離れても、帰るから
小さな丘を越えると視界が開け、山の麓に農村が見えた。木造の家が点在しており、それぞれ周りには小さな畑と果樹園。そして村の周囲には山羊に似た家畜が放牧され、草を食んでいる。
「ここだな」
ヴァレオさんはつぶやくと、ミゾラムさんを呼んだ。
「ミゾラム、ここがルドルー村だ。お前の母親が住んでいる場所だそうだ」
「はい」
すでにまとめた荷物を背に負い、ミゾラムさんは淡々と返事をすると、鎧獣人の隊列の方を向いた。
「皆さん、お世話になりました。道中のご無事をお祈りしています」
「そんなに急いで別れなくても。とりあえず、本当に母上がいらっしゃるか確認しよう。それと、塩とかチーズは手に入るかな?」
グラーユさんが出てきて、ヴァレオさんに並んだ。
「鍛冶の仕事を引き受ける代わりに、必要な物が手に入ればいいなと思うんだけど」
「行ってみよう。すず、皆と待ってろ」
ヴァレオさんは私を残してソルティバターの鞍から降りると、グラーユさんミゾラムさんと一緒に村の方に歩いて行った。
見ていると、一軒の家の畑で何かしていた女性が、顔を上げてこちらを見た。
ぱっ、と頭の被り物を取ったその女性……黒い髪。女性はヴァレオさんたちに――ミゾラムさんに駆け寄った。ヴァレオさんが何か説明するような身振りをする。
あの女の人が、ミゾラムさんのお母さんかな。良かった。
私はほっとした気分でそれを見届けると、ソルティバターから降りた。そして他の皆と一緒に、村の近くの泉で野営の準備を始めた。
旅に必要なものをもらう代わりに、金属製品を譲ったり修理を請け負ったりすることになった鎧獣人たちは、明るいうちに作業に入った。カンカン、ゴンゴンと賑やかな音をBGMに、壊れた農機具やお鍋なんかが直って行く。
やがて空が暗くなってくると、いつの間にか村の人たちと鎧獣人たちが大きな焚火を囲んで、それぞれの料理を持ち寄って宴会が始まった。ルドルー村はあまり人が訪れない場所なのだそうで、旅人が珍しくて嬉しいらしい。
しかも、ミゾラムさんはここで育って、それから精霊使いの修行に旅立ってしまったそうだから、そんな彼が戻って来て嬉しいのだろう。たとえ、何かが起こって記憶を失ってしまっていても。
ミゾラムさんのお母さんは、黒髪に少し白髪の交じった初老の女性。親子でよく似ている。そんな彼女は、何度も鎧獣人たちにお礼を言いながら、心づくしの料理を勧めてくれていた。
ヴァレオさんは、私から見て焚火の反対側にいた。村の男性たちに、鍛冶道具の使い方を質問されているらしい。たき火に照らされた無精ひげの横顔が、真剣に何かを説明したり、誰かの言葉に応えて笑ったりする。
ヴァレオさんが頼りにされていると、何だか嬉しいな。
……「夫」だから?
いやいやいやいや、そんなそんな。ふう。はあ。
意味もなくため息を二回ついて、干しあんずのような果物をかじりながら視線をささっと移す。
ミゾラムさんのお母さんが笑顔で、食事中のミゾラムさんに何か話しかけている。その様子を見ていたら、日本の家族を思いだして切ない気分になった。
赤い精霊石、ヴァレオさんが持ったままだけど、そろそろ石の精霊さん復活したかなぁ。そしたら、私……
ふと、ミゾラムさんの銀の瞳と、視線が合った。
ミゾラムさんがお母さんに何か言って、立ち上がった。こっちに来る。
「すずさん」
声をかけられた。ミゾラムさんの黒髪が、たき火に照らされて艶やかだ。
「少し、二人で話をしても? あのあたりで」
彼が指さしたのは、泉の反対側。離れてはいるけれど、皆からはこちらの様子がかろうじて見えると思う。
「あ、はい」
私は立ち上がると、こちらをちらりと見たヴァレオさんに焚火越しに手を振った。
そして、ミゾラムさんと並んで歩きだした。
泉を回り込むまで、ミゾラムさんは黙っていた。
「良かったですね、お母さんと会えて。四年ぶりだそうですね」
話しかけてみる。ミゾラムさんはうなずいたけれど、わずかに苦笑した。
「まあ……僕は、覚えていないんですけどね。この村を」
「でも、さっき、えーとシンリャの実? 割ってましたよね」
私は思い出して言う。胡桃のような、でもやや大きくて胡桃ほどまでは固くない実だ。
「このあたりでしか取れなくて、割るのにちょっとコツがいるんだって、村の人が言ってました。でもミゾラムさんは自然に割ってたから……きっと、身体が覚えてたんですね。頭では覚えてなくても、ミゾラムさんの中のあちこちに、記憶は眠ってるんですよね、きっと」
……なんて、前にヴァレオさんが言ってたことの受け売りに近いなぁ。
そう思っていると、ミゾラムさんは少し黙った後で、言った。
「すずさんは、僕の過去について、話しませんね。短い間だったそうですが、僕と過ごした時の話を」
私は、どう答えていいか戸惑って、口をつぐんでしまった。
ミゾラムさんはそんな私の様子を見てから、目を伏せた。
「忘れる、というのは、怖いことです……。ヴァレオさんはハッキリ言いませんが、僕がこうなったのは、何か失敗したからだと思います」
淡々と話しているミゾラムさんだけど、語尾が少し、震えた。
「正しいことをやろうとして失敗したのか、悪いことをやろうとしたそのことが失敗だったのか、それもわからない。僕は何も、過去から学べない。それは、同じ過ちを繰り返す可能性があるということ。今、僕は大人としてこうしてあなたと会話していますが、もし同じ失敗をしたら、もっとひどいことになるかもしれない。全てを忘れ、精神だけが赤ん坊に戻ってしまうかも。とても、怖いです」
……何て、答えたらいいんだろう。
私は一生懸命考えて、それから言った。
「私は、あなたについて、ヴァレオさんほどじゃないとは思いますけど近いくらい、事情を知っている……と思います」
ミゾラムさんが、はっ、と顔を上げる。
「でも……ごめんなさい、私はその事情を、あなたに話すことができない、です」
私はうつむいた。
ミゾラムさんは、ミゾラムさんの信念の元で行動して、誰よりも強くなろうとして失敗した。私はミゾラムさんをよく知らないから、もし強くなる手段があることをミゾラムさんが再び知ったら、同じ行動に出ないとも限らない、と思ってしまう。
そんな手段があることを彼に教えるのは、『私の』信念として、できないことだ。
そして同時に、こうも思う。私は口を開いた。
「ミゾラムさんが抱えていたものは、とても、重いものだっただろうと思うから。私がまたそれをミゾラムさんに背負わせるようなことは、どうしても、できません。勝手にそんな風に思ってごめんなさい、私が決めることじゃないのかもしれない。でも、ミゾラムさんが忘れてしまって良かった、なんて、思っちゃうんです……」
ミゾラムさんは、しばらく黙っていた。
それから、うっすらと微笑んだ。
「僕とすずさんは、ある程度は会話をする仲だった、みたいですね」
「えっ……はい」
「だからかな。すずさんが、僕に優しいように感じるのは」
目を見開くと、ミゾラムさんは目を逸らしたまま続けた。
「僕に重荷を背負わせたくないと思ってくれるような人が、かつて僕の側にいた……と考えるだけで、少しホッとするんです。もし違ってても言わないで下さい、僕に勘違いさせたままでいて下さい。こんな失敗をもうしないで、生きていくために」
そして、彼はちらりと私を見ると、
「ヴァレオさんが、羨ましいな。でも、ヴァレオさんにも感謝しています。……お幸せに」
とぽつりとつぶやいて、焚火の方へ戻って行った。
「み、ミゾラムさんも、お元気で!」
私は立ちつくしたままそう言って、後ろ姿を見送った。
――幸せに。幸せになってね、ミゾラムさん。
がばっ、と後ろから抱きすくめられて、私は短い悲鳴を上げた。
「ひゃあ! び、びっくりした、ヴァレオさん!?」
「お前は……お前ってやつはどれだけ俺に心配をかければ」
私の首筋に顔をうずめ、もどかしげな調子で言ったヴァレオさんは、盛大なため息をついてから私を抱き上げた。片腕に座らせるようにして、歩きながら私を見つめる。
「違うってミゾラムに言っちまえよ。お前のためを思って言わないんじゃねぇ、お前に余計なことしゃべって同じことされたら困ると思ってるだけだって」
「そんなこと……! わざわざ傷つけるようなこと、言いたくないよっ」
「いいじゃねぇか。ミゾラムのそばには少なくとも、あいつを母親の元へ連れて行ってやろうと思うくらいにはあいつを心配している、鎧獣人がいたんだからよ。お前まで優しくするこたねぇ」
ヴァレオさんは鼻を鳴らし、どっかりと倒木の上に腰を下ろして言った。
「余計な男を近づけんな」
私は何と答えていいかわからず、口をパクパクさせていたけれど――
ヴァレオさんが、私とミゾラムさんの仲をいつぞやのように心配していることはわかった。また喧嘩するのは嫌だ、安心させないと。
私は膝に乗せられたまま、ヴァレオさんの盛り上がった肩をぽんぽんと叩いた。
「あのね、もう心配する必要、ないんじゃなかった? 私はもう、ヴァレオさんとミゾラムさんに同等に接しようとか、気にしなくていいんだし。ミゾラムさんと話をすることはあっても、その何倍も、ヴァレオさんと話していいんだし……」
「んなこたぁ関係ねぇ。あいつがお前を見るだけでムカつく」
ちょっとちょっと。
「ミゾラムさんは、自分の目的のために私に接触してただけじゃない。で、その目的を忘れちゃったってことは、もう私に近づく必要は、ない……ってことじゃない?」
どうにか説得しようとするのに、ヴァレオさんは頑なな返事をする。
「わかるもんか、あいつが実際はすずをどう思ってたかなんて。それに頭は忘れても、身体が覚えていたらどうする。無意識にお前を視線で追うとか。くそムカつく」
……だめだこりゃ。
まあ、こういうのも何だけど、ミゾラムさんとはこの村でお別れ。出発してしまえば、ヴァレオさんのイライラも収まるだろう。
私は頭を、ヴァレオさんの肩にもたせかけた。数日にわたるソルティバターの旅で、ヴァレオさんの腕の間にいるのにも慣れた気がする。
ふと、思った。私がもし、記憶を失っても……
「もし、俺が記憶を失っても」
聞こえた声に、私は心を読まれたのかと思って仰天し、顔を上げた。ヴァレオさんが私を見つめている。
「ソルティに一人で乗ったら、変だな、何か足りねぇな、って思うだろうな。たぶん」
顔が熱くなるのを感じながら、私はぼそぼそと言った。
「……今、同じこと、考えてた」
「あ?」
「もし、私が記憶を失っても、こうやってヴァレオさんに抱っこされたら、「ん?」って思うのかなって。何だかここ、居心地がいいぞ、って」
ヴァレオさんは、私を見つめたまましばらく黙っていた。
そして――
急に私を自分の隣に座らせると、がばっ、と覆いかぶさるようにしてキスをして……キスをして……キ……ちょっとっ、何回するんですか!?
顔を逸らそうとしたら、ヴァレオさんをますます追いかけたい気分にさせてしまったらしい。何度も食べるような勢いでキスされた私は、呼吸のタイミングがうまく行かなくて気が遠くなりかけた。
「ん、あ? すず!? ちょ、白目!? 大丈夫かっ」
ぶはー。一瞬お花畑が見えた……
呼吸を整える私をヴァレオさんはしばらく見つめていたけど、やがて胸元の合わせのところから小さな袋を取り出した。
「ほら。石」
「え」
受け取った私は、巾着の形だった袋を開いて中身を手のひらに出す。
私の、赤い精霊石だった。
「ヴァレオさん……?」
戸惑って見上げると、
「そろそろ、家族に会いたいだろうと思ってよ」
ヴァレオさんが嫌々といった表情で言い、そして続けた。
「……すずは聞きにくくて聞かなかったんだろうが、いい機会だから俺の両親の話をしておく」
私はドキッとした。
そう、ヴァレオさんは集落でも家族と会っている様子がなくて、ご両親は……? と思ってたんだ。でも、何か事情があるのかもしれないと思ったら聞けなかった。
「話ったって、すぐ終わるがな。……父親は、俺がガキの頃に戦争で死んだ。母親は、五年ほど前に病気で死んだ。兄弟もいない俺には、しばらく家族がいなかった。すずと婚姻を結んで、久しぶりに家族ができたことになるな」
ヴァレオさんは淡々と言うと、ちょっとため息をついて何かを切り替えてから、にっ、と笑った。
「お前が家族に会いたい気持ちはよくわかる。だから、そろそろ一度日本に帰してやる。でも、必ず俺のところに帰ってこいよ」
私は、表情を決めかねながら、ヴァレオさんを見つめ返した。
婚姻を結んだ、という言葉に、今までちっとも現実味を感じなかったのが、すとんと腑に落ちた。自分がヴァレオさんにとってどんな存在なのか、ようやくわかった。こんな私をそんな風に思ってくれてるなんて、信じられない気分だけど。
まだ、気持ちが追いつかない私も、いつかヴァレオさんをそんな風に思うときが来るのだろう。その日はすぐそこまで、来ているような気がした。
そっと両手で、ぎこちないながらも、ヴァレオさんの頬を挟む。手のひらに、チクチクする髭を感じる。
「うん……約束する。ちゃんと帰ってくるね」
私の言葉に、ヴァレオさんは「ああ」とうなずく。
頭を引き寄せられた私は、初めて、自分から目を閉じた。
その翌日、私は一度、日本に帰った。
ちゃんとミゾラムさんとお別れをさせてくれてから、精霊石を渡してくれたあたり、ヴァレオさんはなんだかんだ言いつつも優しいな、と思う。
日本の家族はもちろん心配していたけれど、今回私があちらの世界に渡った瞬間を祖父と祖母が目撃していたこともあり、家族は異世界について少しずつ理解し始めた。
その次に私があちらと日本を行き来したときには、携帯を持っていって写真を何枚か撮ってきたので、今ではさらに理解が進んでいる。
……私がすでに結婚してる、なんて話ができるのは、もう少し先だろうけど。
そして、私が鎧獣人の一行に合流するたびに、離れていた時間を埋め尽くすようにヴァレオさんが愛情表現をぶつけてくるし、他の獣人さんたちには「すずがいないとヴァレオの機嫌が悪くて困る」と苦情を言われるしで、私の方まで困り果ててしまうのだった。
ユグドマの西の国、リューエを旅する私たち。
ヴァレオさんが、長の記憶からあたりをつけた鎧獣人の故郷まで、あと、少し。
【離れても、帰るから おしまい】