序章 1
からり、と足元で小石が転がり落ちていく。
切り立った崖下に落ちていく小石を見下ろしても、マリアベルの心のうちには恐怖などわきはしなかった。
目の前の光景は今の自分の置かれた状況と非常によく似ている。
この先に道はない。
薄雲に隠れておぼろげに霞む月明かりだけでは足元の闇は晴らせず、ただただ暗闇がぽっかりと穴を開けている。
ここから一歩踏み出せばこのまま真っ逆さま、闇に呑まれて生を終えるのだ。
ならば、とマリアベルはその一歩を踏み出すために深く息を吸い込んだ。
ならばここで終わらせても構わないだろう。
そうして彼女は一歩を踏み出そうと片足を持ち上げた。
あとはもう崖の下に真っ逆さま。せめて痛いのは一瞬でありますように、と祈った矢先のことだった。
「待って!」
不意に腕を掴まれて後ろに引っ張られた。
バランスを崩して後ろに倒れ込めば、そのまま誰かにぶつかった。
驚いて何事かと振り返れば、急に両肩を掴まれてこう叫ばれた。
「待って待って待って! 落ち着いて早まらないで! 死んじゃダメだ、それだけはダメだ!」
真っ直ぐと射抜くようにマリアベルを映していたのは海のように深い蒼だった。形は猫のように丸く目尻の上がった瞳はどこか愛らしく、彼が瞬くたびに長いまつ毛を揺らした。
夜空から投げかけられる淡い月明かりを柔らかく照り返していたのはふわふわの柔らかい金の癖毛。もし触れることが叶うのなら、それはきっと見た目通りに柔らかくて、ふわふわの猫の毛並みに似た優しい感触なのだろう。
髪と同じ色の眉は細く、形が良い。
鼻筋の通った高い鼻と陶磁器のような透き通るきめ細やかな白い肌。
しっとりと艶めくふくらとした唇。
芸術品にも似た美しさは誰しもが見惚れるのだろう。
男性にしてはほっそりとした首と肩ではあったが、こちらの肩を掴む手は大きくて厚みがあった。
「それほどつらいことがあったのはわかるがまだ待ってほしい! 他に道があるかもしれない! だから早まらないで、どうか落ち着いて。お願いだから死なないで!」
おとぎ話の王子様を思わせるような、そんな美しい男が必死な形相で自分の肩を揺する。
「落ち着いて! そっち危ないからこっち来て! とにかく落ち着こう、とりあえず落ち着こう、まずは落ち着こう」
落ち着くのはそちらの方ではないだろうか。
美しさがいっぺんで台無しになるくらいに取り乱した男はぽかんと呆けるマリアベルをグイグイと引っ張って崖から引き離すと安堵したのか小さく息をついた。
「……よかった、飛び降りる前に止められて。寿命が十年は縮まるかと思ったよ」
彼が真っ青な顔色で心の底からの安堵の息を吐くものだから、マリアベルは妙な罪悪感を覚えて俯いた。
そんなマリアベルに気がついた男は困ったように眉を寄せて、それからそっとマリアベルの手を取った。
「……もしよければ何故ここから飛び降りようとしたのか理由を聞いてもいいかい? 僕で力になれることがあるのなら力になるし、力になれずとも話すことで少しは気持ちが楽になるかもしれない」
夜の空気に冷えた手には彼の手のひらの温かさがとても心地よく感じる。
だからだろうか。じっと真摯に見つめ、こちらの心配を訴えてくれる彼に事情を話してみたくなった。
「……わたくしは」
マリアベルは重たい口を開く。
「……わたくしの名はマリアベル・クロフォードと申します。このエステリアス王国を支えるクロフォード侯爵の娘です」
・ ・ ・ ・ ・
少なくともマリアベルは生まれた時は幸福だった。
気候に恵まれて裕福なエステリアス王国の中でも指折りに数えられるほどの侯爵家に生まれた彼女はそれだけで恵まれていた。
父親は多忙でほとんど家にはいなかったけれども、それでも優しい母親と家人たちに囲まれて大切に慈しまれて育てられた。
そんなマリアベルが初めての転機を迎えたのは四歳の時。
珍しく家へと戻った父親がこう言ったのだ。
マリアベル、お前の婚約が決まった、と。
相手はこの国の王太子。
まだ幼いマリアベルはその意味をよく理解することはできなかったけれど、上機嫌な父親と喜びにわく母や家人たちの様子にそれが良いことなのだとは理解した。
そうして幼いマリアベルはその日から後の王妃になるべく、たくさんの教育を受けることとなった。
自由時間はぐっと減って受ける授業のどれもが幼い子供には厳しいものではあったけれど、ひとつひとつを積み上げるようにこなして達成すれば母が、周りの人たちが我が事のように喜んで褒めてくれたから頑張ることができた。
だがそれから数年が経ち、母親が病気でこの世を去った。
それだけでも悲劇だというのに、父親は涙に暮れるマリアベルなど見向きもせずにその数ヶ月後には新たな妻……つまりは継母とその子を屋敷へと連れてきた。
ドレスもアクセサリーも化粧も派手なくらい華美に着飾ったこの継母を初めて見た時、マリアベルは毒蝶のようだと密かに不吉に思った。
後に知ったことだがこの継母はマリアベルの母親が存命だった頃から父親と通じ合っていた、謂わば愛人だったらしい。
だからだろうか、この継母はとにかくマリアベルを毛嫌いした。
顔を合わせれば嫌味を言うのはもちろん。何かひとつの失敗をすれば「未来の王妃ともあろう者がこんなこともできないなんて」と徹底的に詰り、罰と称して手を鞭で叩いたり食事を抜かせることも厭わなかった。
その一方で自分の息子、マリアベルと腹違いの弟のことは溺愛して甘やかした。
母親が存命だった頃の古い家人たちはこの新たな女主人の態度に始めは難色を示したものの、マリアベルを表立って庇った執事やメイドが次々と解雇されるのを見て萎縮し、やがてひどい扱いを受けるマリアベルのことを見て見ぬ振りをするようになった。
そのことを悲しいと思いはしたけれど、家人たちの生活を思えば致し方ないことだとマリアベルはその境遇を受け入れた。
マリアベルは悲しみに蓋をするように勉強に没頭した。
一般教養や宮廷作法。ダンスや音楽はもちろん。外国語や乗馬。護身用に剣術や体術も身につけた。
未来の王妃に必要だと判断すればどんなことでも血が滲むような努力を繰り返して自らを高めていった。
そうすればいつかまた、笑顔で褒められるような気がして。
そしてそれが最後の身内である父親だったのなら。
けれどもマリアベルの淡い期待を裏切るように父親は相変わらずマリアベルのことには頓着せず、それどころかマリアベルに厳しい継母と跡取りとなる彼女の息子ばかりを気にかけていた。
どんなに努力をしても省みられないマリアベルの顔からはいつしか表情は消えて、子供らしくない陰鬱な瞳をするようになっていった。
そんな日々が続いてマリアベルが十を迎えた頃、彼女は初めて王宮へと登城した。
自分の婚約者へと挨拶をするためだ。
今まで父親の話でしか知らなかった婚約者は、固く閉じた薔薇の蕾のような愛らしくもこれからの華々しさを予感させる華やかな少年だった。
ざくろ色の瞳や白い頬はまだ丸く幼いものの、その顔立ちは非常に整っていて美しく華やかに成長することが約束されていた。
黒曜石のように艶めく黒髪は手入れがよく行き届いていて、金糸で刺繍のされた赤いジャケットによく映えている。
どこから見ても隙のない装いは、婚約者との顔合わせというこの日に侍従たちがさぞ張り切ったのだろうとうかがわせた。
「初めまして、アルフレッド王太子殿下。わたくしはクロフォード侯爵の娘、マリアベル・クロフォードと申します」
初めて顔を合わせる婚約者を前に、マリアベルは緊張で少し声が強張ってしまったものの、完璧なカテーシーで挨拶をした。
そんなマリアベルを王太子・アルフレッドはじっと見つめた後、うんざりとため息をついた。
「お前、ずいぶん暗い顔しているなあ。こんなのがおれの婚約者か」
「申し訳ありません。娘はどうも緊張をしているようで」
不愉快そうにするアルフレッドへ、マリアベルの隣に立っていた父親が慌てて弁解をした。
するとアルフレッドはうんざりとマリアベルを睨めつけた。
「緊張だのどうでもいいが、その顔を見ているとこっちの気分も暗くなる。少しは笑えないのか」
「………申し訳ありません」
アルフレッドの言葉にマリアベルは自身の頬に軽く触れた後、深々と頭を下げて謝罪した。
もう久しく笑うことなんてなかったから、どうすれば笑えるのかがわからなかった。
ただただ頭を下げるだけのマリアベルに対して、アルフレッドは興味を無くしたように鼻を鳴らす。
初めてのこの顔合わせはどう見ても失敗で、この顔合わせの帰路の馬車の中でマリアベルは父親に頬を打たれて強く叱責された。
その日からマリアベルは自身に笑顔の訓練を義務付けた。
けれども鏡の前に立って微笑んでみても、いつも鏡の中の自分は能面のような白々しい微笑みしか浮かべなかった。
努力が実を結ばぬ日々を続けて、アルフレッドとの初顔合わせから数年が経った。
あの日から何度か彼と社交の場で顔を合わせることはあったものの、笑顔の訓練の成果を出すことはできずに会う度に「暗い顔」と罵られてばかりだった。
だがその一方で彼はマリアベルの血の滲むような努力で培った知識や技術は認めてくれた。
「お前、暗い顔している割にはなかなかやるじゃないか」
そう言って初めて彼が褒めてくれたのは楽器演奏だっただろうか。
社交の場でたまたまバイオリンを披露した時、演奏を終えたマリアベルの前に進み出た彼がそう言って褒めてくれたのだ。
その褒め言葉に驚いて彼の顔を見つめれば、彼は眉を寄せて不機嫌そうにこう続けた。
「何だ、その顔は。おれはいいと思ったものはいいと言うぞ。お前の演奏は素晴らしいものだった」
「……ありがとう、ございます。光栄です」
咄嗟に出た言葉は詰まりがちで拙いものではあったが、それでも彼は満足そうに鼻を鳴らした。
その後も彼は、マリアベルが優雅にダンスのパートナーを勤めた時に。流暢な外国語で異国の客人をもてなした時に。常人では操ることが難しい馬を上手に手なづけて走らせた時に。剣術や盤上遊戯の相手をして、引けを取らぬ対等の奮闘を見せた時にやるじゃないかと褒めてくれたのだ。
その度にマリアベルの心はホッと安らいで、彼が婚約者であることを幸せに思った。
もっと研鑽して彼の力になれるように。
彼に見合う王妃になれるように。
いつしかそう願うくらいにアルフレッドの存在はマリアベルの中で大きくなっていった。
・ ・ ・ ・ ・
「ちょっとそこの貴女、よろしくて?」
アルフレッドの婚約者として前向きに研鑽をするようになってから幾ばくかの月日が経ったある日。
継母が開催したガーデンパーティーを書斎の窓からぼんやりと眺めていた時、その少女は現れた。
窓から差し込む日差しを受けると橙色に透ける赤毛を高い位置でシニヨンに結い上げ、可憐なリボンを巻いている。
瞳の形はアーモンドで色は芽吹いたばかりの新緑に似た緑色。可愛らしいが少しキツめの顔立ちは睨まれると余計にキツく見えた。
瞳の色と同じ緑のドレスはシンプルではあったが、故に上品で派手な顔立ちの彼女の魅力をより際立たせている。
健康的な肌色とドレスから伸びるすらりと引き締まった手足から彼女が継続的に屋外で何かしらの運動をしていることが伺えた。
めかし込んだ姿から本日の継母が開催したガーデンパーティーの招待客なのは間違いない。
だがそんな少女が継母の開催したガーデンパーティーに踏み込むことを許されず蚊帳の外にされているマリアベルの前に現れたのは何故なのだろう。
少し考えて、マリアベルはやがてこう口を開いた。
「いかがされましたか? もしお困りのようでしたら今家のものを呼びましょう。そちらにお申し付けいただければ……」
「必要ないわ。貴女がヴォルテール様の姉君、マリアベル様でしょう? 私、貴女に用があるの」
「わたくしにですか?」
思いもよらない言葉にマリアベルが目を丸くしていれば、少女はジロジロと無遠慮にマリアベルの頭の先からつま先まで眺めた後で憤然と腕を組んでマリアベルを見据えた。
「私はダリア。ダリア・エレオノーラ。私の名前はさすがに知っているわね?」
ダリア・エレオノーラ。
その名前は知っている。
つい最近、父親が夕食時に弟の縁談がようやく纏まったのだと話した時に聞いた名前だ。
「ダリア様、父から聞いております。貴女が弟の婚約者になられたエレオノーラ辺境伯のご息女ですね。挨拶が遅れてすみません。わたくしはマリアベル・クロフォードと申します」
マリアベルはスカートをつまみ、優雅に一礼をする。
途端、何故かダリアは悔しそうに歯噛みをして、ますますマリアベルを睨みつけた。
マリアベルは困惑する。自分は彼女に何か失礼なことをしてしまったのだろうか。
「さ、さすがはヴォルテール様の姉君ね……でも貴女がそんなに美しくても私がヴォルテール様の一番になるんだから!」
「は、はい……?」
「マリアベル様、私、今日は貴女に宣戦布告に来たのですわ!」
ビシィッと音がつきそうなほど、彼女は勢いよくマリアベルへと人差し指を突きつけた。
せんせんふこく。
宣戦布告と言っただろうか。
またしても思いもしない言葉を浴びせられ、マリアベルは困惑のままダリアの顔を見つめた。
頭の中が疑問符でいっぱいのマリアベルを差し置いて、ダリアはこう口を開いた。
「いくら姉君といえどヴォルテール様の視線を独り占めする貴女を許すわけにはまいりません! 貴女が完璧な淑女であろうと私はそれを超える完璧な淑女となって、ヴォルテール様の視線を釘付けにしますから、覚悟なさい!」
「え、あの、ダリア様、お待ちください。おっしゃってることの意味がわからないのですが……」
弟、ヴォルテールとマリアベルの仲は冷え切っている。
彼とは滅多に顔を合わせることはない。
継母が嫌がるのもある。だがそれ以上に彼から蛇蝎のごとく嫌われているのだ。
用がなければ口を利くことはなく、それどころか極力顔を合わせないように避けられている節がある。
こちらからたまに話しかけようものならジトリと嫌そうな目で睨まれ、ひどい時には舌打ちをされる時もあるくらいだ。
だから彼女が言っている意味がマリアベルには本当に理解ができなかった。
「まああ、まさかヴォルテール様にあんなに意識されているのに気がついていらっしゃらないの!? ヴォルテール様は何でも優秀にこなされる貴女を眩しく見ておられますのよ!」
「そんな……それは何かの間違いでは」
「ヴォルテール様をつぶさに見ているこの私が間違えるはずはありませんわ! ヴォルテール様はいつでも貴女を見て、貴女のことを追っております! 勉学も、音楽も、馬術も剣も何でも!」
はっきりと断言したダリアにマリアベルは言葉に詰まって口を閉ざす。
もう一度思い返してみてもマリアベルの記憶の中の弟の視線はいつだって冷たく蔑むような……いや、いっそ憎んでいるような鋭いものなのに。
だが、そう。ひとつだけ彼女のいう弟が自分を追っているに思い当たるものがあった。
そういえばヴォルテールは楽器を習う際にピアノ、バイオリン、トランペット、フルート等数多ある楽器の中からマリアベルと同じくバイオリンを自ら手に取った。
嫌悪する姉と同じ楽器を選んだのは何故なのだろう。
「とにかく私は貴女に負けませんから! 覚悟なさってね!」
ぼんやりと考え込んでいたのをダリアの声がふと呼び戻す。
彼女の勢いにマリアベルはただただ頷くしかできない。
その日からマリアベルは何かにつけてライバル視してくるダリアに絡まれるようになった。
自らの勉学の成果を自慢げに語り、けれど遥かその先にマリアベルが進んでると知ると悔しそうに地団駄を踏んだ。
ピアノのコンクールで賞を取ったと胸を張る彼女に素直な賛辞を贈れば、彼女は不満そうな顔をしてマリアベルに悔しがれと憤った。
ダンスの勝負を挑まれた際には技術で圧倒してしまい、負けた彼女に散々泣き喚かれて宥めるのに苦労をした。
けれどもそうやって彼女と共に過ごす日々を重ねていくうちにダリアの春の暴風のような態度は次第に軟化して、彼女はマリアベルのことを「お義姉様」と呼んで慕ってくれるようになった。
これはきっとヴォルテールの姉という、決して彼と恋仲にはならない立場があってこそのことだろう。
おそらくその立場でなかったのなら、ダリアはきっとずっとマリアベルのことをライバル視してつっかかっていたに違いない。
ダリアは堅物で有名な辺境伯が目に入れても痛くないほど可愛がる末娘だけあって高飛車で我儘な娘であったが、その分素直で明るくて社交的な性格の娘であった。
内向的で表情の乏しいマリアベルとは対照的な彼女はいつだって令嬢たちの中心にいて、マリアベルのこともその輪に引き入れてくれた。
おかげでいつも令嬢たちの中で遠巻きにされて浮きがちだったマリアベルもようやく彼女たちに溶け込めて他愛のない話に花を咲かせるようになった。と、言っても基本的にマリアベルは令嬢たちの話に相槌を打つくらいのことしかできなかったが。
思えばこの時が母が亡くなってから一番幸せな時だった。
自分を認めてくれる人がいて、その人を支えていきたいという目標に邁進する日々が。
自分を慕って笑いかけてくれる可愛らしい友と過ごす時間が。
マリアベルにとって何よりも愛おしいもので、ずっとこの時が長く続くことを夢見ていた。
けれどもその幸せな日々に不吉な影が忍び寄っていたなんて思いもよらなかった。




