第35話 巡回と小さな総評
ダンジョンの入口で、山本が最終確認の端末を閉じた。
入口脇では警備班が持ち場についている。規定通りの装備に身を包み、出入りする探索者を見守っていた。
「巡回です」
山本が声をかける。
「了解!行ってらっしゃい」
軽く手を挙げる警備員に、私は会釈を返す。
彼らの落ち着いた動作や確かな視線に、自然と緊張が少し緩む。
入口警備は別班の担当だ。ここから先が、私たちの仕事になる。
「巡回はいつも通りだ。第一層を一周。異常がなければそれで終わり」
淡々とした口調に、私は軽く頷く。
その横で岸本が私の装備に視線を落とした。
「……その防具、見ない素材だな。ダンジョン産だな」
言われて自分の胸当てに目をやる。
今まで特に気にしたことはなかったが、確かに良いものらしい。
フォレストビーストの最後の一撃で端が欠けたことはあるが、それ以外では衝撃をしっかり受け止めていた。致命傷にならなかったことを思い出す。
「探索経験者だから自分の装備か。質は間違いなく支給品より良いな」
岸本は軽く指で叩き、質感を確認している。
私は息を整え、深く吸ってから、二人に続いてダンジョンの中へ一歩踏み入れた。
久々に独特の重みを帯びていたダンジョンの空気を肌で感じる。
「体調はどうだ?」山本が振り返る。
私は慎重に体調を確認し、呼吸を整える。
「問題ないです」
岸本は少し目を細める。
「ここで妙な圧迫感を感じる人も多いんだ。探索経験者というのは伊達じゃないな」
「山本さんは吐いたらしいぞ」岸本が付け加え、軽く肩をすくめる。
「お前こそ、一歩も前に進めなかっただろ」山本が小さく笑う。
「……ええ、そうでした」岸本も軽く笑った。
私の足取りは止まらない。呼吸も乱れていない。視界も狭まらない。
中層で大けがをしたあの経験が、まだ心のどこかに影を落としていた。踏み出すたびにわずかに緊張が走る。
だが、ここは第一層。浅く、圧迫感もなく、足元も確かだ。
少なくとも今のところ、問題はなさそうだと、胸の奥でわずかに安堵が広がる。
自然と肩の力が抜け、歩みが少しだけ滑らかになった。
数秒、山本と岸本は無言で私を観察していたが、やがて何も言わず前を向いた。
その沈黙には、互いの信頼と緊張感の程よいバランスが漂っている。
石床に足音が乾いた反響を返す。通路は広く、淡い光が壁面を照らしている。
巡回はこれからだ。
私は改めて周囲に意識を向けた。
壁の装飾、足元の段差、微かな湿気。手に触れれば冷たさを感じる壁面、床のわずかな傾きも意識する。
少し立ち止まり、息を整えながら次の一歩を踏み出す。
山本と岸本がそれぞれ軽く注意を促す。
「浅層だが、油断するな。罠もある」
「講習のときは特に注意だ。説明を聞かないやつほど先に突っ込む」
その言葉に私はうなずく。
やることははっきりしている。足を止めず、注意を怠らずに。
心臓の鼓動が少し早まるが、それも自然な緊張。
緊張しすぎず、でも気を抜かない。これが今の自分にできる最善の状態だ。
ダンジョンの通路は、第一層とはいえ淡い光に照らされ、静かな空気が漂っている。
石床に足を置くたび、かすかに冷たさが靴底に伝わる。湿気の匂い、壁面のひんやりした感触――その雰囲気は、かつて自分が探索していた低層エリアによく似ていた。
だが、決定的に違う点がある。
そう、このダンジョンには罠がある。
以前の感覚のまま歩けば思わぬ怪我につながる。似ているからこそ、油断はできない。
私は足元と壁際を改めて確認しながら、慎重に歩を進めた。
「まずは巡回ルートの確認だ」山本が通路の角で足を止める。
岸本も傍らで手順を説明した。
「右手の通路を抜けて中央広場。障害物や段差が複数ある」
「罠の位置は支給された巡回地図に記載されている。必ず照らし合わせながら進め。慣れたときほど引っかかる」
私は腰のポーチから地図端末を取り出し、表示を軽く確認する。
罠の印は明確に示されているが、実際の位置関係を頭に入れておかなければ意味がない。
視線を上げ、実際の通路と照らし合わせる。
そのとき――通路の奥で、微かな石の擦れる音がした。
小さな影が、壁際を横切る。
「……来たな」山本が低く呟く。
「アーマーマウスだ」岸本が続ける。
事前の資料では、小型犬ほどの大きさで硬化した皮膚を持つと記載されていた。素早くはないが、体当たりにはそれなりの威力がある、と。
山本が先に動いた。無駄のない足取りで距離を詰め、体当たりを半身で受け流す。
岸本が側面に回り込み、確実に仕留めた。動きは滑らかで、手本のような連携だった。
「基本はこんなもんだ」山本が短く言う。
ほどなくして、再び奥から物音がする。
二体目のアーマーマウスだ。
「次はお前がやってみろ」
私は軽く頷いた。
正直なところ、緊張はほとんどない。
ワイルドウルフを複数相手にしても崩れなかった。
中層のニードルディアも倒せた。
アーマーマウスが突進してくる。
踏み込みを半歩ずらし、軌道を外す。
体勢が崩れた瞬間を逃さず、急所へ一撃。
硬質な感触。
抵抗は、あっけないほど軽い。
数秒もかからなかった。
静まり返る通路。
私はゆっくりと武器を下ろす。
山本と岸本が、わずかに目を見開いているのが分かった。
「……思った以上に、余裕だな」
岸本が、倒れた個体と私を見比べる。
「正直、ありがたい戦力だ」
山本も小さく頷いた。
私は武器を収めながら、少しだけ首を傾げる。
この程度の相手なら、特別なことは何もしていない。
通路の奥は再び静まり返る。
巡回は、まだ始まったばかりだ。
巡回を終え、プレハブ小屋に戻ると、鉄の扉が閉まる音がやけに静かに響いた。外の湿った空気とは違い、室内は乾いた埃と古い木材の匂いがする。
湯気の立つ紙コップを手に、山本がふう、と息を吐いた。
「総評から言うと――動きは全く問題ないな」
その一言に、思わず背筋が伸びる。
「むしろ……正直に言えば、俺たちより戦えてる」
岸本が苦笑しながら肩をすくめる。
「なあ。探索者やったほうがよっぽど稼げるだろ。なんでこの仕事に応募したんだ?」
二人の視線が向けられる。
俺はコップの縁を指でなぞり、少しだけ視線を逸らした。
「……まあ、いろいろです」
曖昧に笑って誤魔化すと、山本もそれ以上は踏み込まなかった。
「理由はともかく、助かるのは事実だ」
岸本がにやりとする。
「これで俺たち、ちょっと楽できそうだな」
「その代わり、事務作業と罠の対応は覚えてもらうぞ。戦えるだけじゃ、この仕事は回らんからな」
山本の言葉は淡々としているが、どこか柔らかい。
「明日からも、よろしく頼む」
差し出された紙コップが軽く触れ合う。
外では風がプレハブの壁を揺らしている。
ダンジョンの中とは違う、ありふれた夜の音だ。
その音を聞きながら、俺は静かにうなずいた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
こうして、特別でも何でもない一日が終わった。




