一緒にいるところを見られたって言ってたじゃない? お喋りなお母さんがお父さんと会えば、絶対に黙っていられないって思ったんじゃないかなあって」

「まあ、そうなんだけど……」

 麻奈未は一から十まで見抜かれているので、項垂れてしまった。

「お父さんが出かけたので、家で夕食もかったるいから、どこかで食べない?」

 聖生の提案に、

「そうね。あんたに任せる」

 麻奈未は溜息交じりに応じた。


 ホテルの部屋に着いた姉小路はシャワーを浴びている間に絵梨子が帰ってしまうのではないかと思い、すぐに浴室を出た。

「早いわね」

 しかし、絵梨子は悠然とベッドの端に腰を下ろしていた。

「待たせちゃ悪いと思ってさ」

 姉小路はバスローブを羽織って出てきた。絵梨子は姉小路を足先から頭まで見てから、

「今夜はゆっくりして。ルームチャージは私が持つから」

 フッと笑うと立ち上がり、部屋を出て行きかけた。

「え? ちょっと、どういう事?」

 姉小路が慌てて絵里子の前に立ち塞がる。絵梨子は、

「ホテルに行くとは言ったけど、一緒に泊まるとは言ってないわよ。ましてや、貴方と身体を重ねるなんて、ね」

「えええ!?」

 姉小路は土壇場で絵梨子にしてやられたのを知り、愕然とした。

「只でホテルに泊まれるんだから、喜びなさいよ。またね、姉小路君」

 絵梨子は呆然としている姉小路を尻目に部屋を出て行った。


「今夜はどうして承諾してくれたの?」

 麻奈未と聖生の父の太蔵とテーブルを挟んで座っている女性が頬杖を突いて尋ねた。栗色のミディアムヘアで、ラメ入りのチャコールグレーのフレアースリーブプルオーバーにアイボリーホワイトのセミワイドパンツを履いている。麻奈未と聖生の母親である。五十代とは思えない若々しさだ。

「麻奈未が夕食の当番を忘れたのか、戻って来なかったのでね」

 太蔵は女性の視線を受け止められず、俯いたままだ。

「そうなんだ。喜んだ私がバカみたいね」

 女性は口を尖らせた。すると太蔵は慌てた様子で、

「いや、君と食事するのが嫌だという訳ではない。お誘い嬉しかったよ、美奈子さん」

 太蔵は顔を赤らめて美奈子を見た。美奈子は微笑んで、

「そう。それなら良かった」

 小首を傾げてみせた。太蔵は六十代で、しかも着物姿なので、二人の年齢差はより大きく見える。父と娘に見えなくもない。

「ああ、そう言えば、麻奈未を見かけた事があったわね」

 美奈子は含み笑いをして太蔵を見た。

「そうかい。声をかけたのかね?」

 太蔵は鷹揚に尋ねた。美奈子は肩をすくめて、

「いいえ。だって、男性と仲睦まじそうにしていたので」

「何?」

 太蔵の目が鋭くなった。美奈子はそれに気づき、

「あら? 太蔵さん、ご存知じゃなかったの? 多分、あれは恋人ね。只、手は繋いでいなかったけど」

 フッと笑った。太蔵は鋭い目のままで、

「それはいつだね?」

 美奈子は思い出す仕草をして、

「そうねえ、二週間くらい前かしら?」

 太蔵を見た。

「二週間、か」

 太蔵は溜息を吐いた。

「麻奈未は口止めしたんじゃないのかね?」

 太蔵の思わぬ質問に美奈子はピクンとした。

「私は声をかけていないわよ。麻奈未もこっちに気づいていなかったし」

 美奈子は苦笑いをして応じた。すると太蔵は、

「美奈子さん、嘘を吐くのが下手だね。貴女は嘘を吐く時、必ず目を反らせる」

 美奈子をジッと見た。

「敵わないなあ、太蔵さんたら。そうなの。麻奈未には口止めされてたんだけど、我慢できなくなって話しちゃった」

 美奈子は悪びれるどころか舌を出しておどけてみせた。

「それはいけないね。麻奈未に謝らないとね」

 太蔵は厳しい表情で美奈子をたしなめた。

「はーい」

 美奈子は肩を落として応じた。そして、

「あ、でも、麻奈未を責めないでね。太蔵さんに話していないのは、お仕事の関係だって言ってたから」

 話題を変えたいのか、唐突に言い出した。

「麻奈未を責めたりはしないさ。私も国税局にいたのだからね」

 太蔵は運ばれてきた前菜に手を付けながら言った。

「そうだったわね」

 美奈子は肩をすくめて前菜を食べた。

「でも、聖生は知っているみたいよ」

 美奈子はニヤリとした。太蔵はそれでも、

「聖生は自分で気づいたのだろう。あの子は麻奈未の事を何でも知りたがるからね」

 冷静に対応した。

「どんな男だった?」

 太蔵は前菜の皿を脇にどけて美奈子に尋ねた。美奈子は太蔵を見て、

「好青年だったわ。私がもう少し若ければ、告白していたかも」

 冗談のつもりで言ったのだが、

「何だって?」

 太蔵の目が鋭くなったので、

「冗談よ。そんな事する訳ないでしょ? 私は今でも太蔵さんが大好きなんだから」

 すかさずフォローをした。

「恥ずかしいから、そういう事を言わないでもらいたい」

 太蔵はまた顔を赤らめ、俯いた。

「とにかく、それくらいいい感じだったわ。麻奈未は大学時代、随分モテたのに、国税局に勤めてから、ぱったりとボーイフレンドがいなくなったのよね」

 美奈子の話は太蔵にはまた初耳だった。

「そうなのか?」

 太蔵は自分だけ蚊帳の外なので、寂しくなってしまった。

「あらあら、また余計な事を言ってしまったかしら、私。ごめんなさいね、太蔵さん」

 美奈子は太蔵の反応が面白いのか、クスクス笑い出した。

「仕方ないのよ。貴方は家では怖い人だったから、麻奈未はあまり話ができなかったの。聖生は気にしていないからいろいろ話したでしょ?」

「聖生ともあまり話したことはない」

 太蔵はますます機嫌が悪くなっていった。

「そうだったの。ほら、次が来るわよ」

 美奈子は太蔵の機嫌を直そうと食事に目を向けさせた。


「この女は何者だ?」

 暗い部屋で電気スタンドの明かりに照らされた一枚の写真を見ながら、スキンヘッドで吊り目の黒のダブルのスーツの男が尋ねた。

「国税の者です。ブレインホークの査察でわかった事から、先生の周辺を探っているようです」

 金縁眼鏡をかけた濃紺のダブルのスーツの男が言った。写真の女は中禅寺茉祐子である。街中を歩いているところを撮られたもののようである。

「大丈夫だろうな?」

 吊り目の男が言った。

「もちろんです。ブレインホークと先生をつなぐものはありません。徒労に終わりましょう」

 吊り目の男は、

「何故この女は私の周りを探っているのだ?」

 金縁眼鏡の男は、

「国税は多くの政治家を探っています。何かわかった訳ではありません。わかったところでひねり潰しますが」

 ニヤリとした。吊り目の男は、

「なるべくそうならないようにな。私は若者の将来を奪いたくはない」

「はい」

 金縁眼鏡の男は頭を下げて応じた。


「あ、お母さんからだ」

 居酒屋の個室で、聖生がスマホを操作して言った。

「何?」

 注文を終えた麻奈未が聖生を見た。

「お父さんに喋っちゃったみたいよ。謝りのスタンプが貼り付けられてる」

 聖生が画面を見せた。麻奈未は溜息を吐いて、

「やっぱり。お父さんに電話した方がいいかな」

「心配要らないって。お父さんはお姉を溺愛してるから、絶対に怒ったりしないよ。それにお母さん、喋った事を叱られて、麻奈未に謝りなさいってお父さんに言われたみたい」

 聖生はケラケラ笑いながらまた画面を見せた。

「そうなんだ。ちょっとホッとした。隠し事をしているの、凄く後ろめたかったから」

 麻奈未はそれでも父に謝りたいと思っていた。

「お姉が羨ましいよ。私なんか、誰と付き合っているって言っても、お父さん、全然気にかけてくれないもん」

 聖生は口を尖らせた。

「お父さんは聖生を気遣っているのよ。あんたが小さい頃、どれだけ可愛がっていたのか、記憶にないでしょ?」

 麻奈未は突き出しと生ビールを受け取りながら言った。

「それ、ホントなの? にわかには信じられない」

 聖生もジョッキを受け取りながら応じた。

「むしろ、私はあまりお父さんにそういう事を話さなかったから、何でも話すあんたを安心して見ていたのよ、きっと」

 麻奈未はビールを一口飲んでジョッキを置いた。

「ま、そういう事にしておきましょうか」

 聖生はジョッキをあおった。

「あ」

 その時、麻奈未のスマホが鳴り出した。相手は凛太郎だった。

「ああ、凛君からだ!」

 酔いも手伝ってか、麻奈未は大声で言った。

「お姉、ボリューム気をつけて。ここ、公共の場だから」

 聖生が目を細めてたしなめた。

「はいはーい」

 いつもとは違い、陽気な声で応じた麻奈未だったが、

「あれ?」

 相手からは何も応答がない。

「あーっ!」

 麻奈未は画面を見てまた大声を出した。

「だから、ボリュームに気をつけてって……」

 聖生がまた注意したが、

「充電が切れちゃった!」

 麻奈未は涙ぐんで聖生に暗くなった画面を見せた。

「あらま」

 聖生は目を見開いた。


「食事に誘ったのは、私に会いたかったからではないのだろう?」

 店を出たところで、太蔵が尋ねた。美奈子は太蔵の右腕に自分の右腕を絡ませて、

「ご名答。麻奈未がピンチになるんじゃないかと思ったの」

「例の査察の件だね」

 太蔵は美奈子の腕をそっと振りほどきながら言った。

「ええ。虎の尾を踏んづけないように気をつけて欲しいの」

 美奈子の顔から笑みが消えた。太蔵も眉間にしわを寄せて美奈子を見ている。

「国税は虎の尾を踏んづけるのが仕事だ。それを恐れていては、脱税を摘発できない」

 太蔵は歩き出した。美奈子はそれを小走りで追いかけて、

「今度の虎は手強過ぎるの。何しろ、元財務官僚で、国税庁長官まで務めた人だから」

「成程。その人物より、美奈子さんの方が怖いな」

 太蔵は美奈子を見て微笑んだ。美奈子はプウッとほっぺたを膨らませて、

「ひっどーい! 私のどこが怖いのよ?」

「その情報収集能力だよ。どこから仕入れたのかね?」

 太蔵はまた美奈子が腕を絡めてきたのを振り解いて立ち止まった。

「それは秘密。私は今でも現役のジャーナリストなんだからね」

 美奈子はウィンクして応じた。

「永田町界隈では公然の秘密というのがあるらしいね」

 太蔵はまた歩き出した。

「そう。返り血を浴びる覚悟がなければ、うっかりした事は言えないの。だから、面白いのよ、あそこは」

 美奈子は太蔵に素早く近寄ると、その左頬にキスをした。

「美奈子さん!」

 太蔵は驚いて彼女を見た。美奈子は手を振って、

「じゃあね。楽しかったわ。貴方に会いたかったのは本当よ」

 投げキッスをして去って行った。

「元財務官僚で国税庁長官まで務めた、か。一人しかいないな」

 太蔵は袂からスマホを取り出した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ