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もう一つの『図書館』②

 彼女は持っている本を少し持ち上げて、こちらへと見せる。はて。眉根を寄せて記憶を探る。答えは直ぐに出た。

「見覚えがないですね。自分はいつも帰り際に棚に戻していますから」

「そうか。キミが私に勧めてくれたのかと想ったんだが、違うんだな。道理で」むうと、残念そうに彼女は唇をとがらせた。ちょっと拗ねたように上を向いて、

「まあいいか」


 すぐに思い直したように頰を喜色に染め、パタリと表紙を閉じて小脇におき、清治を柔らかく手招きした。あつらえたように彼女の至近に椅子が1席もうけられている。招かれるままに座ったとしたら、お互いの体温がわかるほどに近い。

 なるほど、彼女は今日も()()()遊ぶ事に決めたようだ。

 清治は自ら取り得る最善の行動をとった。つまり無視した。目を手持ちの本に再び落とす。

 

 二秒、三秒。腕の往来はだんだんと速度を増していく。視界の隅に映る動きは奇怪な事この上ない。この光景を彼女の同級生や、慕っているらしい後輩らが見たら一体なんというのだろう。清治が近寄ってくる様子が無いことを見て取ると、やがてピタリと動きは止まった。にわかに不可視の圧力が高まるが、かたくなに無視を続ける。彼女の思い通りに任せてしまうと、途端に面倒になることを清治は身をもって知っている。いつものように深く椅子に腰掛け、猫背になって本に集中するふりをした。ただし、これが必ずしも正答ではないことも知っていた。時間切れの引き分けまでしか狙えない勝負に勝利することはありえないのだ。


「そうか、わかった」

業を煮やしたのか、先輩は一言呟きゆらりと立ち上がった。唇をとがらせたまま乱暴な音を引き連れてずんずんやってくる。清治は恐怖した。

智晶は至近にやってくるやいなや、引き摺った椅子を清治の真横に置き、そこに収まった。やはりお互いの体温がわかるほどに近い。結局はいつも通りの位置に納まるとわかっていても、人には何かに立ち向かわなくてはいけない場合がある。すがるように本の中の軍事学者に助けを求めたが、無情にも答えは返ってこない。


 ――役立たずめ。

 清治は口の中でそう罵倒して、旧本の隙間から横をのぞき見る。何かを期待するような表情を浮かべ、黙ったままの先輩がいる。先輩が視界から消えて無くなりはしないかと何度かそれを繰り返して、諦める。

「分かっていて読んだのでしょう、先輩は。何の本なんですか、それ。ここの蔵書じゃないでしょう?」

 早苗堂の蔵書は地域密着型の物が多く、自主出版物が一棚を閉めることも珍しくない。故に初見では何の本であるかさえ見当が付かないことがある。彼女の持っている本は目立たない薄緑の装丁を施されていた。早苗堂との付き合いが長い清治も、あまり見たことがない類いのものだ。半ば作為じみたものを感じながら、智晶に水を向ける。しめた、というように彼女は笑った。纏わりついていた不可視の圧力がやっと霧散する。


「やっと私に興味を持ってくれたな、うれしいね」彼女は愉快げに身体を揺らした。彼女に呼応して鉄パイプの椅子が床に打ち付けられてカタリと鳴る。

「これはどうもこの土地の民話集のようだ。聞いたことのない話ばかりだが、近所の地名の由来が出てくる。面白いよ。さらっとしか読めてないが、早苗という名前も良く出てくる。……それと、これはここの蔵書だ。キミともあろう者が見立てを外すなんてね」なでるように細い指が裏表紙をめくる。確かにそこには寄贈印があった。学校側が認識して受け取っているのは間違いないようだ。


 肩をすくめて答える。「仕方が無いでしょう。頁を開かないと中身が分からないような装丁の旧本だらけなのに、目録もないんですから。で、早苗、ね。それはまた何とも」

 彼女はうなずいて、「早苗堂(ここ)の成り立ちについてはよく知らないが、おそらくは君の思うとおりだろう。興味が無いことも無いが、読みたいのなら君に譲るよ」

 正面に差し出された本を手を伸ばして受け取る。

「何のつもりですか」


 本を受け取るはずの腕は彼女の細腕に絡め取られていた。抗議の視線を向けると、余裕を湛えた眼に受け止められる。

「今まで何故現れなかったのかな。キミが精魂懸けてここを整理したというのに。心当たりは?」

「あるわけないでしょう。他にここを使っている人を見たことがありませんよ。自分だってここの本をすべて把握しているわけではないですし、見逃していただけじゃないですか?」

 本を受け取ってゆっくりと引き離す。あっさりと離れた腕に拍子抜けしながら、清治は受け取った本を眺める。自問していた。


 ――本当に見逃している本なんてあるだろうか。

 早苗道はデータベースの一部である学校の図書館には及ばないものの旧本の書庫としては破格の蔵書量を誇る。気まぐれに清治が区画整理したり、先輩のいたずらで見たこともない本が出てくることもある。しかし、だ。おおよその蔵書の種類くらいは把握しているつもりだった。

 表紙は初夏の若芽のような薄緑、和紙のようなざらざらとした手触り。旧本のなかでは後期の作品によく見られる特徴であったと記憶している。頁を開くと、扉に行書体で浅野語<アサノガタリ>と書かれている。出版社名や印刷所の記載がないので自費出版だろうか。後期は旧本で出す出版社も少なくなり、次々とディジタル化していく中で細々と個人やサークルが金銭を出し合って作られたという。この手のものはぜいたく品だ。


 微かに折り目がついた頁が少しずつグラデーションを作っていて、豪華な天金が綺麗だと思った。まっさらな状態の本もまた良いが、清治自身はこうやって人の手に取られて柔らかくなった、悪くいえばよれた本が好きだったりする。ぱらぱらと読み進めていった後、奥付を見て眉をひそめる。

ーーこんな本があるはずがない。一体どういうことだ。

「つまらないね。もっと反応してくれるとうれしいんだけれど。私はキミに会いに来てるんだ。本を読むのもいいけれど青春とやらを追求してみる気はないかい。例えばほら、手近にいる先輩をかまってみるのは?」


 先輩が気づいた様子はない。いつも通りの本心の見えないからかい口調で肩をつつき続けていた。いい加減うっとうしい。

 ――おそらくは、見ていないのだ。見ていたら彼女でさえもっとほかの反応を返すだろう。

 内心の動揺を完璧に制動して、努めて平静に清治は返す。

「……無論、女性に興味はありますが、生憎と耳障りのいい言葉は初手で突っぱねると決めているので。本音で語るなら考えましょう。先輩にそれができるなら」


「私が本音を語る相手は添い遂げる人だけと決めていてね。聞きたいなら構わないよ」時代遅れ、古風な女だと笑ってくれてもいいと、彼女は言う。苦笑まじりのその言葉は珍しく本音に聞こえ、清治は頬が熱くなるのを感じていた。さらりと言ってのけた当の本人は飄々としている。

「では、遠慮しておきます。後が怖いので」

「それは残念だ」

肩をすくめて、どこまで本気かわからない先輩を尻目に清治は本を読み始めた。今度は一文字たりとも読み漏らすまいと、真剣に。


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