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それからいく日か、何事もない日々が続いた。清心は気がつかれはて、いままでと同じように家事をこなすのが精一杯だった。
ときおり、久野が無理をしなくていいと声をかけてくれた。食事の支度や掃除、洗濯のとき、ふと一人きりになるほんのすきまに、急に涙が出ることがあった。父のことや、その教え、みずからの意志、叔母のこと、知利処のことなどが綯い交ぜになって去来する。くやしい、悲しい、情けないのどれもがあって、どれでもないような思いもある。無理をしているのかいないのかすら、清心自身には判断が難しかった。
父が死んで七日経ち、十日が過ぎた。そのあいだ、清心は叔母に電話をかけた。
どうしても手の離せない仕事ができたから、しばらくそちらへ行けそうもない。それだけしかいわなかったが、叔母は肯いてくれた。内心はどうあれ、父のひととなりをしる数少ない人なのである。清心の仕事を真っ向から否定することなどできないのだ。
申し訳なく思い、甘えていると自覚はしていた。それでもほかに何もいえなかった。叔母は下手にとりつくろったり励ましたりせず、ただわかったといった。それだけで終えてくれたのが、かえって負担にならずにすんだ。
いまの状況で、何をすればいいのか、まったく見当がつかない。
ただ、離れてはいけない。そう判断した。
清心はその昼下がり、保健室で亮治のやぶれた寝巻きをつくろっていた。
保健室の壁には町内会が配布したカレンダーが貼られている。三ヶ月分が一枚に刷られ、三月置きに新しいものを貰ってくるのだ。そこにはゴミの集積の要領や、市の立つ日、配給の予定などが簡単にしるされている。
これをみるたび、清心は自分が町に組みこまれているという気がする。
暦は権威だ。文明の象徴だ。うろおぼえだが、そういう講義を聴いた記憶がある。
だから、多分、これを作っている町は正しい。
これを作れているうちは、大丈夫なのだろう。
日にちがかぞえられるというのは画期的なことだと思う。
そんなことを考えるともなく考えていると、突然、後ろから呼びかけられた。
「清心先生」
ふりむくと、戸口に亮治が立っていた。
駆けてきたのだろう。頬が紅潮している。それにしても足音に気がつかなかった。
「信乃と知利処が、喧嘩してる」
心なし息もはずんでいる。
否、それよりも、いわれてみると階上がさわがしい。
清心は寝巻きを置き、立ち上がった。そもそも針などほとんどすすんでいなかった。
「知利処!」
二階に駆け上がると、廊下に鋭い声がひびいてきた。昆陽太の声である。
ガタガタという物音と、短い、高い悲鳴。教室の後ろのドアが半分あいている。
中に入ると、知利処が窓辺で信乃の襟元につかみかかっていた。
「やめなさい!」
咄嗟に清心は怒号した。それから、知利処の右手に鋏が握られているのをみた。
戦慄が一瞬おくれて背筋を走る。
大股で歩み寄り、知利処の手から鋏を奪う。反対の手で信乃の肩を押しやり、二人を遠ざける。知利処をみおろすが、知利処の方は清心に目を合わせない。
「信乃、怪我は? 大丈夫?」
かえりみると、信乃は真っ青になり、身をすくめて小刻みにふるえていた。軽い引っかき傷などはありそうだが、とりあえず出血も大きな打撲もない。そうみてとって、清心はふたたび知利処に向きなおる。
「知利処は? 怪我はない? 一体どうしたの?」
顔をそむけ、窓の辺りをにらんでいた知利処は、つと踵をかえして教室を駆け去った。
「知利処!」
呼んでも遅かった。清心は戸口に駆け戻ったが、知利処の姿はあっという間に廊下の果てへきえた。
あれではどこへ逃げたかわからない。
相手は知利処である。さがし出すのは容易ではないだろう。
自棄をおこして、外など出なければいいが。
ぞっとした隙に、清心の横を小さな影がすりぬけていった。
信乃である。
信乃の後姿が、正確に、知利処の去った方を目指して遠のいていく。
「信乃!」
応えはない。ふりかえらず、走る速さも鈍らない。
寸刻まえの知利処と同じく、廊下の果てまで達してきえた。
清心はそれを呆然とみおくった。
――何がどうしたのだろう?
廊下から教室の内へ視線をうつす。昆陽太と桜、亮治がそれぞれ、列の乱れた机の合間に立ちつくしてこちらをみている。
何かいわなければいけないなと、思った。
「何があったの?」
きえた二人を追いかけ、さがすべきかどうかは、事情を聴かなければわからない。
現時点で清心には何もわからない。知利処が信乃につかみかかっていて、亮治がそれを喧嘩と呼び、清心に調停をたのんだ。それだけしか。
顔を険しくし、まだ興奮冷めやらぬ体で、昆陽太が答えた。
「最初は口喧嘩だったんだ。ていっても、知利処が一人で怒鳴って、鋏を教卓のとこから取って信乃をつかんだんだ。信乃は怖がってただけだよ」
亮治へ目をやると、不安げに昆陽太をみつめている。途中で清心を呼びにきたから、その分、詳しくしらないのである。
清心は昆陽太をみて問う。
「何で知利処は怒ったの? わかる?」
「しらない。カリカリしてんだ、最近。だからってやりすぎだよ。信乃がかわいそうだ」
もしかすると、清心の気づかないところで、ほかにも何かあったのかもしれない。昆陽太はかなり腹を立てているようである。
知利処が《最近カリカリしている》理由なら、清心には思い当たらないでもない。口に出すわけにはいかないし、説明しても昆陽太が納得できるとは限らない問題なのだが。
清心は手の中の工作用鋏をみた。
なるほど、教卓の引き出しにしまってあるものである。
知利処はいつもの窓際の席から、わざわざ教卓まで行ってこれを取り出したらしい。
窓辺の二人の席をみると、ノートと下敷き、鉛筆、定規などが散らばっている。
怒りにまかせて手に取ったなら、手近のもので事足りたはずだった。
「どうして鋏なのかしら」
独り言のように漏らして、清心は三人をみまわした。
「知利処は何か言ってた? 何て言って怒ってた?」
「何って、ゆるさないとか」
「うん、ほかには?」
かがんで目の高さを合わせる。昆陽太は視線をそらせた。
「ほかには……いきなり怒鳴りだしたから」
「喧嘩になる前、何の話をしてたか、きいてない?」
亮治にも水を向けるが、まどわせるばかりである。
きいていなくとも無理はないのだ。知利処と信乃は、どこでも大抵二人きりであそんでいるから。
「僕、みてたよ」
高い声が応じた。
桜である。
清心の眼前で、昆陽太がぱっと後ろをふりむいた。
「桜」
「信乃がね、髪をのばすっていったんだ。そしたら知利処が怒って、信乃をたたいて、信乃が泣いちゃった」
「髪を?」
清心はくりかえした。
信乃が髪をのばすというのが、知利処の気に障ったのか。
それで鋏か。
「知利処は、信乃の髪を切ろうとしたの?」
桜はこてんと首をかしげた。よくわからないという身振りだった。
しかし辻褄は合う。
経緯をしり、清心は思わず眉をひそめた。
追った方がいいだろうか。
知利処の怒りの理由はわからないが、わからないだけに、根が深そうだという気がする。
信乃はみずから知利処を追っていった。信乃なら、知利処の行き先に心当たりがあるだろう。
もともと二人は仲がいいのだ。誰も割りこめないくらい。
仲直りをしにいった可能性は高い。
楽観的に判断すれば、知利処は一度、勢いを殺されている。自発的に出ていったのだし、本来、暴力を嫌う子でもある。信乃が穏やかに働きかければ、事なきをうるに違いない。
それに、曲がりなりにも誰かと一緒なら、知利処自身の悪い事態もふせげるかもしれない。
他方、一時の興奮がさめても、怒りが根深ければ仲直りは難しそうである。
知利処が暴力以外の攻撃をしないとは保証できない。つまり、知利処自身が暴力とみなさない行為であれば、実現する恐れがある。
仲のいい二人が、二人きりのとき、常に正しい判断をするとは限らない。
たとえば、信乃がみずから髪を切るという方法で、仲直りをすることも考えられるのだ。
その親密さからかえって、異常な行為におよばなければいいけれど。
「わかった。ありがとう。昆陽太も。亮治も、呼びにきてくれてありがとうね」
二人にしておくべきではないかもしれない。
身を立てなおすと、亮治が心配そうにみあげてきた。
「先生……」
清心は意識して、安心させるようにほほえむ。
「さがしてみるわ。信乃と知利処を。悪いけど、皆、机と椅子なおしておいて」
昆陽太によろしくと声をかける。素直に頷くのをみとめて、清心は教室を出た。
はて、女子二人の行き先はどこだろう。
とりあえず、ほかに鋏がありそうな場所を確認しておくべきだろう。
給食室、保健室、被服、調理室、それに図書室。特に図書室は、知利処の馴染みの場所である。
それから私室と体育館、北、東校舎のすべて、南校舎。もはや鋏は関係ないが、階段や屋上への出口も、念のため。
結局は、みつかるまで校内全部をまわる必要がある。
さらなる手遅れを生まぬよう、清心は祈りながら廊下をすすむ。
久野から提案があったのは、次の市の前日だった。
「明日、知利処をつれていこうと思うんだけど、どうかな」
給食室で食事の下準備をしていた清心は、手をとめて久野をみつめた。
久野は入り口近くの壁に背をもたせて立っている。午前中の室内は、東からの日差しを磨りガラスにすかして明るい。
清心はあけようとしていた白菜漬の樽に、一旦、蓋をした。
よく気をつけなければ、応えられない話題だと感じたからである。
「清心先生さえ、よければ」
久野は清心を《先生》付きで呼んだ。清心はこころもち、姿勢をただした。
漬物樽に蓋をしておいてよかったと思う。作業しながら答えられる問いではない。
知利処を外へつれていくと、久野はいっているのである。
知利処が信乃と喧嘩し、おそらく髪を切ろうとまでした事件は、あのあと何事もなく収束した。
清心は校舎の北、東、西の三方をまわり、それでも二人をみつけられなかったが、夕食前に教室に戻っていた二人は、ほとんど以前と同じままだった。態度に僅かな喧嘩の名残こそあれ、清心があやぶんだような外見上の変化はなかった。
それが二、三日前のことである。
その一件をのぞいては、表立った出来事はない。
知利処一人の件の加害者について、何の情報もないままなのだ。
久野が何を思ってその提案をしたのか、たしかめる必要がありそうである。
「知利処を、外へですか?」
「うん」
「市へ?」
「そう。気分転換になると思うんだ。ここんとこ気が張り詰めてるし、ほかの皆にも影響してる。ずっとこの中で、何か目新しいことが起こる予定もない。本人が、辛いんじゃないかな」
理由をきいて、清心は緊張がほぐれるのを感じた。
清心の懸念とはまったく別の動機である。
そうだ、相手は久野なのだ。
疑るべき人ではない。
二人の喧嘩について、久野にはその日、報告した。清心のみていないあいだ、久野は児童たちをみているし、知利処の失調が目につかないわけはない。
知利処の信頼もある。久野の方が、適切な対処ができる場合もある。
清心がするべきなのは、久野をたすけることである。
ささえ、足場を固め、死角をまもることである。
「知利処には、きいてみたんですか?」
「ん、うん。実は知利処が行きたいって言い出したんだ。何かみたいものがあるみたい。もともと、ちょっと前までは、ときどきつれていってたからね」
あぁ、そうかと清心は思う。清心がくる前のことである。
そのころは市の日取りも会場もしっかりしていなくて、車と荷の番のために年長の子をつれていっていたと、きいたことがある。
その点でも、この一年ほど、窮屈な思いをしていたかもしれない。
知利処の気が晴れるならば、賛成だ。
ある程度の分別はついているから、危険は自分で察し、回避できるだろう。
心配ではあるが、清心まで一緒に出かけるわけにはいかない。久野と、知利処まで出かけるなら、留守番は清心が担わなくてはならない。
せめて久野から離れないようにと、いってきかせることしかできない。いうまでもないことかもしれない。
「……わかりました。そういうことなら、お願いします」
気がかりなのは、加害者のことである。
いつ、どこで、誰に出くわすともしれない。
視線を感じて目をやると、久野は壁から身を離し、真剣な顔で清心をみていた。
またさとられている。
そう思うが、不思議と不安はない。
緊張は生まれなかった。
久野の賢明なことが、万能なことではないと、気づいたからだろう。
清心は静かな気持ちで久野をみまもった。多分、時間にすれば、ほんの二、三秒のことだった。
これほど落ち着いて久野の視線を受けとめられたことは、かつてなかった。
久野は間違いなく、清心にないものを持っている。それがうらやましくないといえば嘘である。
それがなぜ久野にそなわっていて、自分にないのか。生まれついたものでないとしたら、どうすれば身につけられるのか。
しりたいし、焦がれている。もし答えがないのなら、その理由こそ。
それでも、久野の持っていない何かを、おそらく清心は持っている。
はっきりいえないが、それがわかったからだろう。
そしてそれは確かなことなのだ。
久野はおもむろに口をひらく。
「気をつけるよ、十分。万が一、犯人が近くにいることも考える。万が一よりも確率は高いか。とにかく、知利処のそばから離れない」
はいと清心は肯んずる。誓いはやはり清心の恐れをみぬいている。
「離さないし、周りにも気をつける。なるべく、できる範囲でだけど」
いったことはやぶらない人だ。
それを己の枷にしてしまいかねない人だ。
何も、そこまでしなくていい。
みずからを傷つける言葉なら、発しなくていい。
「わかりました。留守はまかせてください。くれぐれも気をつけるように、知利処にも言っておきます」
わざと大口をたたき、冗談めかして清心はほほえんだ。久野は目をしばたかせ、かすかな笑みをかえした。
「ありがとう。知利処にも伝えておくよ。清心さんは、何かほしいものはある?」
「あぁ、そろそろお醤油が切れそうなので、それと……ほかは、あとでメモをお渡しします」
「うん、よろしく。じゃぁ俺、しばらく教室にいるよ」
久野は扉をひらいて出ていった。アルミの扉が閉められてなお、清心はしばらくそれをみていた。
ふと気がつき、調理台の上の漬物樽に向きなおる。
蓋をはずしながら、考える。
知利処がみたいものとは、何だろう。
食品か。衣類や、装飾品、それとも外の景色か。これといった想像がつかないのが、知利処との間遠さの証拠と思える。
久野ならわかるのかもしれない。
それくらい、少なくとも知利処の方は、近しくあろうとしている。そんな感触がある。
先の久野への報告を思い出して、清心はかたく目を瞑った。
ひどいことをしたのだ。
久野はおそらく何もいっていない。知利処に対して、以前と変わらず接してくれている。
だから知利処も安心できるだろう。久野をたより、これまでどおり、素直に甘えることができている。
その実、久野は、しっているのだ。
知利処がしったら、どんなにかショックだろう。
その状況をつくったのは、紛れもなく自分なのである。
うんざりする。
吐き気がしそうだ。
何も、いつでも正しいことができるとは、思っていないけれど。
正しくあろうとする意志すら、うしなっていいわけがない。
加害者が――久野は犯人と呼んでいた――つかまったところで、どうなるだろう。知利処の不安は解消されるだろうか。
傷は癒えない。恐怖はきえないだろう。それでもせめて、さらなる身の危険からは、遠ざかることができる。
苦痛がくりかえされるのに、歯止めをかけることができる。
それだけが名分だ。
それだけの意義である。
あやまちをおかした身で、決して捨ててはならない、ほんの僅かの。
……必ずまもらなくてはならない。
久野を、知利処を、ほかの子たちも。
思い込みは有用だ。
過信も、はったりも出任せも、ときには役に立つ。
それがどんなに身にそぐわず、馬鹿げているとしても。
希望をなくしてはいけない。




