序章 5
それから間もなくしてマリアベルには正式に沙汰が下された。
アルフレッドとの婚約は破棄となり、北部の山間にある修道院に送られることになった。
厳格で清貧を旨とするこの修道院は悪さを犯した令嬢を更生させるための一種の収監施設だ。
当然のように娯楽はなく、それどころか身の回りの世話をしてくれる使用人はおらず身の回りのことは自分でやらなくてはならない。
食事の用意や掃除は当然のこと。冷たい水を川から汲み上げ、修道院が管理する畑を耕す重労働もある。
自給自足をして生きるだけに精一杯のこの環境下から逃げ出したくとも深い山間。特に冬は雪に閉ざされて外界とも行き来を断たれてしまう牢獄だった。
贅沢に慣れた令嬢にとっては極刑よりも過酷な厳しい罰ともいえよう。
けれどもマリアベルにとってこの環境は王都にいた時よりも悪いものではないと思えた。
規律や規範に厳しい修道院長はいるが、理不尽に怒り殴りつける人はいない。
耳が痛いくらいに静かな場所であったが、王都に溢れていた噂話や陰口はまったくない。
無駄口を禁止されて同じ宿舎に住む修道女たちとの関係は希薄だったが、おかげで誰かに煩わされることはまるでなかった。
静かに回る時計の針のように淡々と進んでいく静謐な日常を、マリアベルはそれなりに気に入っていたのだ。このままここで生を終えても構わないと思うくらいに。
マリアベルがそう思うほどに、この過酷な修道院での生活を気にいることができたのは心の支えがあったことも大きいだろう。
マリアベルは手元の便箋を何度もよみかえす。
ここに来た当初、マリアベルは幾人かに向けて手紙を出した。
アルフレッド。家族。そして友達。
その中で返ってきたのは一通だけ。
エレオノーラ家の紋で封をされた手紙には王都での出来事や弟のこと、そしてマリアベルを案じる言葉がびっしりと綴られていた。
その温かさが嬉しくて、最初に届いた手紙を読んだ時はつい涙ぐんでしまった。
読んだ後、マリアベルはすぐさま筆を取って彼女に返信を書いた。
王都と修道院の距離によって二、三ヶ月に一度のペースでしかやり取りはできなかったが、ダリアとの文通はささやかな楽しみだった。
そんな何もない静かな日々を数年続けて、またマリアベルの平穏は崩れ去ることになる。
最初の異変は心の支えにしていたダリアとの手紙のやり取りだった。
もう間もなく深い雪に閉ざされてしまうだろう晩秋。そろそろ届くはずのダリアの手紙が届かなかったのだ。
手紙の配達に何か不備でもあったのだろうか。
そう思っているうちに修道院は雪に閉ざされて外界との接続が絶たれてしまった。
厳しい真冬の間、修道院に閉じ込められたマリアベルはずっとやきもきをしながらすべてを白に埋め尽くす雪景色を眺めることしかできなかった。
暖かな春が来て、長く修道院を閉ざしていたようやく雪が溶けても手紙はまだ来ない。
そこでマリアベルはダリアに向けて彼女のことを案じる手紙を書いた。
どうか彼女に何事もありませんように。ただの手紙の配達不備でありますように。
手紙を送り出してからはずっと神にそう祈り続けた。
けれどもそんなマリアベルを嘲笑うように暖かな春は何もない日々を駆け抜けて、日差しが少しずつ強くなってきた初夏のあくる日だ。
この山奥の修道院にわざわざクロフォード侯爵家のものが訪ねてきた。
「…………これはどういうことですか」
彼の持参した手紙を受け取り、マリアベルは目を疑った。
手紙は父親からマリアベルに宛てられたものだ。
内容は、アリスティア襲撃の件で着せられたマリアベル濡れ衣が晴れたこと。
もう正妃としてアリスティアが擁立されたために側妃にはなるがマリアベルが王太子妃に返り咲けること。
子供さえ儲ければ血筋からその子を王太子として擁立でき、正妃に取って代わることができること。
だから修道院を出て帰ってこい、などと記されていた。
あまりにも急な話ではあったが、マリアベルとていつか修道院を出ることになることは想像をしていなかったわけではない。
たとえ疵がついたとしても、マリアベルは侯爵家の子女だ。数年の時間をかけて禊を終えた後、政略結婚の道具としてどこかの家に嫁ぐ可能性はあるのだろうとは予想していた。
だがそれが一度婚約を破棄したアルフレッドとまた婚姻を結ぶことになるとは想像してはいなかった。
「今になって濡れ衣が晴れたのは何故ですか?」
「それはマリアベル様の無実を信じたものが事件を終えた後もずっと調査を続けていたからだと聞いてます」
マリアベルの問いに使いの使用人が答える。
自分の無実を信じてくれたものがいた。
その一言に心臓が弾む。
「ではダリア様が……」
そうだ。きっとそうに違いない。
自分の味方は彼女しかいない。
ここ最近手紙が途絶えていたのは彼女自身に何があったわけでもなく、配達の不備でも何でもなく、事件の調査が進展して忙しくしていたからなのだろう。
「いえ、エレオノーラ辺境伯令嬢はむしろ貴女を陥れようとしていた側ですよ」
「………え?」
上向きかけた気持ちが使用人の言葉に一気に突き落とされる。
一体どういうことなのかと急きこんで尋ねれば、彼はダリアの近況について滔々と語った。
彼女はクロフォード侯爵家との、ヴォルテールとの婚約を破棄されて辺境伯領での謹慎を命じられたそうだ。
理由はアリスティアへの理不尽な暴言や陰湿ないじめ。執拗なほどの迫害、私物の破壊、そしてついには手をあげるという暴行まで。
アリスティア襲撃事件とは関係はないものの、彼女の行った悪事の中には彼女がマリアベルにアリスティアの私物を壊した濡れ衣を着せていたものがあったとのことだ。
それを聞いたマリアベルの内心は吹雪の最中のようにひどく荒れて冷え切った。
使用人がアリスティア襲撃事件の顛末も話しているが、それはマリアベルの耳には入らない。
二人だけのあの秘密が暴かれてしまった。そしてそれがダリアを苦しめる結果になってしまった。
あの時の自分の選択は誤っていたのだ。
マリアベルが後悔に膝の上で重ねた指先が白くなるまで力を込めているのに気づかない使用人がマリアベルへ一通の手紙を差し出してきた。
「………これは?」
王家の印で封をした手紙に眉が寄る。
「こちらはアリスティア王太子妃からの手紙になります。先も伝えた通り、あの方はマリアベル様を誤解していたことを後悔なさっているようです」
使用人から手紙を受け取り、マリアベルは封を開く。
収められていた可愛らしい便箋の数枚に目を通す。
誤解していたことに対する謝罪とこれからは共にアルフレッドの妃として仲良くしていきたいという旨が書かれている。
だがそんなものは上辺だけだ。
長い文章の中身のほとんどがマウントともとれるような内容だ。
自分が正妃なのだと上からマリアベルを見下ろし、マリアベルを気遣う振りをしてダリアを貶め、マリアベルを憐むことで神経を逆撫でする。
何より見過ごせないのは恩着せがましく自分がマリアベルを側妃に推薦したと綴っている点だ。
自分はそういうことが苦手だから、と謙遜に見せかけた言葉で妃としての面倒ごとをマリアベルにすべて押し付けようとしているのが読み解けて、マリアベルはアリスティアの真意を理解した。
彼女はマリアベルを従えたいのだ。側妃という名の面倒ごとを押しつける補佐として。優越感を得る存在として。
あまりにも人を馬鹿にしている。
「よかったですね。これからの未来は明るいですよ」
固い表情をするマリアベルに気が付かない使用人が笑顔で言う。
その言葉にマリアベルは目の前に座る使用人を見つめ、それから目を伏せるようにして視線を落とした。
自分にはこれからの道行が暗澹たるものにしか見えていないのだが、この自分の感覚がおかしいのだろうか。
でも確かに傍目から見れば、冤罪により長く冬を耐え忍ぶように修道院生活を続けた女が濡れ衣を晴らし、側妃とはいえ妃に返り咲く。そんな女を正妃は誤解していたと謝罪して、快く迎え入れる。そうして二人はこれから先、共に協力して王太子を支える美談だ。
彼の笑顔を否定する気にもなれず、マリアベルは静かに「そうですね」と返した。それだけ言うのが精一杯だった。
また明日迎えに来ると言い残して麓の村へと帰っていった使用人を見送ってから、マリアベルは自室へと戻った。
明日、使用人が迎えに来たらここを出なくてはならない。大した荷物はないが、荷物をまとめなくてはならない。
私物をまとめている最中、今まで届いたダリアの手紙に触れたマリアベルは急にやるせなさに襲われて動けなくなってしまった。
あの煩わしいほどに騒がしい王都にはもうダリアはいない。彼女だけがマリアベルの味方だった。
自分の身を案じ、慮ってくれる人のいないことがどれほどに心細いものか。
それでも自分はあの場所へ帰らなければならない。
マリアベルの心境が如何程だろうとも、王室は美談と共にマリアベルを迎え、側妃としてアルフレッドとアリスティアに奉仕することを強いるのだろう。
それがどれほどに嫌だとマリアベルが訴えたとして、権力欲に取り憑かれた父親には届かないことをマリアベルはよく知っている。
助けを求められる人もいない。たとえマリアベルが自身の苦しみを叫んだとしても無理やり口を塞がれるか、掻き消されてなかったことにされて誰にも届かない。
ひとりでここを逃げ出したとしてもすぐに連れ戻されるのが見えている。そも逃げ出せたとして世間知らずの侯爵令嬢などすぐさま野垂れ死だ。
どうにもならない絶望的な未来しか見えず、気がつけばマリアベルは修道院を抜け出してこの切り立った崖の淵に立っていたのだ。
・ ・ ・ ・ ・
マリアベルがすべてを話し終えた時、目の前の美しい男の瞳からはボロボロと涙が溢れていた。
深い海のような色合いの瞳をグシャグシャに濡らして大泣きする男に面食らって目を瞬かせれば、
「ひどすぎる!」
彼は大泣きしながら憤った。
「こんな女の子が遭っていい境遇じゃない! きみはもっと怒っていい! こんな……人を道具みたいに……っ」
嗚咽し泣き喚く男にマリアベルはどうしていいかわからなくなって戸惑う。
こんなに人に同情をして泣き喚く人なんて初めて出会った。
ひどい、ひどいと泣き続ける男に戸惑いつつ、マリアベルはおずおずと彼の背をさすって宥める。
ひとしきり泣き喚き、鼻を啜った男はマリアベルを真っ直ぐと見つめてこう言った。
「マリアベル、嫌ならそんな場所に帰る必要はない。そんなところを帰る場所にしてはいけない」
はっきりと強く言い切る男は月明かりに照らされてキラキラと眩しく見えた。
「きみが逃げたいなら僕が手助けしよう。僕にきみを拐わせてほしい」
「え……」
「今まで我慢して堪えてきたきみを助けたいと思ったんだ。きみが堪えることなく平穏に過ごせる居場所を共に探しにいこう」
そうして男は改めてマリアベルに手を差し出した。
それはさながら絶望的な暗闇の最中に落とされた淡く輝く蜘蛛の糸。
けれども差し出された救いの手を前に、マリアベルは尻込みして俯く。
「ですが……そんなことをすれば貴方の身に危険が及びます」
あの父親だ。王太子妃を輩出した家柄という影響力を簡単に諦めるとは思えない。
きっと血眼になって捜索し、もし見つかれば彼は誘拐犯としてその場で手討ちにされてしまうだろう。
「大丈夫」
俯いてしまったマリアベルの手を強引に取って、彼はマリアベルを立ち上がらせる。
真正面から彼の顔を捉える形になって、マリアベルはハッと目を見張った。
「安心して。僕は魔法使いなんだ。大抵のことは何とかしてみせるよ」
そう告げて月明かりの下で笑う彼は、希望の形がそのまま舞い降りてきたみたいでマリアベルの瞳にあまりに眩く映った。




