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男装はいつもドキドキ襲来

 その日まで、私は結構本気で悩んでいた。


「ねえレティ、私さ……ちょっと男になろうと思うんだけど、どう思う?」

「パードゥン?」


 親友の実家アドレア公爵邸での昼下がりの午後だった。





 レティシアに男装を頼まれてした一件以来、私は時々じゃなく頻繁に男装するようになった。

 それもこれも、以前にも増してレティシアがお茶会や夜会に招待されるようになったからだ。専属護衛エドウィンは忙しい。


「お願いエマ、今回もまたエドウィンとして一緒に来てほしいの」

「はいはーいお安い御用だよ」


 昼下がりの午後の少し手前、公爵家に招かれて絵になる窓辺の小円卓でレティシアと二人でのティータイム中、そうお願いされた私は今回もまた二つ返事で承諾した。

 だってここで出される最高級茶葉の紅茶は美味しいし、ここのコックお手製の焼き菓子も絶品なんだもん。食べた分はきっちり働くよ。


 美味いもの > 男装の面倒


 まあ私の脳内じゃ上記のような図式が成り立っている。

 レティシアってば、頼み事があるとこうやって接待してくるようになった。今日も確信を抱いて待っていたら案の定。

 お洒落で流行りのお菓子だったり公爵家お抱えコックの美味しい手料理だったりが食べられるし、そもそも私としても頼まれてしまえば断る理由はなかった。

 割と暇だし。

 小貴族兼社交界に顔出ししていない私にはほとんど招待状なんて送られてこないから、レティシアみたいに招待に勉学にと予定が詰まっていて日常的に忙しいなんて事がない。

 別にそこは馬術だったり剣の稽古にたっぷりと時間を費やせるからいいんだけど、師匠は昔みたいに毎日いるわけじゃないので都合に融通がきく。因みに淑女としての教養云々は一応習ったけど、家庭教師陣からはいざとなったら野生の勘で何とかなると匙を投げられていた。

 そんなわけで最近は鍛錬以外じゃ専らレティシアの趣味と、彼女が始めた嘘に付き合っていた。


「ねえレティ、だけど毎回毎回それこそお嬢様ばかりのお茶会に私が必要なの? 危険はなさそうだし、心配しなくてもちゃんと美形専属護衛がいるのはもう証明済みで、周知されたのに」


 何なら馬車で待ってようかと訊ねたら、彼女はやんわりと首を横に振った。

 シャラララーンと美しい銀髪が揺れて光の粒子を振り撒く。実際に光が出たわけじゃなくて窓からの陽光を反射しただけなんだけど、幻覚が見えるくらいに綺麗なんだよね。

 まさに誰もが思い描く理想のお姫様。


 ……かなり激しい腐令嬢って点を除けばね。


 でもそれも公になってからは着々と同志を増やしている。凄い。実は耽美な男性同士のあれやこれやを好きだってお嬢さん方は密かに結構いたみたい。

 社交界で批判されてハブられる可能性もあったから、護衛として付いていった集まりで腐仲間と腐トークで楽しそうにしている姿を見て杞憂とわかって安心した。まあ盛り上がり過ぎて令嬢皆がはあはあしちゃった時はさすがに別の意味で心配だったけど。

 一方、ベルフォード嬢はレティシアBL派の台頭を苦々しく思っているみたい。ただ、思い切り腐に傾いているのは問題じゃなく要はレティシアの取り巻きが増えるのが面白くないんだろう。


 その証拠にベルフォード嬢は会えば未だにレティシアに絡んでくる。


 因みに彼女は数少ない侯爵令嬢だ。侯爵家って実はこの国に十家もない。


 一方のレティシアはレティシアで、国でたった一つの公爵家の令嬢だったりする。


 基本的に爵位の上下は上から公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵ってなっていて、私の家も含めた大多数の貴族は爵位が伯爵位以下なのがこの国独特の階級ピラミッド比率だ。でも爵位が必ずしも上下確定ってわけでもなく、歴史の長い貴族の家は爵位に限らず一目置かれていたりもする。


 話を戻すと、ベルフォード嬢の専属護衛ジムもまだ私への弟子入り志願を諦めてなくて、顔を合わせると期待に満ちた目で突撃してくる。ベルフォード嬢の護衛を辞職してなくて良かった~。無職の責任なんて取れないから少し心配してたんだよね。

 ベルフォード嬢もベルフォード嬢で自分の専属になれってまだしつこく勧誘してくる。しかも自分からレティシアに絡んでおいて、程なく放置。私にばっかり話しかけてくるんだよ。


「セーラさんは全く以て執念深いタイプだから、エドウィンを一時的に連れているって可能性を捨てていないと思うのよ。鋭くもね。だからまだまだエドウィンは必要なの。それに……あはっ」


 レティシアはブラックな極上スマイルを浮かべて優雅に紅茶を一口。


「私を取っ掛かりにしてあなたと話したいのがバレバレだし、あわよくば自分の所に引き抜こうって魂胆が見え見えよね」

「うーん、ジムさんだけで十分なのにね」

「あら、一人でも多くの素敵な男性とお近づきになりたい、傍に置きたいと思うのは世の乙女の常じゃない」

「素敵な男性……うーん、男性か」

「エマ?」


 急に考え込むようにする私にレティシアが訝りを浮かべる。

 この際彼女に思い切って訊いてみようか。ここのところ男装する度に思っていたとある事を。

 まだ少し紅茶の入ったティーカップをテーブルに置くと、至極真面目な面持ちで指を組む。


「ねえレティ――」


 そして冒頭の台詞に続くってわけ。





 ちょっと男になろうとか急に意味不明な話をされて、レティシアは暫し困惑していた。


「エマ、熱でもあるの? それを無理して来てくれたの?」

「まさか。至って健康だよ。私が十歳くらいから今まで風邪一つ引いたことないって知ってるでしょ」

「でも……」


 まだ心配そうな顔でテーブルに身を乗り出してくる友人に私はからりと笑って返す。


「私が言いたいのは、男装時は姿変化の魔法で男になってた方が、もし万が一服を脱げって言われても対処できるかなって思ってさ」

「そんな破廉恥な事態になんてならないわよ! もしも不埒な輩がいたとしても、わたくしのエマには指一本触れされないんだから!」


 レティシアってばもう、テーブルに両方の拳を叩き付けたから紅茶がこぼれそうだ。自然と笑みが浮かぶ。


「ありがとレティ。私も不埒な輩には指一本触らせないよ。嘘んこ専属護衛だけど、レティを護りたいって気持ちだけは王宮騎士にも負けないよ」

「ありがとうエマ。でもあなたもわたくしや他の誰かにとって大事な人なんだってことを忘れないでね。自愛して。危険に身を晒すだけが護るって意味じゃないのよ。まあとにかく、わざわざ男になる魔法なんて体に負担をかけるものは必要ないわ。エマはエマのままでいいんだから」

「レティ……。嬉しい言葉をありがとう」

「ああでも男になってはだけたエマにお兄様と組んず解れつしてもらうのはありかもしれないわ。お兄様だってまずは男のエマで予行練習しておけば、本番ではきっとテンパらず冷静にリードできるはず」

「……ええとレティ?」


 ハッと我に返ったレティシアが何でもないわとパタパタと手を振って取り繕った。何でもなくない顔付きだったけど?


「えー何だか怪しいなあ。でもそれだとクラウスさんって、そうなのかな……」

「エマ?」


 今度はレティシアから疑問顔をされて、我知らず少し俯いていた私は慌てて気を取り直した。


「エマの配慮はありがたいけれど、本当にそこまでしなくても大丈夫よ。本当に万が一服を脱げなんて言われたら、きっとお兄様が黙っていないでしょうしね。お兄様ならどんな手を使ってでもエマを護ってくれるわ」

「あはは大袈裟~、彼も心配性だもんね。でも私は大丈夫だよ。並の男よか強いから」

「ええと、まあそうよねとは思うけれど、言いたいのはそう言うことではなくて……」


 レティシアは小さな溜息を落とすと控えめな眼差しを向けてくる。


「エマはお兄様のこと……ううん、エマも誰かに、それこそあなたを想ってくれる男に護ってもらいたいって思ったりはしないの?」

「う~~~んないなあ……――あ、でも師匠になら!」


 その護りの手法を間近で見れれば技を盗めるからね。レティシアは何故か愕然とした。


「くっ、まさかの年の差ダークホース……! 確かあの方はもうとっくに齢七十を超えていたわよね。経験豊富な人生の大先輩じゃないの。なのにあの体付きは絶対七十代じゃないわ。筋肉盛り盛りで物理での絶大な包容力にはどうあっても若輩者は勝てないじゃないっ。でもどうにか鍛えて頑張ってお兄様!」

「レティ……?」


 実は早口過ぎて半分以上は聞き取れなかった。

 でもレティシアは誤解してるみたい。


「レティレティ、誤解しないでよ。師匠の一挙一動の観察が修練でもあるんだって意味だから。まあでも恋愛すると仮定したら、私なら例えば対等に剣を打ち合えるようなそんな相手がいいかな。打ち合いの中で互いを理解していけそうでしょ。ほら剣筋ってその人の性格が出るって言うしさ」

「……はあ、エマは本当に剣にストイックよねえ。むしろそれって恋の相手って言うより仕事上のバディ、相棒じゃない」


 自分でもそう思う。苦笑いを浮かべたところで少し速い拍子のノックが聞こえた。


「レティ、入ってもいいか? エマが来ているって聞いたんだけど」


 この声は。


「あらあらお兄様ったらもう帰宅したの。はいはいどうぞ」


 レティシアが促すと、すぐさまドアの向こうの相手が姿を現した。


「やあ、ごきげんようエマ!」

「クラウスさん、お疲れ様です」

「ははっ、エマの顔を見たら疲れなんて吹き飛んだよ」

「それは良かったです」

「あー冗談じゃないぞ。本当にエマを見ると回復するんだって」

「……全く、お兄様ってば浮かれて顔が弛みすぎ弛みすぎ」


 入ってくるなり妹にも劣らない麗しの微笑みを浮かべるのは、レティシアの兄のクラウスさんだ。


 さらりとした彼の銀髪がいつもより乱れているし、どことなく息が弾んでいる気もするけど走ってでもきたのかな。今日私がここに来た時彼は用事で出掛けていて不在だったもの。一時的に帰ってきただけの可能性もある。


 次代の公爵たる彼は日々現公爵の補佐をしている。


 だからここ数年は小さい頃のように頻繁に一緒に過ごしたりはできなくなっていた。


 それでも初男装の日以来、時間が許す限り私とレティシアと一緒に過ごすことが多い印象かな。ここ最近は貴族の集まりに同行もするしね。


「忙しいでしょうに律儀に顔を出しに来てくれたんですよね。ありがとうございます。こっちのことは気にしないでお仕事に戻って下さいね」


 立ち上がってお辞儀をすれば、彼は「ああ座って座って」とちょっと慌てたように言って私を座らせると、一つ空いていた席にトスンと腰かけた。何故か不満そうな表情になる。


「薄情だな。エマはお茶の一杯すら付き合ってくれないのか?」

「そんなつもりはないですよ。クラウスさんの時間が大丈夫なら是非ご一緒してほしいです。ね、レティ」


 彼とはおよそ十日ぶりだったのもあってウェルカム満載に応じた私だけど、ふと見たレティシアはやけににやにやとしていた。彼女も歓迎しているのは同じなのに何かが違う。どうかしたのか訊ねようとした矢先、クラウスさんの方から咳払いが上がった。

 彼は何かを窘めるように妹をジト目で見ていたけど、何事もなかったようにして私を向く。


「エマもそう言ってくれたことだし、心置きなく休んで行こうかな」


 メイドが温かい紅茶を運んでくるまでの間、彼は口寂しさを感じたのか焼き菓子群へと手を伸ばした。


「あ、その中だと特にマドレーヌが、オレンジピールが効いててとっても美味しかったですよ」

「そうなんだ。じゃあマドレーヌにするか。エマはもう一個どう?」

「んー、そうですね、食べようかな」


 頷いて手を伸ばそうとすると、目の前にそのマドレーヌを差し出された。

 まるで餌付けのようにクラウスさんが口元まで持ってきてくれている。ふんわりとオレンジ主体の爽やかでいて甘く香ばしい香りが鼻先を擽って食欲を刺激したけど些か戸惑った。


「手は拭いたから」

「いえそこは全然気にしてないですけど、私よりも先にクラウスさんが食べないと」

「大事なお客様にご奉仕するのはこの家の者として当然だろう?」

「え、ええと……」


 困惑が大きくなる。家の格は遥かに下の私に冗談でも恭しくもそんな言葉を掛けてくる男性なんて彼くらいのものだ。今度は私が咳払いをした。


「クラウスさん、こういうことは例の意中の相手にして下さいよ。この場は三人しかいませんけど、もしもその人がいたら大きな誤解をされちゃいますからね」

「……こういうの昔はよくしていたのに、エマは冷たいなあ」

「それはそうですけど……」


 渋っていると拗ね顔の彼が今度は眉尻を下げた。


「ああ~腕が疲れてきたな~」


 さも憐れそうにする彼とは対照的にレティシアがくすくすと笑い出す。


「エマ、折角なんだし食べてあげたら? 近頃のお兄様ってこういうとこでは変に頑固でしょう。あなたが食べるまで梃でも動かないと思うわよ」


 その通りだ。先日、男装した私をクラウスさんは見事に利用して女除けを半ば成功させたわけだけど、彼は現在男を好きだと公言したも同然だった。

 そしてその事実を自ら広めようと、私の協力を得て別の集まりでも男装の私に親しげなスキンシップをしてくる。

 こっちが照れて少し控えめにって訴えても、遠慮を知らないように必要だからって譲らない。一応は「エマがどうしても嫌ならやめるけど……」ってしょげた犬みたいな顔で一度は引くんだけど、私はどうしてだか駄目だなんて言えないでいた。

 更にはベルフォード嬢とジムがいる時は私に近付かせないようにする。とは言えベルフォード嬢達もさる者で隙を見事に突いてくるんだけど。

 クラウスさんとのスキンシップは嫌じゃないし、むしろ昔に戻ったと思えば無邪気に彼の傍らを駆け回っていた頃を思い出して懐かしさだって感じる。


 でも、本音を言えばその協力関係が始まって今はちょっと躊躇いがある。


 改めて考えれば、女除け以前に意中の相手からも大きな誤解をされないだろうか。

 彼はそこを失念していると思う。


 その点だけじゃない。ある時期、始まりはいつからだったかすらわからないうちに段々と会う機会が減っていき彼と疎遠になった。レティシアとは何も変わらなかったのに。

 理由は跡取りとしての彼の多忙さだけじゃなかったように思う。


 だって本当は、目を逸らされたりと、私は彼から避けられていると感じていた。


 ただ、こっちの勝手な思い込みだったのかとそう思うくらいに今ではすっかり壁もなくなって、前よりも近い気がしている。本当に私の勘違いなのかも知れないとは思うけど、心のどこかではまだ引っ掛かっていた。


 本当に昔みたいにしてもいいのかな……。


「あ~腕が~」

「…………はあ、わ~かりましたっ」


 観念と言うかこっちから折れてやってぱくりとオレンジマドレーヌに齧り付く。体を背凭れまで戻してもぐもぐした。うんやっぱり美味しいね。


「ふっ、……可愛い」


 クラウスさんが何かを満足そうに呟いて両目を細めた。レティシアも。美形兄妹は思考回路や感性も似るのかもしれない。

 だけど、どこに笑う要素があったっけ? 


「もう、餌付けされる小動物みたいだとか思ってます?」


 飲み込んでから恨めし顔をしてやれば、クラウスさんは笑いの余韻を残したような面持ちで、自身のマドレーヌを口に運ぶところだった手を止める。


「まさか。いつ見てもエマはエマだなあと安心したとこ」

「どういう意味ですかそれは」


 半眼になる私へと彼は一口二口でマドレーヌを口の中に押し込むと、むぐむぐと咀嚼しながらこっちに少し身を乗り出した。

 指先で私の口回りにくっ付いていた菓子くずをつまむ。思わぬ世話焼きに私はぱちくりと瞬いた。知らず菓子くずを付けっぱにしていた自分に少しの羞恥も感じた。

 だけど、羞恥よりも疑問が大きくなる。身内でもない女子に大丈夫なんだろうか。


「えっと、ありがとうございます。けど……こんな風にして大丈夫なんですか?」

「何が?」

「私今は普通にドレス姿ですよ?」

「うん? そうだな、ドレス姿だ。ドレスだと何か不都合があるのか?」

「ええとだってその……」


 クラウスさんのみならずレティシアも怪訝にする。

 何で、困惑したいのはこっちだよ。彼女だってさっきちらっとそれっぽい事を臭わしていたのに。


「だって、今は男装中じゃないんですよ」


 兄妹は首を傾げて互いの麗しい顔を見合わせる。


「ですから、クラウスさんは女の格好のままの私に男装の時みたいなベタベタは気乗りしないんじゃないんですか?」

「ええと、どういう意味……?」

「どういうって、クラウスさんは――男性が好きなんですよね」

「「パードゥン?」」


 さすがは兄妹、息ピッタリだ。

 クラウスさんが目を点にして、レティシアが両手で口元を覆って肩を震わせ始める。


「男装している私じゃないのに、無理しなくていいですよ」

「は? え? ちょっと待って何それ無理って!?」


 愕然とする兄の横で、数秒のタイムラグを伴ってブフーッとレティシアが噴き出して腹を抱えて大爆笑した。彼女が紅茶を口に含んでいなくて良かったと思う。





 しばらく室内には三者三様の沈黙が訪れていた。

 私は困惑、レティシアはどうにかそれ以上の笑いを堪えようと必死で、クラウスさんは翳った顔で項垂れている。ちょうど彼の分の温かい紅茶をメイドが運んで来てくれて、幾分空気が軽くなったのは助かった。


「エマ、俺がエドウィンを好きだってのはあくまでも振りだから。意中の相手がいると言っただろう」

「え、ですからその相手が男性でしょう?」


 クラウスさんは溜息をついた。撃沈したような面持ちのままだ。


「女性だよ。まあ、その子が男でも好きになっていたとは思うけど」

「へえ、凄く好きなんですねその人が」


 彼がゆっくりと顔を上げ、次の瞬間私の目はチカチカした。


「――ああ、好きだよとっても」


 一瞬にして満面に、彼の恋慕の花が咲いていた。


 …………何だろう。


 知らない間に彼は誰かのためにこんな風に幸せを蕩けさせた顔で笑む男になっていた。

 仲良く遊んで親しく過ごしてきたのは子供時代の何でもない過去なんだと感じてしまえば、何故か心の中に一抹の不安のようなゆらゆらもやもやした感情が浮かんできて胸が締め付けられる。

 大好きな兄を取られたような気持ちになったのかもしれない。妹分としての独占欲から出たジェラシーだ。

 でもレティシアが腐友人を増やしても似たような気持ちにはならない。

 だからそこは自分でもよくわからなかった。


「そ、そうなんですね……。クラウスさんからそこまで想われているその人は、果報者です」

「……本当にそう思う?」

「はい」


 そこは素直に思ったまましかと頷けば、彼は照れたのか紅茶をイッキ飲みしようとして熱くて間抜けにも噎せた。口内火傷が酷くないといいんだけど。社交界じゃ優雅な貴公子として人気のある彼のこんな隙のある姿は他じゃ絶対に拝めない。ついでに言えばレティシアの転げるような大爆笑も。彼がこんなにも自然体なのは妹の前ってのと私が妹同然の幼馴染みだからなんだろう。……嬉しいはずなのに微かに胸の奥がチクリとした。


「ところで、エマはどうしてそんな風に思ったんだ? 俺が男を好きって。男装したエマ以外とはその……ベタベタしてないのに」

「わたくしもそこは知りたいわ」


 頓珍漢な勘違いを申し訳なく思いつつ、私は説明を少し躊躇った。

 クラウスさんが気まずい思いをするかもしれないからだ。仮に彼自身自らの嗜好に無自覚だったなら尚悪い。


「エマ、教えてくれないか?」

「エマ、わたくしも是非……ぷぷっ」


 思い出し笑いをする妹へと兄が面白くなさそうな目を向ける。

 本当にいいのかな。でも本人からも催促されたんだし話すべきだよねえ。


「えっとですね、いつも、男装の私にベタベタする時にクラウスさんの心臓が凄くドキドキしてるからです」

「……――んんんなっ!? え、ドキドキって、ききき気付いて……!?」


 彼は一瞬の空白を置いてから、盛大に狼狽して顔を思い切り真っ赤にした。


「え、だって密着してくるじゃないですか、その時にどうしたってわかるので……。不可抗力ですよ。とにかく、少年剣士な私にドキドキしてるからその理由を考えた末そうなんだって思ったわけです」

「……」

「そうじゃなかったみたいですけど、ならあれは人前で演技することへの緊張ですか? 何であれ、私クラウスさんの恋を応援しますね!」

「……」

「あ、要らないですか、私なんかの応援は」

「……応援の内容による」

「内容? えーと?」


 一旦、虫でも見つけたようにティーカップの中身をじっと見つめて無言でいた彼は、徐に顔を上げた。

 その目にはどこか真剣な光がある。

 彼のよく響く声でゆっくりと言葉が紡がれる。


「エマは、俺がその時だけだと思ってる?」

「へ?」


 言わんとしている事が掴めずに場の空気にそぐわないような声を出してしまったけど、彼は一切彼の持つ空気を緩めなかった。

 レティシアは少し驚いた顔をしたけど、空気を読んで息を潜めた。


「クラウスさん?」

「エマ、俺が男装のエマにドキドキしてるのは事実だよ。緊張も。でもそれが全部じゃない」


 クラウスさんは席を立ってすぐ傍まで来ると身を屈め、何を思ったのか私の片方の手を握って彼の心臓の上に当てさせた。


 トクントクンと掌に鼓動が伝わって、服越しなのに些か速くて強いなと思う。


 これじゃあ凄くドキドキバクバクしているみたいだ。


 って、ううん、してるんだ。思い切り早鐘を打っている。


 でも何で?


 どうしてこんな?


「ク、クラウスさん……?」


 掴まれて胸に押し当てられていた手を持ち上げられて、よりにもよって掌側に唇を埋めるようにちゅっと口付けされた。


 手の甲へする淑女への挨拶と似ていて非なる、キス。


「ククククラウスさん!?」


 ぎょっとして見やった彼の顔はどこまでも優しい男のそれだった。

 綻んで仄かに赤い。

 彼のこんな顔を初めて見た。

 それが私に向けられている。

 言葉が出てこない。


「俺はエマが目の前にいるといつでもこうだよ。知らなかっただろ」


 我知らず大きく目を見開いていた。


 それって……私起因なの?


 動悸の理由が、私?


 それってやっぱりつまり――……。


 妙な緊張がじわじわと増していく。


 クラウスさんは依然綺麗な笑みを浮かべている。


 さすがに悟った。


 彼の緊張に上がる心拍数、火照る顔、だけどそれでも頑張って笑って接してくれるその心。


 私もそういう人同士を見かけた事がある。

 彼の思いやりに感動にも似たものが込み上げる。

 そっか、薄々思っていたけど、やっぱり本当にそうだったんだ。だから疎遠にもなった。

 そう実感すると正直少し切ない。


「――クラウスさんは、実は緊張する程私が苦手だったんですね……っ」

「「……は?」」


 兄妹は揃ってボカーンと口を開けた。


「きっと私が幼馴染みでレティの仲良い友人だったから露骨にそう言えなくて、場の空気を悪くしたくなくて、ずっとにこにこしてくれてたんでしょう? 無理させてて我慢させててごめんなさい!」


 人によっては嫌いじゃないけどどことなく苦手な相手っているものだ。彼にとっては私がそうなんだと思う。でなければ変な緊張なんてしないもの。気を遣って誤魔化すように過剰なスキンシップだってしてこないと思う。


「な、何でそうなる……」


 ガクリと項垂れる彼は私に図星を指されて弁明の言葉も浮かばないのかもしれない。


「ふう、まさかエマがここまでとは……。お兄様、世の中には打てば響く鉄とは対極の所にいる人間も存在するのよ」


 一度眉間を揉んだレティシアが珍しくも慈母のような面差しを兄へと向けて小さく頷いてやっている。ええとどんな状況? しかしその目には次第に涙が薄らと滲み出してうるうる目になった。

 直後。


「ぶふーーーーッ、あーっはっはっはっ! おっお兄様……っ、お気の毒うぅ~っ、ふふふあはははははっ、はーっははははーっ!!」


 堪え切れなくなったように噴き出して、最後には椅子から滑り落ちて床上で笑い転げた。


「だっ大丈夫レティ!?」


 クラウスさんに握られていた手を振りほどいてびっくりして駆け寄れば、彼はそれすらも傷付いたような顔をした。えっとでもレティシアを放置できないでしょ。


「立てるレティ? いきなりどうしたの? 笑い出すほど具合が悪くなった?」

「ううん、少し悲嘆して涙が出ただけよ」

「悲嘆? よくわからないけど忙しくて疲れてるんだねきっと。今日はもう帰るよ。次の男装の詳しい話は追ってまたしよう、ね?」

「ええそうね」


 レティシアと一緒に立ち上がって一度クラウスさんに帰りの挨拶をと振り返る。


「クラウスさん、私は気にしないですから無理しないでいいんです。嫌いじゃないけど苦手ってありますしね。私そろそろ帰りますので……。ごきげんよう。あっ、そうだ、男装での協力は今まで通りしますから安心して下さいね!」


 わかってみれば仲良しだと思っていたのは私だけで、まるで片想いみたいでちょっぴり胸が痛かったけど、それも人生の修練だと思って気持ちをぐっと強く保った。

 形だけでも微笑んで踵を返す。

 その際レティシアはじっと何かの試金石でも見るようにクラウスさんを見つめた。


「レティ……?」


 彼女の横顔に戸惑った刹那。


「まっ……、待って待って待ってくれエマ! 誤解されたままは困るっ。俺はエマを苦手じゃないっ! 断じて苦手なんかじゃないっ!」


 まるで世界中に訴えるみたいな必死かつやけに焦った声が追ってきて、その叫び主たるクラウスさんに腕を引かれ回れ右で彼の真正面を向かされる。

 声同様彼の顔も凄く焦っていた。


「あ……そ、うなんですか?」

「ああ、これだけは絶対誤解してほしくない。苦手なわけないだろ。昔からずっとずっと俺はエマが好きなんだから!」

「好き……」


 放心気味に小さく呟けば、彼はうっかり失言でもしたように「あっ」と狼狽の声を上げた。その様が何だか可愛く見えてふふっと笑声が漏れる。

 気付いたら嬉しくて破顔していた。


「良かった……気にしないなんて言ったのに、私ってば現金です。何だかとてもすごくホッとしちゃいました。だって私もクラウスさんがずっとずっと大好きなんですもん!」

「エマも俺を好き……? え、俺明日死ぬの?」


 手品みたいに背後で大輪の花が咲き乱れたクラウスさんはごくりと唾を飲み込んで、自分の頬をつねった。夢じゃないとか呟くとそっと手を私の頬に沿わせる。


「エマ俺っ」

「レティと同じに!」

「……え?」

「二人は私にとって大事な大事な大好きな幼馴染みです。勿論今までもこれからも!」

「…………はは、は、ああ幼馴染み、そうか」


 それではまた、と退室の前にペコリと頭を下げる私へと、彼はへらりと力ない笑みを浮かべて見送ってくれた。こっちのテンションに疲れたのかもしれない。

 でも少し涙を堪えていたように見えたのは気のせいかな?


「あっ待ってエマ、わたくしも玄関まで行くわ。……とりあえず撃沈しなくて良かったわね、お兄様。あわや後退する所で全然進展はないけれど、まだまだこれからよ」


 凄くイイ顔のレティシアが兄の肩に手を置いて、何かを告げてから駆けてくる。何て声をかけたんだろう。廊下に出てから訊いてもまだ内緒って雅な仕種で人差し指を自らの唇に当てるだけで教えてくれなかった。





 ――俺はエマが好きなんだから!


 帰りの馬車の中、一度思い出してしまえば、私の頭にはどうしてだかずっと彼の必死な台詞の断片がリフレインしていて頬の熱が取れなかった。ドキドキドキと高鳴る心臓がうるさい。


「うー、次の男装の時に平気な顔でクラウスさんの演技に合わせられるかな」


 協力するとは言ったけど、ベタ甘スキンシップを想像すればいつになく落ち着かない気分になる。


「うへえええ~~~、何でどうして急にこんなあ~?」


 こんなのまるで、まるで……恋する女の子みたいだ。


「はあ、最近気を抜きすぎなのかも。もっと稽古に打ち込まないとなあ」


 押さえていた頬から手を離して脱力する。

 かつて邪悪なドラゴンを駆逐した師匠のように剣の道を極めるには余所見をしている暇はない。

 ただ、そうやって突っ走っていたら結婚を忘れていたって師匠は言っていた。

 えっ嘘でしょって思ったけど、それくらいの心意気が必要ってわけだよね。まあ、私の場合は家のために誰かと結婚するだろうけど、そこに友情に似たものは生まれても恋愛感情は育まれないかもしれない。けれどそれでもいい。


「恋にのめり込むと、ろくなことにはならないって言うし。そもそも私ってば自意識過剰じゃない?」


 私の中性的な容姿は女子としては些かカッコ良すぎるらしいから、クラウスさんが恋愛感情を抱くとは思えない。それなのに告白されたみたいに感じてしまうだなんて呆れる。

 こんな気持ち身近な誰にも、レティシアにだって話せない。むしろ彼の妹のレティシアだからこそ話せない。家に着くまでの間、冷静に冷静にって自分に言い聞かせて何とか感情を落ち着かせた。





 その夜、師匠が出先でぎっくり腰になって動けないと、彼の孫を名乗る青年から連絡が入った。


 おかげで昼間の悩みは完全に吹き飛んだっけ。


 だって、孫だよ!?


 何と、師匠ってば正式な結婚をしていなかっただけで、ちゃっかり孫までいたんだってのを初めて知った。


 内縁の妻はいたってわけだ。

 水臭いなあもう。でもそれは有事の際の弱味にならないよう家族を護るためでもあったらしい。師匠の若い頃は大切な人を人質にされて望まない仕事をさせられるなんて卑劣な事例もそこそこあったんだとか。

 とりわけ王宮騎士として優秀だった師匠だからこそ、そう言う狙いで近付いてくる悪い輩に気を抜けなかったってことだろう。秘密を守ると徹底していた彼はだからこそ家族と離れて生きてきた。故にこれまで私だけじゃなく世間の誰も知らなかったってわけだ。


 わざわざうち、ロビンズ男爵家を訪れてくれた彼の孫から直接そう聞いた。


 師匠にはその地の病院で暫く静養してもらう方向だとの話をして、孫だって言う若い男性は帰っていった。その他の諸々の決め事は後日改めてする運びにもなった。

 師匠が私の師匠を続けるか否かも含めてね。

 何故なら師匠の家族は彼に一緒に暮らしてほしいみたい。年齢も年齢だしそれは同意できる部分も大きい。

 だけど、師匠が師匠じゃなくなるのはやっぱり寂しいって思う。

 どことなく師匠に似た顔の去っていく若い背中を見送ってふと気付く。


「腰に剣……あの人も剣士なんだ」


 そう言えば自己紹介の折に彼も王宮騎士って言っていたような気がする。師匠がぎっくり腰!?って仰天のあまりすっかり頭から抜けていた。

 さすがは祖父と孫。血なのか、同じ道を選んで同じ武器を極めようとしている。


「私だって、負けてられない」


 そう気合いを入れた。

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