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17/24

vii




 亮治を教室までかえすのが、ひと苦労だった。清心のいうことなどとどかず、清心自身、かける言葉を持たなかった。しばらく泣くにまかせ、泣きつかれたころ、昆陽太(こやた)が背中をたたいてなだめた。小声の、あやすような声掛けの中に、


「あれがユウなわけないだろ。馬鹿だな」

と、困ったように、怒ったようにいうのがききとれた。


 シャッターの内側から直接、西側の廊下をつたって教室へ入った。亮治は何もいわず、顔をうつむけ、ときおりしゃくりあげては肩を()ねさせた。廊下から教室まで、ずっと桜が手をつないでいた。(みな)が席につくのを、清心はみとどけたが、どうにも、いたたまらなかった。

 教室の戸口で、昆陽太がいった。


「清心先生、あっち行ってて」


 ――(いな)をとなえるどんな理由も、思いつかなかった。


 保健室に戻り、窓辺の椅子に腰をおろした。机にむかい、つくろうつもりだったシーツを取りあげたが、針はすすまない。

 中庭へ駆け出したとき、半端にあけたままのカーテンの向こうで、姿のみえない日が動き、光がゆるやかに色味をおびていく。

 狭い箱庭。

 (おり)のようだ、と思う。

 南校舎の灰色の影。とざされた窓のうちの暗い廊下。


 当て布の位置をきめようと、何度も手もとをみるが、視線は上滑りしてしまう。

 今日中につくろわなくては……(いや)、代えがあるから、当分は間にあうか。

 布と中庭を交互にみるのを、くりかえす。階上の教室からは、何の物音もきこえてこない。こんなことは珍しい。


 どのくらいそうしていたのだろう。

 中庭に車が入ってきた。

 帰ってきたのだ。清心はこころもち緊張したが、真っ先に迎える勇気も、度胸もなかった。

 気づくと、日射しはさらに西へうつっている。上の子たちはどうしているだろう。久野に留守をまかされておいて、これでは先生失格だが、何といえばあの子らのそばにいることができたのだろう。

 どうしたら、いまからでも、そばに行けるだろう。

 途方にくれて、清心は悄然(しょうぜん)と、陰のうつろう中庭をながめた。


 いつしか、背後に小さな物音がし、ほとんど注意をはらわずにいると、間もなくたしかなノックの音がきこえた。

 ふりむくと、知利処(ちりか)が立っていた。

 敷居の向こうに爪先をそろえ、開きっ放しの戸に片手でふれている。

 清心が座したまま、何もいわずにいると、無表情で小首をかしげた。


「犬、捨ててきたよ」


 紙屑(かみくず)を、少し離れた屑かごに放るような、シンプルないいかただった。

 きっと綺麗な抛物線(ほうぶつせん)をえがく。

 よりによって、なんて仕事をさせたのだろう。

 清心は口をひらき、涙腺が不安になって、咄嗟(とっさ)に目をふせた。


「そう」


 あわてて顔をあげる。


「ありがとう……御免ね」


 知利処はちょっと眉をひそめ、視線をそらした。


「わたしはいいから、亮治に言ってあげて」


 そうか、その通りだ。なぜかははっきりわからないが、亮治をひどく傷つけた。

 知利処は一層、目線を外して、廊下の方をみやっている。


「そうね。そうするわ。御免」

「別に」


 顔をしかめ、首をふって、知利処はこちらへ横顔を向けた。


「じゃぁ」


 するりと戸口を離れ、きえた。

 足音はとても軽い。きこえないくらいで、ただ靴底が床を(こす)る音がかろうじてわかる。


「行くよ、みぃ」


 《みぃ》?


 遠い知利処の声を、耳がひろった。

 ききなれないというより、初めてきく呼び名に、清心はふと興味をそそられた。

 腰をうかせ、戸口まであるく。廊下へ顔を出す。

 知利処の姿はすでにない。だが、誰かが廊下の角にいた。

 壁の切れ目に(かかと)の端が、一瞬みえたかどうか。

 それが知利処のものか、ほかのなにがしのものか、みわける暇もなかった。


「清心先生」


 後ろから呼ばれて、清心はおどろいてかえりみた。

 西へのびる廊下の真ん中に、昆陽太が立っている。


「昆陽太……亮治は?」

「あいつなら、信乃(しの)と一緒にいる」


 あきれはてたように、昆陽太はゆるゆると(かぶり)をふった。


()っとくしかないよ」


 昆陽太がそういうなら、そうなのだろう。清心がいま謝ろうとしても、何もつたわらないにちがいない。


「そう。そうね」


 信乃と一緒なら、もう信乃にまかせるしかないのだ。


 清心は室内の時計をみる。そろそろ夕飯の支度をしなくてはいけない。食事くらいは、できるかぎり、どんなときでも()るべきである。

 昆陽太は廊下にじっと立っている。それから、顔をしかめて首をかしげた。

 知利処と同じ動作だなという思いが、ちらりと脳裏をよぎった。


(みんな)、わかってるよ。犬なんか飼えるわけないんだ」


 清心は目をみひらいた。


「あいつがわがままなんだ。清心先生が、悪いんじゃないよ」


 いらだつように、くちびるをとがらせて、昆陽太は途切れ途切れに話す。

 その言葉と(いら)ちが、どこから生じるものか、清心には我が事のようにわかるようである。


 気遣(きづか)ってくれているのだ。

 清心は目をほそめ、知らず()らず、立て続けに(まばた)きをした。


「ううん。ありがとう。でも、わたしも悪いのよ」

「悪くないよ。亮治がおかしいんだ」

「そんなことないわ」


 なんて言葉だ。

 覚えてしまったものは、使わなければ、つかいかたもまなべないけれど。

 だれもおかしくなどない。

 皆、とっくに、おかしいのかもしれないのだ。

 手招きすると、昆陽太はすぐ近寄ってきた。その肩に右手をのせ、清心は(わず)かに身をかがめた。

 本当にしゃがんでしまえば、おそらく昆陽太のプライドを傷つける。

 目の高さは、清心のほうがまだ高い。顔と顔は、いつもよりずっと近くなった。

 清心は真剣に、言葉をさがして、告げた。


「たしかに、動物を飼うのは難しいわ。でも、わたしは、亮治に説明しなかった。どうして、犬を飼えないのか。どうして、触っちゃいけないか」


 それが、あやまちだ。頭ごなしに(しか)ったのだ。


「そんなの、常識だよ。皆わかってるんだ」

「そうね」


 そうかもしれない。

 亮治も、わかっている。


「でも、名前を呼んでた。飼いたかったんでしょう」


 目の前で、自分をみあげる昆陽太の顔色が、みるみる変わった。


「あれがおかしいんだ! 帰ってくるわけないっ、帰るわけないのに……!」


 清心はつい身をひいた。背中が戸口の柱にぶつかる。昆陽太は息を荒くし、足もとに目をおとしている。

 この子が相手をみようとしないなんて、滅多にないことだ。


「おかしいんだよ、なんで……あんな、犬……絶対、変だ」


 全身をこわばらせ、ぶるぶるとふるえている。怒りとは、(にわか)に判断できない、何か、強い感情によって。

 全体、()()()は何なのか。

 それをきくのは、かなり困難そうにみえた。

 清心は柱から背を起こし、とうとう完全にしゃがんで、片膝をついて昆陽太の顔をのぞきこんだ。


「昆陽太。ありがとう」


 口を一文字にひきむすび、昆陽太は清心をまっすぐみる。いつもの、いつも以上の強い眼差(まなざ)しで。


「わかったわ。わたしが悪くないって、言ってくれて、ほんとにほっとしたわ。本当よ」


 異常な力のこもった左のこぶしを手にとり、両手で包んで、清心はかるく握る。

 熱を与えるように。

 鼓動を(なら)すように。

 くちびるが動いたが、昆陽太はまだ口をきかない。目だけで何かを(うった)える。

 精一杯、誠実に、清心はそれを受けとめ、かえす。


 ごまかしではない。いいくるめようとしているのではない。そのことが、少しでも通じるように。

 悪くないといってくれたのは、嬉しかった。でも、悪くないからといって、正しかったということにはならない。

 ふるえのおさまらないこぶしを、清心は思わず強く握る。

 昆陽太の強張(こわば)りが、やや変わった。

 眼差しが力を弱め、不安そうにゆれる。

 きいてくれそうだ。

 そう思えた。

 清心はまっすぐ昆陽太の目をみた。


「わたしは悪くない。昆陽太が言ってくれるなら、そうだわ。でも、正しいとも限らない。だって、亮治だって、悪くないもの。そうじゃない?」


 昆陽太は清心をみかえす。

 《ユウ》。

 その、清心のしらぬ名を、昆陽太も特別の感情をこめて呼んだのだ。


「亮治の気持ちも、わかるのね」


 目がみはられ、(うるお)って、たちまちふせられた。

 清心はその反応を、(あわ)れむような、さびしいような気持ちでみまもる。

 清心にはわからない事情があるのだ。

 こぶしを(おお)う手の力を抜き、そっと、何度かなでる。

 深く(こうべ)()れて、昆陽太は決して(おもて)をみせない。


 強い子だ。

 心から、そう思う。

 昆陽太は強い。強くあろうとしている。

 その意思が、ゆるがないのだ。

 清心としては、常にそうあれというつもりはない。そうあることを()いて求めることもしないが、そうあろうとする昆陽太の威勢は、清心には心強い。

 たのんでいいのだ。

 まもっていいのだ。

 その自尊心が、秩序をたもつためのものなら、大いに。

 はぐくまれるべきである。


 昆陽太から目線を外し、夕食の準備に行ってもいいかと切り出すと、昆陽太は黙って頷いた。

 手を離し、乱暴に目元を(ぬぐ)って、顔をそむけた。


「御飯までに、亮治と信乃、つれてきてくれる?」


 立ち上がって問うと、黄昏(たそがれ)の廊下に出て、昆陽太の後ろ頭が応えた。わかったと。

 教室へ向かう後姿を、薄闇に紛れるまで、清心は廊下の端からみおくった。






 昼間の給湯室で、清心は風呂場の掃除をしている。

 野良犬の一件から、はや十日。そのあいだ、亮治は清心と接するにも、ほとんど以前と同じまでに戻ったし、誰一人、あの名を何かの意味をこめて口に(のぼ)せることはなかった。騒ぎの当日こそ、夕食の席は沈鬱(ちんうつ)そのものだったけれども。


 風呂場に改造された給湯室は、壁や床に青のビニールシートが()りめぐらされている。風呂といっても、実際、湯沸かし器に水温調節弁がついたものに、シャワーをくくりつけたようなものがあるだけだ。床に置かれた小さなバスタブは、主として排水の便をはかったもので、大人一人が()かるにはせせこましい。それでも、生きる分には事足りている。


 換気扇は昼夜、まわりつづけている。東、南向きの窓は厳重に目隠しと防水がほどこされ、真昼でも薄暗い。つかわないときは戸を開放し、中庭に面する廊下の窓をあけて風を通しているが、湿気がこもりやすいのは如何(いかん)ともしがたい。まめに手入れをしないと、カビが生えたり、戸がくさったり、天井や床の建材が(いた)みそうである。


 シャワーカーテンを外して、廊下の窓へつるし、陰干しにした。脱衣所床面のシートをはがして風を入れ、浴室部分の水カビをおとした。洗剤の量も質も豊かでないから、できるかぎり手でこすった。

 どんなに大雑把にすませても、()一時間はかかるのだ。

 念入りな清掃は後回しである。簡単にでも水気をはらい、風を当て、目につく汚れをきよめるのが優先だ。


 水拭きを終え、(から)拭きを始めようとしたところで、何やらいつもより暗いと感じた。

 みまわすと、入り口に影がある。

 作業に没頭していたので、気がつかなかった。

 知利処が立って、こちらをみていた。中庭からの光が(さえぎ)られている。


「手伝おうか」


 清心はまたたき、首を横にふった。乾拭きがすめば、残るは復旧だけである。


「大丈夫。ありがとう。もうすぐ終わるのよ」

「そう」


 口先で(うなず)いて、知利処は敷居をまたぎ、脱衣所の中にとどまる。

 清心は仕事に戻ろうとし、手を動かして、とめた。

 濡れてもいない雑巾をしぼろうとしていた。

 戸口をみやると、こちら向きに、知利処は柱に寄りかかっている。


 ……犬を捨てるとき、知利処は指名を受けたのだ。


 きくには覚悟が要る。

 清心は呼吸に気をつけ、口をひらいた。


「知利処」


 知利処が目をあげた。


「きいていい?」


 辺りをふたたびみまわし、乾拭きの始点をきめてから、清心は知利処をかえりみた。

 なにと、小さな声で、知利処の返りがあった。


「ユウって、誰?」


 反応は、(にぶ)いといえるくらい、薄かった。

 昆陽太のそれのめざましさとは対照的である。

 質問がきこえなかったか、理解されていないのではないかと清心が心配しかけたとき、知利処が答えた。


「昔、いたの。五年生の男子。先生がくる前に、いなくなったけど」


 話しだすと、知利処はおもむろに両膝を曲げた。背と腰を柱に預け、かがみこんで、そろえた膝の上に両腕を置いた。


「わたしのふたつ上の歳だった。そのころは、先生と桜がいない代わりに、ユウを入れて、六人でくらしてたの。そのころにはもう、ほかの皆はいなくなってた。

 久野先生が一生懸命、面倒をみて、わたしとユウが手伝って……。

 名字が富田(とみた)だったから、トミーって呼んで、亮治は特になついてたわ」


 清心は壁をふく手をとめた。

 そんなことは、ついぞきいたためしがなかった。


「だから亮治は、久野先生をトミーとは呼ばない。呼ぶのは信乃と桜、たまにつられた昆陽太くらい」


 続きをまったが、知利処はくちびるをとじ、思いを()せるように遠くをみつめている。

 清心は壁のなかばをすませ、雑巾をたたみなおして、また問うた。


「どうして、いなくなったの?」


 そこに輝かしい将来を夢みる余地が、はたしてあるのか。問うている清心自身、ほとんどあきらめざるをえない。


 知利処は清心をみず、あらぬ方へ視線をうつした。


「さあ。嫌になったんじゃない、ここが」


 会話が途切れた。清心はしばらく掃除に専念しようと心がけた。

 浴室部分の壁面を終え、浴槽にとりかかる。

 知利処はまだすぐそこにいる。話を嫌がる(ふう)はない。

 ――富田夕。

 その名の男児が、教育実習中、いた気がする。

 ほかならぬこの学校で、清心はその課程を(おさ)めたのだから。


「いつ、いなくなったの?」


 清心はさらにきいた。


「去年の四月。そう、だから、六年生になってたんだわ。わたしが四年生になってすぐ」


 清心のきた、ふたつき前である。

 知利処のふたつ年上で、久野を手伝っていたということは、その子も外と内を行き来していたのだろう。おそらく、少なからず、皆の心の支えとなっていたにちがいない。

 その子の帰りを亮治はまっていた。

 それが、あんな形で(あらわ)れたのだ。


「夕はね、逃げたのよ。この学校から」


 吐き捨てるようなひとことが、空耳のような(はかな)さできえうせた。

 清心は顔をあげかけ、なぜか、思いとどまってしまった。

 どういう意味だろう。

 わからないが、ききかえす決心がつかない。

 目の前の仕事に夢中になろうとつとめる。

 からの湯船をふくあいだ、会話はついになかった。

 給湯室時代の名残の台所へ行き、雑巾をしぼり、床拭きに戻る。不意に、知利処が声のトーンを変えた。


「わたしもきいていい?」


 清心はふりむいた。まっすぐな視線にかち合って、少々、面食らった。


 いいよと応じる。一体、何をきかれるのだろう。


「地球の自転が段々遅くなってるって、本当?」


 いよいよびっくりして、清心はもう一度、知利処をみなおした。


「久野先生が言ってたの。先生、国語が専門だけど、理科もわかるんでしょ?」


 頷く。ここで頷かなければ、小学校教諭(きょうゆ)の免状など嘘である。

 慌てて、普段すっかり眠っている記憶をゆりおこす。

 大学よりも、高校地学の知識のほうが思い出しやすい。たしかな知識なのかといえば、こころもとないが。

 地学、とりわけ天文が、清心は好きだった。

 星の軌道、銀河の生滅(しょうめつ)、太陽系。地球の組成、地下の構造、地震や火山のしくみ。風と水、熱の流れ、月との関係、(しお)の満ち()。物理の才能がないのが、(くや)しかったものである。


 知利処も興味があるのだ。

 そんな話を交わしているのだ。

 そう思うと、嬉しくなった。


「本当よ」


 我ながら過剰に思えるくらい、きっぱりと、清心はいった。

 思いだすととまらない。


「地球はね、表面が気体と液体でしょう。海と雲、風、つまり大気ね。内側に地面と海があって、その外側を大気が覆っている。それで自転を続けているわけ。

 月みたいに表面が硬ければ、ずっと回転していても速さはあまり遅くならないわ。でも、外側がやわらかくて動くものだと、回転の速さは段々、遅くなるの。外側のやわらかい部分が、中心と同じ速さで回転できないから。


 もしかしたら、地球は地下もやわらかいから、それでより遅くなるのかもしれない。地面の深いところは、すごく温度の高い、ドロドロの液体だから。卵の回転と一緒で、同じ理屈が働くのかもしれないわ。

 調べてみないとはっきりわからないけど、地球の自転は段々、遅くなっていて、だから、一日の時間も少しずつ長くなっていると言われている。

 一日の時間は、本当は二十四時間じゃなくて、二十三時間五十六分と少しだというのは、しっている?」


 顔をあげて応えをまつと、知利処は首をふった。

 (たて)にである。

 清心は頷いた。


「本来、二十三時間五十六分くらいの一日を、二十四時間きっかりとしてかぞえる。そうすると、当然、日に四分未満の誤差が生じる。

 それで出た誤差を、四年に一回のうるう年で、いまの(こよみ)は調整しているの。グレコリオ暦、まあ、太陽暦ね、これほどよくできた暦はなくて、誤差をほぼ完全にリセットして、一年を四季の通りにくりかえせる。

 でも、一日の時間が少しずつ長くなっていることについては、グリニッジが調整していると言われてる。グリニッジ天文台が、世界の標準時刻の基準だから。たとえば一日が一秒長くなったら、遅れた分をこっそりすすめている。

 だから、それこそ何世紀単位で、時刻も暦も合わなくなっていくんだろうね」


 事実かどうか、確約できない話を長々としているうちに、床の乾拭きは終わってしまった。

 あとは掃除用具をかたづけ、カーテンとシートを張って、原状(げんじょう)復帰である。


 立ち上がろうとした矢先、知利処がすっくと立った。

 先を越された気分で、清心はその動きをみまもる。

 知利処は何かいいたそうに、口をひらきかけ、そのままややのあいだ、沈黙する。

 清心はじっとまつ。

 やがてぽつりと言葉をこぼし、(きびす)をかえして、知利処は出ていった。


「清心先生。わたし、そういう話、もっと聴きたかったよ」


 その言い回しがひっかかり、清心は咄嗟に返事をしそびれた。


 言葉の(あや)だろうか。

 ただすべきか、()れるべきか、きわめかねる()に知利処の姿はなくなっている。


 ……過去形でいう場面ではないはずだ。

 声は硬かったが、暗くはなかった。悲しむようでもなかった。

 知利処はまだ若い。気の遠くなるほど長い今後がまっている。

 単なる言い間違いか。

 深い意味はないのかもしれない。

 ことさら未来を求めない理由など、ないはずである。


 清心は息をころし、耳をすませる。

 せめて、足音がきこえないか。

 給湯室のみならず、廊下も、中庭も、校舎全体がしんとしている。




清心先生のぼんやり知識については

1. ソースが古い

2. 本人が聞きかじりでうろ覚えである

この2点をお含みおきください。

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