- (2)
六月一日、先生の宣言通り、新しい先生がやってきた。
清い心と書いて、清心先生。色白で、ふんわりした茶色い髪をショートカットにした、若い女の先生だ。
教育実習を、この学校で、したという。年長の子は知ってるかもと言っていたが、わたしは知らなかった。わたしが通い始めて以来、教育実習なんて、見たことも聞いたこともない。そもそも、そんなに前からいる子なんて、もういないに違いなかった。
わたしたちは、いや、少なくともわたしは、清心先生にどう接したらいいのか、全然わからなかった。だって、その登場は、不意打ちもいいところだ。リョウちゃんと相談する暇もなくて、だから、リョウちゃんの助言も受けていない。何か下手を打って、リョウちゃんの思惑を違えることがあるかもしれないと思うと、何をするにも、躊躇してしまう。
考えてみれば、無用の心配だった。リョウちゃんは準備を終えていた。布石は打ち終わっていた。その布石すら、わたし以外は、それと気づいていなくて、その実、わたしを含めてみんな、見事に術中に嵌まっていた。
わたしが心配することがあるとすれば、それは、わたしだけがリョウちゃんの策謀に気づいているという、まさにその一点に由来するわたしの行動だった。その所為で、却って、わたしの態度は不自然になっていたかもしれないのだ。でも、実際は、わたしは、自分が何をしてるかなんて、ほとんどわかってなくて、ただただ、誰かの前でリョウちゃんに助けを求めてはいけないと、自分に何度も言い聞かせていた。
リョウちゃんに助けを求めれば、リョウちゃんは、先生に問題を投げざるをえない。それは、わたしにとっても、きっとリョウちゃんにとっても、悲しいことだ。リョウちゃんの布陣が、どんなに完璧で、わたしの機微や思いつきなど、十分、誤差の範囲内だったとしても。わたしだけは、せめて、リョウちゃんに悲しい思いはさせたくない。
他方、コータやオミは、気楽なものだった。わたしが余計な気を回さなくても、先生がこのグループのリーダーなのは、消去法でとはいえ、一目瞭然だった。みんなは自分の安全のために、先生は自分の矜持のために、その任を先生に当てて、利害は一致していた。だから、清心先生が現れたときも、当然、みんなは、先生を通して知り合った。
まず先生から紹介を受け、先生に促されて(その頃には、先生は、随分、自信を取り戻していて、みんなの期待を即座に汲み取り、実践することができた)自己紹介した。清心先生に直接何か尋ねるときは、先生のいる場所で、先生にも聞こえるように話すのが鉄則だった。
誰が言い出したわけでもないけれど、みんな、それを忠実に実行した。そうすることで、わたしたちの大事な偶像を、保護しなければならなかった。
先生を立てる必要がある。
肝心なのは、抜け駆けをしないこと。清心先生と、ごく個人的に、仲良くなろうとしないこと。示し合わせてもいないのに、わたしたちは、理解していた。
清心先生への要求は、みんなの要求である。
清心先生との行動は、みんなの合意に基づくものである。
校内の総意は、清心先生抜きでも成立するが、清心先生が仲間に加わるとき、他の誰か一人でも欠けることは許されない。
凡そ、そんな不文律が、清心先生以外の全員を戒めていた。
それは、清心先生にとっては、居心地のいい環境ではなかったかもしれない。わたしたちでさえ、もどかしく感じることがよくあった。でも、それは、どうしても必要だ。そうする以外に、この集団を保持する方法が、誰にも思いつかなかった。
その環境で、唯一、清心先生に個人的に関わる権利を持っているのが、先生だった。そうでなければならなかった。そうなるのが道理というものだった。
だから、清心先生はいつまでも、わたしたちにとって、注意が必要な相手なのだった。
清心先生が来てすぐ、何回か、みんなで遊ぶ機会があった。言いだしっぺはいつも先生で、おそらく、歓迎会の代わりなのである。先生も、全員参加して、中庭で助け鬼や、教室でカルタ取りをした。その時間は、誰も彼もが夢中になって、楽しかった。
なのに、みんなの遊戯の時間が終われば、その楽しさを、清心先生と私的に共有するわけにはいかない。清心先生と、わたしたちのうちの誰かだけが、親密になってはいけないから。
先生を差し置くことにならないために。
清心先生を、先生より重んじていると、先生自身に思わせてはいけない。そんな瞬間が、あってはならない。
わたしたちは、また偶像を失うわけにはいかない。
一見、静穏な生活が始まった。わたしたちは念入りに、現状を維持しようと努めた。
清心先生が着任してから、先生は、外出の際、リョウちゃんを連れていくのをすっぱりとやめた。外へ行くのは、先生独りか、もしくは清心先生と一緒で、でも大抵、清心先生は学校に残った。大人が一人いてくれると心強い、というのが、後でこっそりリョウちゃんから聞いた話によると、先生の方便のようだった。
清心先生の作る食事は、先生のとも、リョウちゃんのとも違っていた。材料自体は味気ないものばかりのようだけど、手間をかけて、美味しく仕上がっていた。リョウちゃんの選ぶ食べ物を食べられなくなったのは、わたしたちには残念だった。でも、その名残は、たまに、機嫌でも取るみたいに、先生の手土産となって現れている。
リョウちゃんは、清心先生が来て以来、みんなから突出するような才能を、片鱗も見せなかった。オミは、リョウちゃんがみんなと同じ立ち位置に下ったことを喜んで、先生へのアプローチが鳴りを潜めた。コータは、リョウちゃんに対しては、ぎこちなく、素っ気なかったけど、先生が本分を取り戻し、偶像としての機能、保護者の役目をきちんと果たせそうだと見ると、安堵したらしい。わたしだけは、わたしにとっては、リョウちゃんは特別な存在であり続けた。
リョウちゃんは、事前に先生と相談でもしていたのか、一緒に外へ行こうという素振りを、ちらとも見せなかった。一緒に外出していたことなど、なかったように振る舞っていた。
また、いつ、誰に口止めされたわけでもないのに、わたしたちの誰も、リョウちゃんが最近まで外出していたことを、清心先生に告げようとはしなかった。
芋づる式に話題が夕へ及ぶのを、警戒していたといえば、格好いい。けど、そこまで考えていたわけじゃない。
皮肉なことに、反面、当然のことながら、リョウちゃんの信用は、そこまで貶められていたのだ。
コータも、オミも、つい先日の無残な仕打ちを、忘れていなかった。味わわされた絶望は、深くて計り知れなかった。誰も、リョウちゃんの計画には気づいていなくても、リョウちゃんが自分たちの気持ちを裏切ったことだけは理解していた。リョウちゃんが何もかもを先生に放り投げたということだけは、事実として、認識していた。
この期に及んで、リョウちゃんが外出していたことを、吹聴したり、話題にすることは、リョウちゃんがかつて特別な存在だったことを強調するのだ。わたしたちの、リョウちゃんへの信頼と、その他様々な、妄信みたいな感情は、強く、誇らしく、好意的すぎて、その後の失意を容認できなかった。期待に応えないリョウちゃんが、いまなお、同じ空間にいて、近くで生活するのであれば、わたしたちは以前の、信頼の方から、丸々、なかったことにするしかない。落胆は大きすぎて、憎悪に変わることもなく、復讐すら思いつかせない。神様のそばに暮らした記憶を、幸福な思い出として、いい夢でも見たように、胸の奥底にしまっておくしか、手段はないのだった。
そんな、微妙な事情で、わたしたちの口には、目に見えない制限がかかっていた。
リョウちゃんは、飽くまで、児童の一員として、全員に扱われた。
リョウちゃんにまだ一日の長があるとすれば、それは、現在の先生の方針が、元はリョウちゃんの方法論にあるという点と、そもそも憔悴した先生を持ち直させたのが、選りに選って、リョウちゃんだという点だった。けれども、それらの美点も、絶対に、表に出ることはない。リョウちゃんの優れたところは、清心先生以外のみんなの、記憶の最奥に、厳重な封印を施されて寝かされている。
奇妙なことで、わたしたちの誰にも、清心先生を仲間外れにしようという気は、一つもなかったのだ。確証はないけど、わたしたちはみんな、それぞれ、多分、清心先生が好きだった。
清心先生は、最初の頃こそ表情が硬かったけど、一ヶ月も経たない内に、緊張を解いていた。表情があまり動かなくて、独りのとき何を考えているのか、全然読めない人だけど、話すと気さくで、さっぱりしていて、感情の起伏もあるし、理不尽なところがない。話し相手がわたしたちでも、先生でも、態度は一貫している。
その、単純だと言ってもいいくらいの理性的な行動に、慣れるまでは、みんな、多少当惑した。彼女には振れないルールがあって、そのルールを遵守していると、周りの誰も意識していないところまで見通せるらしい。そのことが、わたしたちにはわからなくて、結果をみて初めて、清心先生の行動の意味がわかるというのが、大体いつものパターンだった。正直、わかればいい方だった。
清心先生は独りで、何でもできる人だ。料理も、洗濯も、勉強も。成果が不出来だということが、一度もなかった。
彼女と一緒に行動すると、わたしたちは指示についていけなかったり、その指示がやけに迂遠に感じられたりする。ジャガイモを一辺五ミリの賽の目切りで水にさらすだとか、洗濯物は色の濃いものと薄い物、汚れの酷いのはさらに分けるとか。何だか根本的な齟齬があるようで、たまに苦痛になってしまう。
その隔たりは果てしないかと思われたけど、そのうち、それも、ちょっとずつ気にならなくなってきた。
清心先生は、わたしたちの当惑に気づいていたんだろう。同じ内容を、何度も手を替え品を替えて説明するのは、別に、馬鹿にしているからじゃないらしい。清心先生も、困惑していたのだ。
こっちから説明を求めれば、ちゃんと応えてくれる。言葉が難しくても、わたしたちはすぐ、聞き直したり、聞き流したり、何と次回に持ち越したりもできる。
わたしたちの言うことは、清心先生はきちんと聞いている。わからなければ、聞き返したり、わからないながらも覚えていて、宿題にしておいてくれる。
わたしたちには何もかも、新鮮だった。清心先生は変わった人だった。
明確な自分の意見を持っていて、公平で、合理的だ。思い遣りが裏目に出るようなところがあったけど、高圧的なところ、無遠慮なところ、気の利かないところはほとんどない。
そんな人を、わたしたちが嫌いになる理由がない。
ときどき、冷たいみたいに、一歩も二歩も引いたところでこちらを眺めているようなことがあったけど、それは、おそらく、わたしたちの緊迫した状況を察したからじゃないかと思う。意識してでも、無意識にしても。
結局、清心先生は、わたしたちの今まで見た、どんな大人とも違っていたのだ。
わたしたちを子どもだと侮ったり、軽んじたりすることがなく、何かを強要することもない。わたしたちに、実質、仲間外れみたいにされても、怒ったり拗ねたり悲しんだりする様子もない。反撃に出ることもなく、常時、一定の距離でわたしたちみんなに接する。
それがあんまり理想的で、安定していた。
わたしたちは、その距離を詰めることも、この恒常的な平和に波風を立てることも、しなかった。
先生が中心に、わたしたちがその周りにいる。清心先生は輪の外にいる。
望んだはずの構造が、完成していた。
それが、実現してみると、何だか少し、虚しかった。
そんな状況下にも、先生とリョウちゃんの関係は続いていた。そのことは、考えただけでも、寒気がする。
清心先生が来てしばらく、わたしはそれに気づいていなかった。清心先生にどう対応するかに、神経を使いすぎていて、そこまで気にする余裕がなかった。
リョウちゃんは、徐々に、着実に、蝕まれていた。大事なものをせびり取られて摩り減っていたのに。
本当に、六月以降の生活は、一見、平穏そのものだった。
わたしには、もう、リョウちゃんと先生の関係が、二人きりでどうこうなる何かだとは、思えていなかった。リョウちゃんの目論んだ構図は完全に出来上がっていて、機能もしていた。その構造の中では、リョウちゃんと先生が、特別に結びつくどんな必然性もなかった。しかもリョウちゃんと先生の力関係は、これまでに二転三転していて、いまはどっちがどう強いのか、わたしにはよくわからなかった。
先生はもうリョウちゃんの誘導なしでも、ほとんど自分で考えてしっかり行動しているように見えた。清心先生に対するのでも、わたしたち相手でも、誰の助けもなく淀みなく話すことができて、挙動不審でもない。車の整備や、買い出しや、授業でさえ、すっかり自分の役割として、遂行することができている。
そういう意味でも、新しく来た大人が、清心先生のような人だったのは、よかったんだろう。清心先生の行動は、逐一、理性――感情の適度な制御――と合理的判断に基づいていて、衝動的という言葉がこれ以上似合わない人もいない。それは、こちらが感情的になっているときには、冷たくも無礼にも見える態度だったけど、お互いが冷静になってみれば、解決できない問題など何もないように思わせてくれる。
その効果が、わたしたちみんなを、平静に保っている。わたしたちは彼女から、激しい情動をなだめる作法みたいなものを、自分なりに学び取っていた。それと同時に、お互いを傷つけない距離の取り方も、見様見真似で身につけた。
それは、便利で、ちょっと味気ない。寂しい、身軽な生き方だ。
でも、その時、わたしたちは、それをこそ望んでいたはずだ。
音楽準備室で、リョウちゃんの告白を聞いたとき、わたしは信じられないような気がした。
八月も末だ。どこも暑くて、じめじめしているのに、その部屋はなぜか、少し涼しかった。曇りの日で、じっとしていると、なんだか変に手足がひんやりする。
戸棚と打楽器、アコーディオン、譜面台で占められた準備室の床の隙間に、わたしたちは座っていた。音楽準備室は、楽器も床も、埃が積もっていたけれど、床の隙間はリョウちゃんが時々箒で掃いて、ゴミ箱に捨てていた。周りの楽器の中で、破れて音の出ないアコーディオンが一つ、埃もなく、取りやすい場所に置かれているのが、顔を上げると見えた。
最近、先生に呼ばれる。
掠れ声が隣で聞こえた。
リョウちゃんの声だった。
わたしは耳を疑った。
隣を見ると、リョウちゃんは、抱えた膝に鼻から下を埋めて目を伏せていた。
何。何で。
微かに首を横に動かして、リョウちゃんは返事の代わりにする。それでわかった。呼ばれるの意味が。先生にリョウちゃんが呼ばれる、その意味が。
わたしは色めきたった。
何で。何にも、もう。どうやって。
校内の構造は完璧だ。わたしたちの中から、リョウちゃんだけを、先生が選び取る理由なんて、この状況ではないはずだ。
リョウちゃんは説明する。らしくなく、ぼそぼそと、篭った声で。
先生が、外から帰ってくるとき。中庭に車を入れる前に、シャッターを開けに、歩いてくる……。たまたま、一度、そのとき、廊下にいたんだ。
目眩がした。
それは、その情景は、丸っきり、四月の再現だ。
そしたら、先生が、シャッターじゃなくて近くの戸を叩いて、開けたら、連れて行かれて。
そのときは車も近くにあったけど、次からは車は外の見えないとこに停めてくるようになった。リョウちゃんが廊下に近づかないようにしていると、しばらくしてから、たまには開けてくれとこっそり言われるようになった。
そんなことが、七月頃から、月に一、二度、あるという。
わたしは怒りで頭が破裂しそうだった。
何に怒ればいいのだろう。先生に、わたしに、それとも今まで打ち明けてくれなかったリョウちゃんに? そんなのこじつけだとわかってる。わかってても、怒りの、やり場が欲しい。
先生は何もかも滅茶苦茶にしようとしてる。リョウちゃんの恨みも寛容も献身も台無しにして。リョウちゃんが築いた構造を、根幹から揺るがしている。自分がリョウちゃんに何をしたのか、わかっていないわけはないのに。
頭に来る。誰でもない、わたしにだ。リョウちゃんが創った構図の、自分の席に腰かけたことで安心して、周りもそうだと思い込んでた。何もかもうまくいってる。瑕疵などどこにもあるわけない。だって、リョウちゃんが創ったものなんだから。
リョウちゃんが、どんなに犠牲になったか知れないのに。
思わず叫びそうになって、リョウちゃんと目が合う。息が止まった。
大声を出しちゃだめだ。リョウちゃんの黒い双眸が、そう言っていた。
――それはそうだ。わたしは静かに呼吸をした。わたしたちはいま、音楽準備室にいる。ここは、リョウちゃんの鍵さえなければ、誰にも踏み込めないところだ。見つかるわけにはいかない。
急に息を止めた反動で、目に涙が滲んだ。
リョウちゃんの目は、あの例の、深くて、暗くて、底のない目じゃなかった。それが、見慣れなくて、不可解で、わたしはリョウちゃんを凝視した。
リョウちゃんはわたしから目を逸らした。
自分の爪先の、もう少し先を見つめているようだ。その目は、風呂場のガラスが曇ったみたいに濁って見えた。
わけがわからなかった。
リョウちゃんが、先生の呼び出しを、歓迎してないことは確実だ。
そのはずだ。そう見える。
それなのに、リョウちゃんは何もしていない。
先生への抵抗も、反発も、みんなに助けを求めることも。一度信用を失ったことで、みんなの助けを得られないとでも思ったのだろうか。コータも、オミも、この静穏を乱す行為を、許すわけがないのに。
たとえ、それが先生でも。わたしたちからリョウちゃんだけを引き抜く権利を、認めるわけにはいかない。わたしたちは同列同位で、平等だ。先生はリーダーなんだから、その行為が事実だとすれば、それはわたしたち全員の身に万遍なく注がれなくてはならない。
そんなの、わたしたちは誰だって。リョウちゃんだって、わかっているはずなのに。
リョウちゃんはこれまで、わたしたちに面と向かって救援を要請したことはなかったけど、リョウちゃんなりに、事態を解決しようと動いてきた。それはわたしたちの無意識を利用するという形だったにしろ、驚くほど効果を発揮して、問題は確かに処理できていた。今回だって、それができない理由は見当たらない。そのはずなのに。
わたしの隣で、楽器の脚と脚の間の狭い隙間に納まったリョウちゃんは、小さく身体を折り畳んで、いかにも無力だった。
初夏の、あの時期のリョウちゃんとは、別人のようだった。
無論、リョウちゃんを信じないなんて選択肢はない。
どうするべきか、考えたとき、突如、名案が閃いた。
わたしは身を乗り出した。
清心先生に、言おう。助けてもらおう。
言った途端、リョウちゃんは手足を解いてわたしを睨んだ。
清心先生には、言わないで。
部屋の外に漏れそうなくらいの、強い声だった。
わたしは気迫に圧されて、二の句を継げなかった。リョウちゃんはまだしばらくわたしを睨み続けていた。
それから、ちょっとだけ険を弱めて、眉をひそめた。
言わないで。これは、秘密。ここだけの話。そうでしょ。
わたしは何も言えなかった。本当は、言いたいことが、沢山、お腹の中でごうごうと渦を巻いていたのに。
何で。清心先生なら、助けてくれる。もうわたしたちは先生だけに頼らなくていいんだ。清心先生はきっと、リョウちゃんを守って、救ってくれる。
誰にも言わないで。誰にも、絶対やめて。もし言ったら、絶対、許さないから。
何で。独りで解決できないなら、リョウちゃんだって、みんなに頼っていいんだ。わたしだってもう、前みたいに、ただ見ているだけじゃない。いまここには清心先生もいるんだ。わたしたちは、先生を、その座から引き摺り下ろしたって構わない――。
言いたいことが、何一つ、唇から出てこなかった。わたしはただじりじりとリョウちゃんを見つめて、リョウちゃんはわたしを見ず、前を向いてまた膝に顎を埋めていた。
もしかしたら、リョウちゃんは、それをこそ恐れていたのかもしれない。わたしたちが先生から地位を剥奪してしまう、そのことを。何のためにかといえば、理由はおそらく一つで、リョウちゃんにとっては、先生も、夕からの預かり物だったのだ。リョウちゃんは夕が帰ってきたとき、全てを返せるように、そのままで迎え入れられるように、そこにいた。わたしがそれに気づいたのは随分後の話で、その時は、リョウちゃんの心情が、一向、理解できなかった。今も昔も、わたしは、リョウちゃんさえよければ、それでよかったから。
リョウちゃんの思考を推察できないじれったさ、犠牲を傍観するしかない自分自身への怒りを、わたしは、そのうち、清心先生に向かわせた。この集団の、数少ないもう一人の大人でありながら、子どもの身に起こっている事件に気づきもしない。なんて、散々仲間はずれにしておいて、逆恨みもいいところだけど、もう他には考えられなかった。
本当は、助けてほしかったのだ。
だって、あんまりだ。
清心先生は関わってくれない。
何でも解決できると思わせてくれるのは、その、清心先生なのに。
リョウちゃんが清心先生をどう思っていたか知らない。多分、わたしとは、違っただろう。夕の戻ってくる日のために、いるべきじゃないと思っていたかもしれないし、その日まではいてもいいと思っていたかもしれない。わたしたちから、何より清心先生から、先生を取り上げるべきではないと考えていたかもしれないし(だって、わたしたちは、先生がいなくても繋がっていられたけど、清心先生は先生を失えば、わたしたちとの関係もなくなりかねなかった)、気持ちの上から言えば、もっと違っていたかもしれない。
たとえば、清心先生は、自分から先生を取り上げてしまう人だとか。
リョウちゃんの立場から言えば、おかしな気もする。けど、リョウちゃんをとどめていたのは、もしかしたらその気持ちだったんじゃないだろうか。
清心先生は、誰にも深く関わらない。全員に、分け隔てなく、一定の距離感で接する。
わたしたちにも、わたしたちがそれを求めているはずの先生にも。
それは、あるいは、先生の役割を侵犯する行為だったんじゃないか。
正解を見せつけることで、先生の努力を踏み躙ったようなものだったんじゃないか。
だから先生は、自信を保つのが難しくなった。辛くて、苦しくて、リョウちゃんに助けを求めた。
また支えてもらうために。
そんなの、傲慢だ。欺瞞だ。間違っている。
でも、リョウちゃんがそう思った可能性は、ゼロじゃない。
悔しいのは、わたしがあの頃、リョウちゃんの思考や感情に、まるで発想が及ばなかったことだ。何の解決も、助言も、有効な支援もできなかった。そばであれほど話を聞いて、打ち明けてもらっていたのに、わたしは聞いたことの半分すら、全然理解していなかった。
わたしがわかったのは、この内緒の話を、清心先生にしてはいけないということ。
そして、わたしが思っているようには、リョウちゃんは清心先生に頼る気はないということだった。
何もできない毎日が、何ヶ月も続いた。先生は、本当に、うまくやっていた。週に三度は出かける先生が、月に一、二度、不定期にリョウちゃんを連れ出すのだから、誰かがそれを見つけるのは至難の業だった。それでいながら、みんなの前では、そんなことおくびにも出さないのだ。
状況が変化したのは、その年の十二月。
わたしたちの生活に、子どもが一人、新しく入ってきた。
まだ一年生にもならない男の子だった。それが、来年度の入学より早く、ここで暮らすことになったのだ。両親、祖父母、全員を病で亡くしたらしく、住む場所がないそうだった。
名前を桜という。女の子みたいな可愛い名前だが、名前に反して、実態はちっとも可愛くなかった。見た目も言動も、完全に男の子で、うるさくて、元気が有り余っていて、突拍子もないことばかりする。同じ生き物とは思えなかった。
桜が加わって数日で、わたしは辟易した。騒々しいし、わがままだし、そこらじゅう走り回ってすぐ転んで泣くし、話が通じない。その上、たまたま近くにいるだけで、世話まで任じられてしまう。
冗談じゃない。コータやオミや、リョウちゃんさえも、このとんでもない生き物を可愛がり始めたけれど、わたしはなるべく近寄らないようにすることにした。コータと遊べば階段から落ち、オミと遊べば本一冊バラバラにし、リョウちゃんと遊ぶはずが菜園の支柱を引っこ抜く生物と、どんな風に遊べばいいというのか。世話をするといったって、男子トイレになんか入れない。そばにいると、ろくなことにならない。
ある日、わたしは教室の自分の席で、ノートを広げていた。そのノートは、わたしの、勉強以外のことに使える、唯一のノートで、四月に一冊だけ貰えたのを、大事に大事にしていたものだ。ノートは、なくなったからといって、すぐに新しいのを貰えるわけじゃない。先生の買い置きは度々底をつく。普段の漢字の書き取りや計算も、授業以外では、先生たちが取っておいた反故を使うこともあったから、その新品の、まっさらなノートは、本当に貴重なものなのだ。
わたしはそれを、時々取り出しては、大体、何も書かずに見つめていた。中庭で見つけた、気に入ったものの絵を描くことに決めて、最初の数ページに、小鳥や花の絵を描いていたけれど、その絵はお世辞にもうまいとはいえない代物だ。
何がいけないんだろう。記憶を頼りに描くから失敗するのかな。でも、同じ小鳥なんて、いつもいるわけじゃない。
中庭に、今、咲いている花はあったっけ。そんなことに思い耽っていると、いつの間にか、机のすぐそばに桜が立っていた。
何してるの、と言われて、わたしはびっくりした。そこに桜がいたことに、初めて気づいたのだ。机からやっと頭だけはみ出した背丈で、わたしが返事をする前に、桜は机に手を載せた。ねぇ、何してるの。そう言う桜の小さな手が、机の上をまさぐった。ノートの隅に触れ、ページの端をぐしゃっと握った。
かっとして、わたしは桜の手を払った。払った拍子に、右手の甲が桜の目元に当たった。
桜はよろけ、床に尻餅をついた。一瞬後に、泣き喚いた。
わたしはノートを抱きしめ、呆然と、桜を見下ろした。
どうしたの。泣き声を聞きつけ、清心先生が戸口に現れた。先生以外の、全員が教室にいたけれど、わたしは、事の顛末を誰か見ていたか、わからなかった。
こんなの、誰が見たって、わたしが泣かせたようにしか見えない。とうとう、怒られる。ううん、清心先生のことだから、ここでも誰の味方もしないのかもしれない。
清心先生が駆け寄って立たせると、桜は彼女に抱きついてわんわん泣いた。わたしだけじゃなく、周りのみんなも、二人の様子に注目していた。清心先生に抱きつくことができるなんて、知らなかった。
清心先生は、桜の背中を軽く何度も叩いてあやして、わたしを一瞥した。わたしはびくっとしたが、彼女はすぐ桜に向きなおった。
お姉ちゃんを、怒らせちゃったのね。だめよ、お姉ちゃんには、お姉ちゃんの、大事なものがあるんだから。
わたしははっとした。一度も言ったことはないのに、清心先生は、知っていたのだ。このノートが、わたしの大切なものであることを。
何も言わなくても、事情は察してもらえたらしい。そこまでわかっても、わたしは安心できなかった。
別の緊張感が、立ち昇ってきた。
お姉ちゃんと、遊びたかったのね。今度は気をつけて、ちゃんと、遊ぼうって言おうね。さあ、自分で立てる?
うん、と、桜は頷く。もう大分泣き止んでいる。
お姉ちゃんに、ごめんなさいって言える?
うん。
桜は彼女の肩に掴まったまま、わたしと彼女を見比べて、彼女の頷きに促され、ごめんなさいとわたしに頭を下げた。
清心先生は、わたしの手元に視線を向け、困ったように眉を寄せた。
ごめんね。
――それは、いわれのない謝罪だった。
ノート、大丈夫? 桜にも、悪気があるわけじゃないのよ。
清心先生が、謝る筋合いなんて、一つもないのに。
今までの彼女にない、理不尽な振る舞いだ。
そんなもの、わたしたちは求めていない。
清心先生が立ち上がり、桜の肩を励ますように叩いた。コータがすかさず桜を呼んで、一緒に遊ぼうと、提案していたようだった。
わたしはまだ、動けないでいた。
清心先生が気遣うようにわたしを見て、小声で言った。
無理しなくていいから、できれば、相手してあげてね。少しでも話してもらえれば、きっと落ち着くから。
わたしは、応えなかった。何を言われているのか、何もわからなかった。
一体、何のつもりで。
ノートのことを知っていた。泣き声の後にこの場に来たのに、間違いなく状況を判断した。その上、桜を庇って、桜の代わりに謝った。
そこまでできるのだ。この人は。
できなかったんじゃない、しなかったんだ、今までは。敢えて距離を置いていたんだから。
じゃあ。
なのに、どうして。
できるとしたら。
そこまでよく見ていて、どうして。
何で見つけてくれないんだろう!
桜の登場によって、状況は刻々と遷移した。あの日、あの場面を見ていたコータやオミは、気づいてしまった。清心先生が、頼れる人だということに。
桜は無邪気だった。幼児の率直さで、あっという間に、一番、清心先生に懐いた。清心先生の態度は、甘やかすというのとも違う気がしたけど、とにかくよく桜をかまったし、面倒も見た。桜の遠慮のなさには釣られてしまうのだろう。いつでも物事を説明し、自律と自制を促すやり方は変わらないはずなのに、気づけば桜は彼女といて、彼女は桜の相手をしていた。その情景がわたしたちに生みつけたのは、嫉妬心だった。
多分、誰も、例外ではなかっただろう。わたしたちはそれまで、誰一人、清心先生にそこまで近づいたことはなかったのだ。わたしたちの組織を、維持するという理由の下に。
桜に、あの年頃の子どもに、わたしたちの不文律を何も言わずに理解させるなんて、無謀に過ぎる。元々、そのルール自体が、桜の存在を計算に入れていない。当面、ヒエラルキーを保とうとするなら、桜の存在は例外として認めるしかなかった。
でも、そんなの、詭弁だった。事実は何にも伴わなかった。だって、みんな、覚ってしまった。
先生がトップじゃなくてもいい。
それだけの、簡潔な、酷い結論を。
先生を一番にするために、わたしたちは心血を注いできた。でも、それに何の意味があるのか。もう、誰も覚えていなかった。それよりも、桜のように、清心先生と話をすることの方が、何倍も重要に思えた。これまで捨て置いて、無視するように遠巻きに扱ってきた人と、本音では仲良くなりたかった。すっかりお互い距離を置きすぎて、いままで方法がわからなかったけれど、いまならわかる。桜を見ていれば。
構造は崩れ始めた。砂の城が波に洗われるように、崩壊は自然の摂理で、みるみる進行した。わたしにも、リョウちゃんにも、その終焉は止められなかった。止める必要がどこにあるのか、本当のところ、わたしにはわからなかった。
みんなは、清心先生と、各自、対話をし始めた。わたしもたまに、うっかりすると、彼女と二人で話すときが出てきた。そんなとき、後になって、わたしは後ろ暗い気分になるけれど、リョウちゃんから責められることはなかった。一度もだ。
リョウちゃんは、崩壊をただ眺めていた。実際、止めようともしていなかった。何か、この状況に適した、新しい算段があるのかもしれない。当初はわたしはそう考えたけど、じき、気がついた。リョウちゃんが、やっぱり何もしていないことに。
リョウちゃんは何も企んでいない。
それがわかると、わたしは、虚無みたいな不安に襲われた。
これまで――いままで。わたしは、リョウちゃんの一番の友だちで、唯一の理解者だった。あの楽園を創ったのが、リョウちゃんだと知っている。その幸福を潰滅させたのも、致し方なかったことだとわかっている。わたしだけは、信じているのだ。
わたしたち二人の繋がりは、決して一方通行じゃなかった。リョウちゃんは、わたしにだけは、本当のとこを教えてくれた。何を考えているのか、どうしてそうなったのか、見せてくれた。あの夕の残した鍵を使って、わたしを秘密の小部屋に招じ入れて。
でも、いま、リョウちゃんが何を考えているのか、わからない。
リョウちゃんがどんな気持ちなのか、わからない。
それから間もなく、リョウちゃんはわたしを呼んだ。例の鍵を使って、資料室の、埃に塗れた道具類の手前に。
ねぇ、みぃ、と、わたしを秘密の名前で呼んだ。
もう、好きにしていいよ。ショーコと仲良くしたっていい。
わたしは首を左右に振った。そして、リョウちゃんを、まっすぐ見た。
しない。
ねぇ、もう、いいんだ。わかるでしょ。普通にした方がいい。
しない。清心先生なんて、信じない。
だって、あの人は、見つけてくれない。この集団の歪みを。
犠牲になっている、リョウちゃんを。
諸悪の根源を。
できないわけじゃないのに、しないんだ。
わたしは頑として譲らなかった。リョウちゃんは、困ったように、微かに首をすくめて、視線を床へ落とした。
先生のこと、言わないでくれてるね。有り難う。
わたしはぶるぶると首を振る。
有り難う。このまま、言わないでいてほしい。
言わない。誓うよ。絶対、言わない。
有り難う。ねぇ、みぃ、これは、本当に、ここだけの、秘密の話なんだけど。
わたしは息を殺して、リョウちゃんの目と、唇の動きを見つめる。
実は、先生を、誰にも渡したくないんだ。自分だけのものにしたいんだ。協力してくれる? ショーコにも、誰にも、絶対、あげたくないんだ……。
グラグラと、世界が揺れる心地がしたけど、わたしは頷いた。
なるべく、力強く。リョウちゃんに心配なんて、かけたくない一心で。
リョウちゃんがそれを求めるなら、そうしよう。それがリョウちゃんの望むことなら。
わたしは自分の持てる力全部で、叶えよう。
わかった。
わたしはきっぱりと、返答した。
リョウちゃんの唇が、嬉しそうに、綺麗な弧を描いた。
清心先生を当てにするのはやめだ。あの人は、もう、リョウちゃんを救えない。リョウちゃんは初めから彼女を頼りにしていないし、彼女は、最早、リョウちゃんの邪魔でしかないのだ。リョウちゃんと先生の間を引き裂く、どんな要因すら、わたしは排除しなければならない。
桜が来て、彼女に懐いてからというもの、みんなの地位は済し崩しで変動してしまった。桜ばかりでなく、コータや、オミも、彼女に頼るようになり、挙句の果てに先生まで、彼女と親しい素振りを見せるようになった。厚顔無恥にもほどがある。
先生は相変わらず、裏で、リョウちゃんを呼んでいた。誰にもばれないように、誰にも気づかれないのをいいことに。リョウちゃんによると、その頻度は、桜が来てから増えたという。それでも、いまだに、彼女がそれに気づく様子は全然ないのだった。
先生と彼女が、二人きりで話すのを、リョウちゃんは気にしていた。それは外出や校内のことや、大人の相談として、仕方のないことかもしれないけど、毎晩、会議をする以上に、二人で話すのは、認められないことだった。夜の会議以外は、なるべくどちらかの近くにいるよう、わたしは心掛けたけど、二人はどこでも隙あらばすぐ、他の誰もいないところで話そうとするから、油断ならなかった。
その朝もだ。菜園から戻った廊下の途中で、わたしたちを教室へ追いやって、大人たちは二人きりで会話を始めた。教室へ一旦引き上げ、急いで戻ってきて、反対の廊下の端に降りてきたわたしは、壁ごしにそちらを覗きみた。
恐れていた通りのことが、そこでは起こっていた。先生と清心先生が、何か、親密そうに会話を交わしている。
これはいけない。
すぐに止めさせなければ。
わたしはズボンのポケットから、手芸用の小さな鋏を取り出した。
その鋏で、靴紐を切った。鋏は、糸を切る程度の用途のものだから、かなり骨の折れる作業だった。鋏が壊れるんじゃないかというくらい、無理矢理、力を込めて、何とか片方だけ、やり遂げた。
この足で、出て行こう。そうすれば、二人は、会話を中断せざるを得ない。
わたしはひょこひょこと、廊下を進んだ。紐が片方切れたくらい、どうってことないと思っていたけれど、靴がすぐ脱げそうになって、存外、歩きにくかった。
わたしを見つけると、思った通り、清心先生は会話を打ち止めた。わたしに駆け寄ってきて、紐を確認し、新しいのを探してくると言ってその場を離れた。ついでに先生がわたしを抱え上げ、教室まで運んでくれたのは、さらに都合がよかった。先生がわたしを連れて教室へ顔を出せば、清心先生がそばにいないことを、リョウちゃんは知ることができるのだ。
その後、清心先生が、独りで教室へやってきて、わたしの靴紐を取り替えた。大人二人が、わたしたちの見えないところでも、一緒にいるわけじゃないのを、リョウちゃんは確認できたはずだ。
清心先生が出て行くとき、目顔で合図すると、リョウちゃんははにかむように、ちょっと微笑んだ。
わたしは満足した。
わたしのやったことが、確実に効果を上げたのだ。
基本的に、わたしはおとなしく、目立たないようにしていた。わたしの性質が、元々、そんなものだったから、そうするのは大した労力を必要としなかった。わたしが強く自己主張しなくても、コータや、それに桜が、すぐ喧しく声をあげる方だから、発言を求められて窮地に立たされることも、まず、ない。
教室から見下ろす中庭では、菜園に植えなおしたトマトが、すくすくと大きくなっている。
あの四月から一年が経って、校内はまた、違う春を迎えていた。
夕がいなくて、その代わりでも何でもないけど、清心先生と、桜がいる。リョウちゃんが、今もまだ、夕の帰りを予期しているのかどうか、わたしは知らない。そんなことは、とっくの昔に、興味の対象から外れてしまっていた。
わたしが意識を注ぐのは、ただ、先生が誰かと(大抵、それは清心先生以外いなかった)二人きりでいないか監視し、なるべくどうにかして誰かを割り込ませ、二人が不必要に懇意になるのを阻止することだった。
それと、もう一つ、これは継続で、リョウちゃんと秘密の話をするときに、誰にも見つからないようにして、秘密が漏れないようにすること。
この二つが、わたしにとって重要なことなのだ。それ以外のことは、全部、些末なことだ。
清心先生は、以前よりも少し、わたしたちに関わってくる回数が多くなった。相手をするのは、正直、億劫だったけど、先生と二人きりでいさせないためには、大歓迎だった。でも、できれば、わたしじゃなく、コータや、オミや、他の誰かに関わってくれるとなお有り難い。わたしは、清心先生との対話は、できれば避けたい。弾みで、つい、零すべきじゃない恨み言まで漏らしてしまいそうだから。
相変わらず、先生は、独りで出かけていた。先生の出かける日は、わたしにとっては、気を抜ける日だったけど、リョウちゃんにとっては、格段の緊張を強いられる日だった。
先生に呼ばれること自体は、先生を独占するのに丁度いいことのはずなのに、リョウちゃんは、よく、わたしだけに、今にも逃げ出したそうな顔つきを見せることがある。
リョウちゃんの真意は、やっぱり、わたしにはわからなかった。
でも、わたしだけの、特別の任務を授かったことで、わたしは今までになく、充実した日々を送っている。何といっても、この任務には、当面、終わりも限界もないのだ。永遠に続く探偵ごっこに興じているようなものなのだ。
探偵役はわたしで、依頼主はリョウちゃんだ。勿論、依頼主のプライバシーは死守しなければならない。それはまさに、リョウちゃんの創出した、万事、首尾一貫した、楽しい遊戯なのだ。
しかもこの特命は、今回ばかりは、わたしだけがリョウちゃん直々に仰せつかっていて、他の誰も知ることはない。ゲームの遂行は、すでに、わたしの生き甲斐だといっても過言じゃない。
嬉々として、わたしは毎日を過ごしていた。先生たちを引き離すのは、大変な仕事だった。その分、意欲も湧いた。食事の準備をきっちり決まった当番制にして、二人が一緒に働く機会をなくしたり、会議の席へは必ず誰かがお風呂の順番を知らせにいって、二人きりの時間が続くのを、妨害したりするのである。
そんなことに夢中になり過ぎて、周りが見えなくなっていたかもしれない。その、気の緩みが、いけなかったのかもしれない。深刻な過誤があったことが、発覚した。
中庭で、みんなで、四方八方に散らばって、遊んでいたときだった。
オミが近寄ってきて、わたしのすぐ隣に立ち止まった。
わたしはそれまで、誰とも離れて独りきりで、日陰のタンポポを観察していた。南校舎の足下に咲くその花は、日光など、ほとんど当たらないはずだった。こんなに暗いところで、鮮明な黄色に咲くのが、理解できない。ヒマワリと同じ黄色なのに。
リョウちゃんに聞いてみようか。でも、忙しいかな。リョウちゃんは最近、植物に興味津々だ。
ねぇ。
そばで声がして、わたしは顔を上げた。
オミの微笑む顔が見えた。
みぃって、可愛い呼び方だね。
――。
愕然として、わたしはオミの顔面を見つめた。
オミは、ちょっと悪戯でも成功したみたいに、悪意なく、無音の笑いを浮かべてわたしを見ていた。
その悪気のなさが、堪らなく不愉快だった。
衝撃だった。
秘密の呼び名が、外に漏れた。
それは、リョウちゃんがわたしとだけいるとき、わたしを呼ぶためだけに、付けてくれた名前なのに。
どうしよう。もしこのことが、リョウちゃんに知られたら。
何て釈明すればいいんだろう。いつ漏れたのか、どこで知られたのか、全然わからない。
リョウちゃんに、裏切り者の、烙印を押されてしまう。
どうしよう。――どうしよう。
何も考えられなくなった。わたしは、それから数日間、誰に何と話しかけられても、心中、恐慌状態だった。
オミは誰に暴露したのか、それはリョウちゃんの耳にも入っているのか。数日経過し、オミ以外の誰の口からも、その話題が聞こえてこなくても、わたしは穏やかじゃいられない。
オミは、わたしに言った。秘密を知っていることを。
当事者に直接、鍵を握っていることを教えた。
と、いうことは、仮に、他の誰の耳にも入っていないとしても、ひょっとして、リョウちゃんだけは、聞いているんじゃないか。
リョウちゃんはもしかしたら、秘密がばれたことを知っていて、敢えて、わたしを責めないのじゃないか。
そう。そうして。わたしは。
もう不要な、棄てて構わないものに、わたしはなってしまったんじゃ。
その思案がわたしを支配した。他の誰と話すとき、平常通りに振る舞えても、リョウちゃんの前でだけは、わたしはからっきしだめだった。度々、普段と同様に、リョウちゃんはわたしだけと内緒話をしてくれたけど、報告しなきゃと思ったけど、どうしても、言葉にならない。秘密を知られたことが、ショック過ぎた。
わたしは上の空で、リョウちゃんの前では一層、取り乱していて、何度か、話を聞いていなかったり、思いもしないことを口走って、リョウちゃんを怒らせた。リョウちゃんが、どんな気持ちで、わたしに話しかけているのか、まるで察することができなかった。
その頃、リョウちゃんは、必死で、わたしに窮状を訴えようとしていたのだ。
――その日、教室を出たリョウちゃんを、わたしは追っていった。リョウちゃんの、悔しそうな、辛そうな表情を見て初めて、わたしは、近頃リョウちゃんの顔を、ちゃんと見ていなかったことに気づいていた。
実際、愚かだった。リョウちゃんが人前で激昂するまで、他でもないわたしが、リョウちゃんの感情を理解していなかったなんて。
リョウちゃんの姿は、早、どこにもなかったけど、わたしの足は、その部屋に直行した。わたしとリョウちゃんの、最初の、始まりの部屋。施錠の必要のない、たった一つの部屋。
周囲に誰もいないことを確認し、そうっとドアを開けて、中に入る。ドアを閉めると、室内は、部屋の名前の通り真っ暗だった。
人影は見当たらない(そのことは、部屋に入るときに、廊下の明かりで認めていた)。ここじゃないのかもしれない。
そう考えながらも、有るか無しかの期待を込めて、わたしは、壁沿いの長いカーテンの、二枚が重複する部分に手をかけた。
壁の切れ目が、隣の空間へ続いている。隣も真っ暗のはずだが、その室内が、浮かび上がって見える。
闇の中に、赤い、暗い電球を灯して、リョウちゃんがへたり込んでいた。
続き間の左右の壁は、機材類の載った戸棚だ。その中ほどの、床の上に、両脚と片腕を投げ出して、リョウちゃんはぐったりと、横たわるように座っている。
わたしは駆け寄った。膝をつき、手を添えた。
リョウちゃんは弱々しく反応し、おもむろに顎を動かして、わたしの肩に額を押しつけた。
こんなに、力のないリョウちゃんを、わたしは今まで見たことがなかった。
これが、限度だ。
わたしは決意した。
もう方法はない。ごまかすなんて、無理だ。馬鹿なことだ。
おそらく、リョウちゃんを、これ以上失望させるにしても。言ってしまおう。秘密が漏れたことを。
告げよう。
それが、わたしの精一杯の、誠意だ。
みぃ。
肩口で、リョウちゃんが、細い、高い、頼りない声で呼んだ。
わたしはリョウちゃんの手の甲に、手を重ねた。
リョウちゃん。ごめん。ごめんね。
みぃ。みぃ。ねぇ、どうしよう。
わたしの手のひらで、リョウちゃんの手がびくっと動く。
リョウちゃんの背中が、肩が、不規則に震え出した。
わたしたちの秘密が漏れたことへの反応なら、それは、ちょっと、異様だ。わたしの動揺ほどには、リョウちゃんが、あの程度の漏洩で混乱を来すとは、考えられない。
何か、別の何かだろうか?
じっとして、待っていると、急に、リョウちゃんがわたしの手を握った。
ショーコに、ばれちゃった……絶対、絶対、知られたくなかったのに。
――思ってもみない、告白だった。
わたしはてっきり、オミに秘密がばれたことを、リョウちゃんが知っていて怒ったものだと思い込んでいた。
違ったのだ。リョウちゃんは、泣いていた。
清心先生に、大事なことを知られてしまったと言って。
桜もここまでしないというほど、ぐしゃぐしゃに、髪も顔も乱して。
幼児以上に乱暴にわたしに取り縋った。
わたしはリョウちゃんを支え切れず、膝を崩して、後ろに手をついた。残った手で、何度かリョウちゃんをなだめて、体を立て直そうとしたけど、うまくいかない。
落ち着いて。大丈夫。
どう声をかけても、リョウちゃんは、頑なに首を振るばかりで泣き止む気配がない。どうしよう、ねぇ、みぃ、どうしよう、と、頻りに同じことを繰り返している。
わたしはなんとか上体を起こしながら、絡まってくるリョウちゃんの腕を解いては、その背中を上下に撫でさすった。
落ち着いて。ねぇ、リョウちゃん。どうしたの。
どうしよう……。
ねぇ、何があったの。
……。
リョウちゃんが、しゃくり上げるのをこらえ、息を整える。
わたしは忍耐強く待つ。
次の、言葉を聴いた直後、目の前に雷光が降った。
我慢ならなかった。
オミを。
どうにかして――。
どうにかしなければならない。
リョウちゃんの、震える泣き声が、言った。
……オミが、ユウを見たって。
言ってた。
ユウが会いにきたんだって。
そんなはずない。そんなはず、ない。
――もう時間がない……。




