- (1)
あの、四月。
昼の日差しがあたたかくなった頃、夕が消えた。
夕がいなくなって、一番動転したのは、先生だった。あの日、みんなで学校中さがしまわって、いないねなんて言い合って、そしたら、先生がものすごい剣幕で走ってきた。
先生は、男子の部屋を調べたらしい。夕の服がちょっとと、カバンと、夕の小物入れがなくなってると言った。それを聞いて、リョウちゃんは少しびくっとした。先生も知っていたんだろう。小物入れには、夕が先生の手伝いで外に出たとき、こっそり自分のものにしていた、お金や、大事なものが入っていたらしい。
給食室からは、塩の小瓶と、食べ物の缶詰がいくつか消えていた。出奔、とか、ちょっと遠出に、ということのように思えたけれど、先生はそうは思わなかった。家出、とか、逃亡、とか、いや、もっと、決定的に、裏切りだと思ったみたい。外に行って、服や、食べ物や、その他いろんなものを持ってきてくれるとき、先生はいつも夕と一緒だった。夕を連れていかない日は、いつもより早く帰ってきて、持ってくるものも少ないくらいだったから。
とにかく、先生は躍起になって、独りで車を出して、朝から晩まで夕を尋ねまわった。
リョウちゃんが外に出るようになったのは、それから間もなくだった。最初、リョウちゃんは、先生とは別に、独りで歩いて外へ出ていた。リョウちゃんがいないことに、わたしは気づいていたけれど、なるべく、みんなにごまかしていた。部屋にいたよ、とか、さっき体育館で見たよ、なんて言い張って。
でも、しくじった。あるお昼に、リョウちゃんが戻ってくるのが、ちょっと遅れた。運悪く、先生がお昼に帰ってきたのが、その時刻だった。先生は車を中庭にとめて、廊下で、外から入ってくるリョウちゃんを見つけた。
怒鳴り声を聞いて、みんな駆けつけたけど、間に合わなかった。先生はカンカンに怒ってた。顔は赤すぎて、鬼みたいな形相で、わたしたちにお昼の指示をするのも忘れた。リョウちゃんの襟首を掴んで、いまリョウちゃんが入ってきたばかりの戸から外に出た。リョウちゃんは泣きながら引き摺られていった。二人が建物の陰になっても、リョウちゃんの叫び声は聞こえていた。わたしたちは怖くて、廊下にじっとして、声が止んでもその場を動けなかった。
その後だ。
それ以来、時々、先生はリョウちゃんを外へ連れ出すようになった。
どうしてそうなったのか、わからない。
でも、誰も聞かなかった。
羨ましいなんて、絶対に思わなかった。
半月ほど、リョウちゃんはぼんやりしていた。何を話しかけても、ちゃんと答えてくれない。話を聞いていないことも多かった。先生の話だけは、悪い魔法にでもかかったみたいにきちんと聴いていて、一言一句まちがえずに繰り返せるんじゃないかと思うくらい。呼ばれればすぐついていって、車に乗り込んだり、料理の手伝いをしたり。
リョウちゃんと話しているときに、リョウちゃんが呼ばれてしまうと、わたしたちの誰もが、ほったらかしになる。みんな、それは不満だった。けれど、断じて、先生にそれを言うなんて、考えられなかった。
その頃、オミだけは、先生にまつわりつくようにして、機嫌をうかがっていた。先生がリョウちゃんを呼ばないとき、独りで何かしているとき。隙あらば先生のそばにいき、先生の仕事を、見たり手伝ったりするフリをしていた。給食室でゴミをまとめたり、お風呂場の水道管をいじったりしているときなんかだ。わたしは、たまたま、その近くを通りかかっただけだけれど、オミが何度か、外に行きたいと言っているのを聞いたことがある。
でも、きっと、先生の返事は、確かに全ての場合、否だった。オミがいくら先生の気を引こうとしても、先生に尽くしても、先生は、絶対に、リョウちゃんに対するようにはオミを扱わなかった。先生にとっては、リョウちゃんとオミは、決定的に違うものだったんだろう。オミの空回りは、リョウちゃんが初めて捕まったあの日から、それこそ清心先生のきた六月まで、丸々一月半、哀れなほどに続いたのだ。
結果的に、オミの努力は、報われなかった。先生はオミを見なかった。先生は、リョウちゃんから目を逸らさなかった。オミが何をしようと、するまいと。先生がふとしたときに、リョウちゃんにだけ脅すような声をかけるのは変わらなかった。リョウちゃんがいつでもぼんやりしていて、先生の声が聞こえたときだけ、先生だけに注意を向けるのもそのままだった。
まるで、リョウちゃんと先生の二人だけが、この世界に生きていて、オミだけでなくわたしもコータも、とっくにここにはいなくなってるような。
夕が消えたのと一緒に、わたしたちも本当は消えていたんじゃないか。
あのときのわたしたちは、そんな風だった。だから、オミがああいう動きに出たのも、本心のところ、わかる気がする。
それから、しばらくすると、リョウちゃんは、今度は誰よりもおとなしく、優しくなった。
わたしたちの話を、一人一人、じっくり聴いてくれる。何度も頷き、そうだねと言ってくれる。先生の前では、悪い魔法にかかるのは同じだったけれど、そっちは夢でも見ているように、ぼうっとすることが多くなった。
最初の折檻から、二週間が経過していた。
五月だった。
寒いような雨の日が減り、夏みたいな強いおひさまが顔を出している。菜園の茄子が花を咲かせ、トマトが小さな青い実を結ぼうとしていた。
先生は、ぱったりと、リョウちゃんを外へ連れていくのをやめた。
独りで、忙しそうに、用事があると言って車で出かける日々だった。
そのうちに、また、リョウちゃんの姿が見えない時間が出てきた。
どこに行ったのかと、みんなに聞かれても、わたしは最早、首を横に振るだけだ。みんなと同じように、わたしも怖かった。リョウちゃんが外へ出ていて、また、あの日のことが起こるんじゃないかって。
ある日、コータが、意を決してリョウちゃん本人に聞いた。その日、先生は、お昼は帰れないといって食事を用意していった。実際、先生は夜まで帰ってこなかったけれど、わたしたちはびくびくしていたのだ。いつ先生が戻ってきて、リョウちゃんと鉢合わせするとも限らないと。
コータに非難されて、リョウちゃんは平気な顔で応えた。校内にいたよ。
嘘つけ、また外に出てたんだろ、もういい加減にしろよとコータはなじった。リョウちゃんは落ち着いていて、まったく穏やかで、ちょっとだけ困ったように眉尻を下げた。
本当だよ。中にいたよ。
リョウちゃんが静かだったので、わたしも、オミも、コータに同調できなかった。コータ自身さえ、リョウちゃんに釣られたようだった。興奮して、立ち上がっていたのに、急にすとんと腰を落として黙々と食事を始めた。
わたしは、馬鹿みたいに、口を開けてリョウちゃんを見ていた。リョウちゃんはちらっとわたしを見て、すぐお皿に目をやり、コータと同じに食べ始めた。その日は、四人とも、異様に静かに昼食を済ませた。
次の日だっただろうか。
先生が出かけた後、ふらりと教室を出たリョウちゃんの背中を、わたしは追いかけた。
室内のコータもオミも、当のリョウちゃんも、わたしの行動に気づいていた。その上で、二人はわたしをつけなかったし、リョウちゃんは巻いたり追い払ったりしなかった。二階の廊下をゆっくりと移動して、東校舎を通り、南校舎に入ってさらに進んだ。
南校舎の廊下は、北向きの窓の弱い明かりが差し込み、昼中でも薄暗い。
その時間は、ちょうど、おひさまが東から南へ向かう途中だったに違いない。長い廊下はいつも以上に暗くて、窓から見える北校舎の、遠くの一角だけが、黄色にきらきら光っていた。
リョウちゃんはためらいなく、足取りを変えず、どんどん先へ行く。わたしはほとんど小走りになって、リョウちゃんを見失うまいとする。廊下はまっすぐで、見通しもよく、物陰なんかちっともないはずなのに、わたしは必死だった。廊下の暗さに、リョウちゃんの影が、溶けていくような予感がしていた。
その姿が窓のない部分に踏み入る。急に、輪郭がぼやけ、存在がおぼつかなくなって、わたしは叫んだ。リョウちゃん。
リョウちゃんは足を止めなかった。壁だけの区画を過ぎると、階段前のホールの、少し離れた窓から、一層、弱い光が差していた。リョウちゃんの足下が、白く浮かび上がって見える。
まっすぐの廊下の突き当たり。
一枚だけのドアの、嵌め込みガラスの黒い四角の前で、リョウちゃんはこちら向きに立った。
リョウちゃんの頭のてっぺんが、黒いガラスの下の辺を隠している。
午前の暗がりで、ガラスの黒と黒髪で、境目なんて滲みそうなものだ。なのに、わたしははっきりと、リョウちゃんの髪を認識できた。
髪の毛の一筋まで、くっきりと見分けることができた。
そのくらい、ガラスの黒と、リョウちゃんは別のものだった。
教えてあげるよ。
リョウちゃんが言った。
特別に、教えてあげる。
微笑んで、こちらに半ば背を向けた。
リョウちゃん、と、わたしは思わず呼んだ。おかしな話だけれど、リョウちゃんがいつ消えるかとはらはらしていた。
わたしの心配は杞憂で、空想みたいな思い過ごしで、リョウちゃんは振り返ってドアノブを掴んだだけだった。
くるりとノブを捻って、ドアが奥へ開いた。
わたしは口をあんぐり開けた。
ドアが開いた。それだけなのに。
それだけのことが、驚天動地だった。
大げさなんかじゃない。
ドアは開かないものだ。
使われない教室は、すべて入れないのだ。
リョウちゃんは敷居をまたぎ、あちら側に足を置き、こちらをかえりみた。
わたしの常識を、風が塵を払うのより簡単に、遥か後ろへ吹き飛ばして。
暗い部屋の中で、白い手を持ち上げ、こちらへ手招きした。
――夢のような魔法の手。
そのとき、世界が変わった。
その真っ暗な小部屋は、暗室というらしい。写真の現像に使うのだと、リョウちゃんが教えてくれた。
ドアのガラスが真っ黒なのは、内側にかかった黒いカーテンのせいだった。ドアだけじゃなく、他の何もない壁や、続き部屋の手前にも、黒い、長いカーテンがうっすら埃を纏ってぶら下がっていた。
暗闇の中で、リョウちゃんは、小さい、真っ赤な明かりを灯した。
作業台だろうか、流しと一続きの棚の上で、銀色の金属が赤い光を反射していた。
それが何か、わたしが言葉もなく注視していると、リョウちゃんが気づいた。
これ、何だと思う。
リョウちゃんがそれを摘んで掲げた。わたしは答えた。鍵。
どこの鍵。
ここの鍵?
真っ赤な闇の中で、リョウちゃんが微笑む気配がする。
当たり。だけど足りない。
赤く、暗く照らされて、黒い影を落とすリョウちゃんの顔面を、わたしはじっと見つめる。穴が開くくらいに。
それだけ見つめても、リョウちゃんの表情が、気持ちが、読み取れない。
リョウちゃんは手の中の鍵を、するりとどこかにしまってしまった。
ここの鍵でもあるし、どこの鍵でもある。
そう言う。意味がわからなくて、わたしはただただリョウちゃんを見る。
この校内の、どこでも開くんだ。この鍵で。
リョウちゃんは台の下の引き出しを開ける。中には、鋏や、黒いテカテカした幅の広いテープ、それに、ビー玉、コイン、ボールペン、何かのリモコンみたいなものやら、とにかく雑多なものが、整頓もされず散らばっている。
リョウちゃんが何か黒っぽい物を取り出し、台に乗せた。何かわかる間もなく、それがこっちに向かって飛び跳ねたので、わたしは肝を潰した。
くすくすとリョウちゃんは笑う。意地悪な笑い方じゃなかった。どっちかというと、呆れたような。それも、わたしにじゃなく自分に対して、愛想が尽きたような笑いだった。
闇の中で判別できたのは、それがおもちゃで、蛙の形をしていて、細い、丈夫そうな紐が付いているということ。それが飛び跳ねてきたからか、その形のせいか、わたしはその玩具が一瞬で嫌いになった。いま思えば、本当の原因は、リョウちゃんの笑い声を聞いたからだ。
リョウちゃんはそのとき、わたしに向かって笑っているのじゃなかった。
リョウちゃんにそんな笑い方をさせるソレが、わたしは許せなかった。
リョウちゃんの赤い手が、おもちゃを戻し、引き出しを閉めた。
何も言わない。何を言おうか、わたしも迷った。
暗い横顔は、わたしが隣にいることなんて、忘れてるんじゃないかと思えた。
ごめんね。ぽつりとリョウちゃんが言う。
わたしは頭を振った。
くだらない。なおもリョウちゃんが零す。わたしはぶるぶると首を振る。
元気づけたくて、明るくなってほしくて、とにかく、何か言おうと思った。
すごいね。
最悪の言葉だ。
慌てて別のことを付け加えても、もう、何も取り返せない。
あんなの、見たことない。一杯あった。他のは何。全部独りで集めたの。こんな所に入れるなんて、全然、わからなかった。
……ユウだよ。
いつの間にか、二人一緒に床に座って、狭い部屋の中で、壁を背にしていた。
え、と、わたしは、阿呆みたいに声を漏らした。
あれを集めたのも、どこでも出入りしてたのも、あの鍵も、この部屋も。
リョウちゃんは淡々と言う。
全部、独りでやったのも。
わたしは混乱した。
リョウちゃんが何を言っているのか、よくわからなかった。
ユウ。……夕?
聞きたかったけれど、何をどう聞けばいいのか。問いただすより早く、リョウちゃんが話し始めた。
こないだ、ユウの誕生日だったでしょ。それで、思い出したの。ユウがこの部屋に出入りしてたこと。
この部屋だけじゃなかったけど。視聴覚室とか、音楽室とか、宿直室だって勝手に入ってた。久野がいない隙にさ。久野も気づかないんだもんね。外で、ユウが色々隠してるのを見てたから。財布の方に気づいて、それでおしまい。ユウもやるよね。
五月になって、リョウちゃんが調べたら、夕が出入りしていた場所の中で、この部屋だけは鍵が掛かっていなかった。
暗室は、教室や、給食室、宿直室から遠く離れている。南校舎の二階で、お風呂場と同じフロアだけれど、北校舎のほぼ全部の部屋の窓からは死角になる。引き戸でなく、ドアだから、他のどの教室よりも静かに出入りできる。
そして、誰も、用事がない。
リョウちゃんが以前見かけたときも、夕はこの部屋には、鍵を使わずに入っていたという。
リョウちゃんは闇の中で鍵を取り出し、弄んだ。どこから出したのか、見極めかねたけれど、靴の中から出てきたようだった。
もしかしてと思ったら……。
途中で言うのをやめて、リョウちゃんは静かに笑った。
ふふ、ふふ、と、しばらくひっそりと笑っていた。
鍵を両手のひらに挟んで、隠すように握って、突然、わたしを見た。
ねえ、これは秘密ね。誰にも言っちゃだめだよ。
満面の笑顔で、怖くなんかないはずなのに、目を逸らしたら殺されるような気がした。
ユウはさ、わかってたんだよね。
ひょいとリョウちゃんは立ち上がり、さっきの引き出しを開け、中の品々を楽しそうに眺める。
気づかれてるってこと。久野が気づいてないことも。だから、わざと置いてったんだよね。
リモコンや、ボールペンなんかを、汚いものでも触るみたいに摘み上げては、そっと元の位置に戻す。動作の割に、音がほとんどしない。
闇に吸い込まれたみたいに。
それなのに、声だけが、狭い室内にこだまして聞こえる。
つまんない、こんな、どうしようもない物ばかり集めて。何をしてたと思う?
出て行ったって無駄だよ。久野が何をしてたって、ユウはとっくに気づいてた。わかってたんだから。共犯だよ。
やらされてたんじゃない。自分でやってたんだ。あの財布の通りにさ。
ユウは、離れられないよ。戻ってくる。出て行けるわけがない。
これはさ、預かるだけ。かえってくるまで。
――ねぇ、音楽室で、アコーディオンを弾いたことある?
ユウが弾いてたんだ。壊れた、音が出ないのを使って……一緒に弾こう。
行こう。
リョウちゃんに手を掴まれ、わたしは赤い闇を脱け出した。
暗室から見るまっすぐな廊下は、もう以前とは、全然違うものだった。
それから、リョウちゃんは、先生と外へ出るようになった。
連れて行かれるのじゃない。進んで、自分から、ついていくようになった。
みんなは、わたしたちは、いや、おそらく、先生でさえ、唖然としていた。でも、わたしたちには、リョウちゃんを止める術はなかった。なぜって、先生が、リョウちゃんを止めようとしなかったのだから。
そう、あの時期。あの期間、先生は、リョウちゃんの言うことを聞いていたのだ。
リョウちゃんは、無理強いなんかしていない。先生にも、誰にも。ただおっとりとそこにいて、たまに、恥じらうようにちょっとばかり首をすくめるだけだった。それで十分で、それが最高で、他の誰にも真似できなかった。先生も、例外ではない。
リョウちゃんは、朝、先生の出掛けに、ごく自然に助手席に乗り込む。中庭で先生が車に乗るのを、廊下辺りから見ていれば、先生が運転席から手を伸ばし、隣のドアを開けてやることもある。リョウちゃんは無言で駆けていって、席に収まり、ドアを内側から閉める。それをするリョウちゃんを、一連の光景を、わたしたちは遠く離れたところから見守っている。
オミは、健気にも、まだ先生へのアプローチを続けていたけれど、効果がないのは自明だった。オミが何度、外出をせがんでも、何にもならない。リョウちゃんは、一度だって、先生に強請ったことがない。媚びたり、諂ったり、哀願したり、騙したりしていない。先生がリョウちゃんを連れていくのであって、リョウちゃんが先生に連れていかれるわけじゃない。
あのとき、リョウちゃんは何をしてたのだろう。
いつでもわたしは置いていかれる側で、リョウちゃんは、外でのことは、ほとんど何も話さなかった。
リョウちゃんとの内緒の話は、音楽室や、職員室でこっそりしていたけれど、わたしが何度外のことを聞いても、大抵、はぐらかされた。
ユウの行った場所に、行ってる。
一度だけ、ほんの、たった一度だけ、リョウちゃんはそう漏らした。
夕を探してるの、と聞くと、ゆるゆると否定した。
探す必要なんてない。だって、戻ってくるもの。
じゃあ、なんで。
そうしないと、先生の整理がつかないでしょ。
無表情で、遠い目をして、ぽつんと言った。リョウちゃんは、真っ暗な深い穴みたいな眼をしていた。
わたしは身を縮めて――怖ろしくて。何も言わずにいると、瞬間的に、リョウちゃんは笑顔でわたしを見た。
これ、と言って、わたしに何かの包みをくれた。
小さな、四角い、平たい包みが、手のひらでがさついて、少し痛かった。
さすがに、もう何も、残ってなくてさ。
包みの透明なカバーの中には、薄青色のドーナツ型のラムネみたいなものが入っている。
トローチ。風邪引いたとき、舐めるんだけどね。
あげる、と声が聞こえて、わたしは大きく何回も頷いた。
リョウちゃんは微かに口の片端を吊り上げる。
それで、わたしは納得した。
リョウちゃんは、夕と同じことをしているのだ。
夕の代わりに、先生の、手伝いをしているのだ。
だって、夕は、やらされてたんじゃない。自分で、やってたんだから。
リョウちゃんがそうしていることは、じき、みんなの共通認識になった。わたしは当然だけれど、コータも、リョウちゃんに楯突いたりしなかったし、オミも、リョウちゃんに対しては、決して異を唱えなかった。先生には言っても、だ。
先生への不満をこぼしても、リョウちゃんに逆らおうとする者はいなかった。
そうして、リョウちゃんは、地位を確立した。
先生を意のままにし、誰の不平も等しく霧散させて、わたしたちの、みんなの上に君臨した。
穏やかで、幸福な期間だった。
先生は、日を追うごとに、徐々におとなしくなっていった。まるで牙を抜かれた虎みたいに。
リョウちゃんが夕の代わりをして、夕のいない空虚を補っているからだと、当時は愚昧にも信じていたけれど、先生は実際、夕がいた頃は、もっと強く、活気に満ちていた。喜怒哀楽の起伏があった。それが、いまや、ほとんど平坦なまで、なまやさしくなってしまった。
先生が怒らなくなったことで、わたしたちは安心できた。先生が外へ行くときも、夕を捜すため、血眼になるわけじゃない。リョウちゃんが一緒に行って、二人とも、もしくはどっちか、きちんと何か品物を手に入れて帰ってくる。行く時間は朝か昼過ぎか、まちまちだけど、夕飯の支度に間に合わないということはない。午前中に出かけるときも、昼には必ず、帰ってきて、みんなでとはいかなくても、学校で昼食を摂っている。
先生にそうさせているのは、リョウちゃんだ。
それはみんな、ちゃんと解っていた。
リョウちゃんが一緒に行くのだから、もう先生が怒ることはない。
わたしたちの暮らしは、少しずつ変わってきた。以前は、先生が外から持ってくる物といえば、お米や、豆類、野菜が主だった。夕はそれ以上の何も持ち込まなかった(あの個人的なおもちゃを除いては)。ところが、いまは、小麦製品、乳製品、果物、木の実なんかが運び込まれてくる。クルミや、ブルーベリー、干しイチジク、トチ餅、マカロニ、チーズなどなど。それらは全部、リョウちゃんが、わたしたちに齎しているものなのだ。
リョウちゃんの働きは、絶大だった。
わたしたちは、やさしい、頼りになる保護者と、豊かな食事と物資を得た。
オミは諦めきれていないようだったけど、わたしは、既に、夕がいなくなってくれることを願っていた。
夕が、戻ろうと戻るまいと、当面、わたしたちには関係がない。だって、いまの方が、よっぽど、平和で、快適で、うまくいっている。
このままでいい。これで十分だ。
みんなの記憶が風化して、ずっと遠くへ飛んでいってしまうといい。
先生が、立ち直るまでは……これは、リョウちゃんが言ってたんだっけ。
夕が再び現れない限り、いや、たとえもう一度やってきても、リョウちゃんの立場は不動だ。リョウちゃんが、わたしたち全員の、憧れと、嫉妬と、羨望と、信頼を集めている限り、この天国みたいな日々は永遠だ。
そのはずだった。
そう信じて、祈っていたのに、その期間はあまりにも短かった。
五月の下旬に入ってすぐ、先生は、夕の持ち物を校内から一掃した。
教室では、机やロッカーの中の物。男子の部屋では、衣類や布団一式。給食室からは箸や茶碗までもが、一切合財、綺麗さっぱり片付けられた。撤去された物がどこへ行ったのか、リョウちゃんは知っているようでもあったけれど、わたしは知らない。知りたくもない。リョウちゃんは、夕が帰ってくると信じていたから、荷物が一つも残らないのは困るんじゃないかと思ったけど、少なくとも見た目上は、先生の整理整頓を嫌がる様子はなかった。
突然、痕跡が消されたことで、みんな呆気にとられていた。勿論、誰一人、抵抗しようとはしなかった。夕がいないのが、もう、みんな自然になっていたのだ。みんなが驚いたのは、先生のその撤収の、執拗なまでの完璧さである。
本当に、一欠片も、微塵も残さないくらい、念入りに先生は全てをなくしてしまった。それこそ、思い出ごと、燃やして灰にでもしようとするみたいに。わたしたちは、そんな先生に、それぞれ、何か異常なものを感じ取っていた。その行動が、先生の、夕への執着の深さを改めて露見させたようなものである。
その頃、先生が何に備えていたのか、わたしはちっとも気づかなかった。先生は相変わらず、よく出かけていた。独りで行く日も度々あったけど、やっぱり、大体はリョウちゃんも一緒だった。
午前の終わりや夕方ごろ、先生は中庭に車を停める。運転席から降り、独りのときもあれば、リョウちゃんがいるときは二人で、荷台や後部座席から品物を運び出す。それは、シャンプーやタオルのような、細かい物もあれば、敷布団のような大きい物もあって、後者は当然、目についた。教室の窓や、中庭の入り口から、わたしはよくそれを見かけていた。
夕の荷物と入れ替わりに、新しい道具類が、次々と運び込まれていた。なのに、わたしは、何にも考えちゃいなかったのだ。何となく、最近は食べ物より物が多いな、なんて、馬鹿みたいに思っているだけだった。
本当に、なんて馬鹿だったんだろう。
リョウちゃんは、少しずつ、だけど確実に、変化していた。
初めに気がついたのは、先生が、よく喋るようになったとこだった。
萎れた、脱力したような弱々しい優しさが、ちょっとずつ、目減りし始めた。反動で、声に覇気が戻り、表情も変わるようになった。完全に、以前に返るというわけじゃない。言ってみれば、過去の威勢を模倣して虚勢を張っているようだった。けど、まぁ、強さは強さだ。本物でも紛い物でも。先生は少なくとも、本気で、贋物を本当にしようとしている様子だった。
決定的だと感じたのは、多分、みんなバラバラだったと思う。でも、みんな、そう日を空けずに確信したはずだ。役割の交替を。わたしがはっきり違和感を覚えたのは、昼食の席で、みんなに、うどんの椀が行き渡ったときだった。
その日もいつもの如く、リョウちゃんと先生が調理をし、配膳までしていた。わたしたちはテーブルを囲んで、食事の開始をじっと待っていた。うどんも、学校で、この面子で暮らし始めてからは、珍しい料理だった。
リョウちゃんが選んできたのだろう。だからみんな、当たり前に、リョウちゃんが説明すると思っていた。干しイチジクや、ブルーベリー、マカロニのときは、必ずリョウちゃんが一言二言、解説をしていたから。どこで入手したとか、丁度、誰かと交換できたとか。
それが、その日その言葉は、別の口から出てきたのだ。
リョウちゃんは沈黙を守り、あるべきタイミングで先生が言った。
うどんなんて、久しぶりだろう。四国から来たっていう小父さんが譲ってくれてな。
リョウちゃんは、目を伏しがちにして、慎ましくそれを聞いていた。
何の冗談か、天変地異か。わたしはリョウちゃんを咄嗟に見た。目は合わなかった。リョウちゃんは、先生とほぼ同時に、でも、ちょっとだけ遅く、自分の席についた。先生が喋っている間、興味がないようでも、かといってでしゃばるでもなく、控えめにその隣にいた。
その違和感は、でも、既に何度かあったのだ。
今に始まったことではない。
ということは、それは、わたしの気のせいじゃないのだ。リョウちゃんの機嫌や体調のせいでも、何かの偶然でもないのだ。
リョウちゃんが地位を退いたのだ。
疑いようのない、それは、事実だった。
それまで、リョウちゃんが話していたことを、リョウちゃん自身が、先生の口から語らせた。わたしたちがリョウちゃんへ投げかけた問いを、先生に答えさせた。リョウちゃんへ宛てた言葉は、瞬く間に先生の知るところとなって、リョウちゃん本人の手元には一つも残らなかった。
そうして、万事、全ての場面でそれを実行した。
ほとんど泣きたいくらいの、それは、悲劇だった。
リョウちゃんが自力で獲得したもの。みんなのあらゆる感情、一身に集めた期待を、リョウちゃん自ら、先生に移し変えたのだ。
コータも、オミも、あのとき感じていたのは、ただ失望というほかないのだ。わたしは、わたしでさえ、リョウちゃんのその方策には、落胆を禁じえなかった。あの頃、それでも、二人だけのときの秘密の話は、誰にも漏れることがなかった。それが、わたしの、リョウちゃんへの信頼感を持ちこたえさせてくれていた。
リョウちゃんのやり方は、徹底していた。わたしたちがどんなに足掻いても、無駄だった。先生のいないとき、リョウちゃんと二人きりのとき、子どもだけ集まったとき。どの場合、どんな風に話しかけても、リョウちゃんは明確な返事をくれない。それは常に、時間が経ってから、先生の口で語られるのである。
それが、先生の口から出ただけの、リョウちゃんの返答なのか、リョウちゃんの意思とは関係ない先生個人の意見なのか、わたしたちはあっという間に判らなくなってしまった。
わたしたちの言葉が、リョウちゃんに受け容れられなかっただけじゃない。
リョウちゃんの言葉が、わたしたちに向けられることがなくなったのである。
見捨てられたのだ。わたしたちの気分は、それだった。いままでの行き届いた保護とは雲泥の差の、手酷い放棄だった。
コータとオミは実にあっけなく、リョウちゃんの支持を取りやめた。リョウちゃん独りに話すつもりで、先生にまで知られてしまうくらいなら、最初から先生に打ち明ける方がましだった。先生が、たとえ、つい先日、何を仕出かしていたとしても。
急激に、先生は、大人だという理由だけで、この校内のトップに返り咲いた。過去の威光、もう取り返しのつかない土台と、リョウちゃんの借り物の政策をその身に纏わせて、わたしたちみんなが、張りぼての偶像を造り出した。折から虚勢を張りたがっていた先生は、わたしたちの支援を進んで受け入れた。
それこそ、リョウちゃんの思うままだった。
何も知らないわたしたちは(先生さえ、本当に知っていたのかどうか)、リョウちゃんに頼るのを諦め、先生をリョウちゃんの代わりにして、善しとしようとしていた。先生はさらに朗らかになり、快活さすら見せるようになった。
五月の終わりの、晴れ渡った空が、中庭をまぶしく照らして教室が暗く感じられた日。
重大な話がある、と、黒板の前に立って、先生が真面目くさって宣った。
みんな、席には着いていたけど、あまり真剣じゃなかった。教壇のその人が、押せば倒れる大道具だと判っていたからだ。
でも、リョウちゃんは真顔だった。椅子に腰掛けて、姿勢を正して。おとなしいのはいつもだったけど、微動だにせず先生に注目していた。
じき、先生が口火を切った。
急な話だけど、六月一日から、先生がもう一人来ます。
何を言ったのか、わたしには、よく呑み込めなかった。口を開けて、それっきり、しばらく声の発生源を眺めた。
大道具のはずの先生が、さらに続ける。
女の先生です。
わたしはなおも、ぽかんとしていた。周りを見る余裕もなかった。けど、コータも、オミも、似たり寄ったりだったんじゃないかと思う。だって、そのくらい、突然だった。
そのとき、稲妻のように、わたしの脳裏に中庭の映像がフラッシュバックした。
運び込まれた布団。
撤去された荷物。
そっと、わたしはリョウちゃんの顔を窺った。
リョウちゃんは、正面に据えていた視線を、すっとこちらへくれた。逸らさなかった。
わたしは、理解した。
リョウちゃんはこれを予期していたのだ。
先生に整理をつけさせる。
リョウちゃんは先に知っていた。聞いていたんだ。先生から。
新しい大人が来る。
リョウちゃんが、この集団の一番でいるわけにはいかない。リョウちゃんが中心なのは、きっと、外から来る人には、理由の要ることだ。
痕跡は残っていない。最早、わたしたちの生活圏から、夕の存在は抹消されている。
リョウちゃんさえ中心にいなければ、誰も、その前任者がいたことに気づかない。
夕のことは、もう、誰も話したがらない。忘れたがってすらいるだろう。夕がいない今の方が快適で、夕なんていなかった方がうまくいくだなんて、そんな思考に自分が堪えられない。
何より、夕の存在は、折角造った「先生」を壊してしまう。
何もかも、リョウちゃんの考え通りに進んでいたのだ。
先生は、結局、リョウちゃんの傀儡に過ぎない。先生だけじゃない。みんな、糸で操られている。わたしだって、半分は。
わたしは呆然としていた。
あのとき、あの場で、そこまで考えられたはずもない。
でも、あの時期に、リョウちゃんがしたことは、結果的には、そういうことだったんだ。
崇拝も幻滅も、一如、リョウちゃんの計算の内。
土砂崩れに呑まれたみたいな、楽園の最期だった。




