第61話 後輩
「妹? ああ、いる……と言うかいたけど、それがどうかしたのか?」
佐々木さんは片手に透明な液体の入ったグラスを傾けながら私にそう言った。
佐々木さんの家、アパートの一室は、来る度に僅かながら物が増えている。それは小学生向けの参考書であったり、可愛らしい幼児向けの服だったり、ちょっとしたおもちゃだったり。それの対象であろう双子達は、海星くんはカーペットの上に寝転びながら参考書を眺め、海月ちゃんは隣で正座しながら猫の模様が描かれたカップを両手に何かを飲んでいた。
「いえ、聞いてみただけですけど」
そう言ってみたものの、佐々木さんは私が嘘を付いていると分かっているような目で。
あの後、藍川は少し苦笑しながら言っていた。
「僕の次は佐々木さんかぁ」
その言葉の意味は私にもすぐ分かった。藍川はつい最近義妹と対面した、それと同じように、佐々木さんの生き別れの妹がこの街にやって来たのだ。偶然にしてはあまりに奇跡的な割合だと思ったけれど、それでもこれは偶然なんだろう。
あの子が本当に佐々木さんの妹だと仮定して、今はきっと十五歳、思春期真っただ中だ。今までこの街であの子を見かけたことは多分無い。と言う事は、つい最近越して来たという事だ、愛ちゃん達のように。自分の兄がこの街にいると知っているのかは定かではないが、もしかしたらこれも愛ちゃん達と同じように、高校入学を期に越して来たのかもしれない。
帰りに「用事があるから」と藍川と別れた後、私は何気なく佐々木さんの住むここにやって来た。妹さんのことをよく聞きたくて。
「まあ教会出る時に別れたっきりだからな。今更会ったところでどうってわけでもねえな」
佐々木さんはそう言ってふっと微笑む。本当に何も気にしていないような様子で、ちょっと緊張していた私は安心した。
「凪お姉さん、この計算ってどうやるんですか?」
私の服の裾を軽く引っ張りながら海星くんが尋ねる。片手に開かれた参考書のページには大きく、四年生と書かれた文字と、分数の計算が並んでいた。
「この左の、二って数字がよく分からなくて……」
「それはね、下の数字の三が二個、二倍あるって意味だよ」
「へー、そうなんですかぁ。ありがとうございます!」
海星くんは嬉しそうに笑い、短くなった鉛筆を握り筆圧の薄い字で数字を書いていく。
「そう言えば二人とも、来年は中学生なんだね」
私がそう言うと、コップの中身を飲みほした海月ちゃんが口を離し、目を輝かせて頷く。
「うんっ! 冬音お姉ちゃんが、あたし達を中学校に行かせてくれるんだって! だから、勉強頑張らなきゃ!」
「海月、口に白いひげ付いてるよ」
くすくすと海星くんに笑われ、いけねっと海月ちゃんは手の甲で口元を拭く。
「それに、もっと牛乳飲まなきゃだめだもんね」
「背を伸ばしたいの?」
尋ねると、海月ちゃんは首を振る。
「ううん。海星は背を伸ばしたいからだけど、あたしはもっとオッパイをおーきくするの! テレビで言ってたよ。男の人はその方が好きなんだって」
ねー? と同意を求めるように海月ちゃんは佐々木さんに首を傾げる。質問の内容に困ったのか、佐々木さんはちょっと頬を赤くしながら「んー、まー……」と曖昧に同意していた。
「ぼく、どんどん背を伸ばしたいんです。ほら! ちょっと大きくなったでしょ?」
そう言って立ち上がり、海星くんは私の前に直立する。……本当だ、去年の夏より、結構伸びてる。あの頃は実年齢よりもう少し下と言っても納得するくらいの背の低さだったのに、牛乳のおかげか、生活環境の良化か知らないけれど、ぐっと伸びている。それに、顔付きも。
「本当だ。大きくなったねー」
ふわふわとした茶髪を撫でながら言うと、海星くんは元々垂れ気味の目を更にトロンとさせて、嬉しそうにはにかんだ。海月ちゃんが羨ましそうに眺めていたので同じように頭を撫でる。二人は嬉しそうに微笑んでいた。
もしあの子が佐々木さんの実の妹だとしたところで、きっと接点なんて無い筈だ。
「図書部の入部希望者ですがっ! 部長さんはいらっしゃいますか?」
入学式から一週間が過ぎた今日、放課後の図書室の扉を開け放した彼女は、開口一番そう叫んだ。
カウンター側の席で鬱屈そうな顔で本を読んでいた哀歌はビクリと肩を跳ね上げ、酷く怯えた目で彼女を見つめる。同じく隣で読書をしていた私はポカンとその子を見つめ、窓際で春の暖かな日差しを浴びていたひなだけが、唯一顔を輝かせる。
「入部希望!? わっ、やった!」
そして猛突進でその子に詰め寄り手を握る。ひなの背に隠れてその子の顔がよく見えない。ひなが何度も、「入部? 見学じゃなくて? 本当に入部してくれるの!?」と尋ね、その子も「はい、パンフレット見てから気になってたんです」などと答える。カサリという髪の音がしたから多分、入部届けも持って来ているんだと思う。二人は数言話してからひなが頷いた。
「よし、それじゃあ皆、集まって! 新入部員ちゃんが入ってくれたよ!」
「えっと……初めまして! 一年一組の神埼紫乃です! これからよろしくお願いします!」
ひなの周りをくるりと回りながら、カウンターから出て来た私達に顔を向け、そう言って笑顔で笑ったその子。
黒髪セミロングの三つ編み、黒のセーター、黒縁眼鏡。清楚で真面目といった印象が強い彼女は、紫乃ちゃんと言うらしい。
…………あれ? この子、どこか見覚えがある。
「…………ん?」
紫乃ちゃんも同じだったのか、僅かに目を細めて私を見つめる。眼鏡のレンズ越しの目が一瞬鋭くなり――――「「あっ!」」
そうだ思い出した。
「君……冬休み、図書館にいた子?」
「消しゴム拾ってくれた人……ですよね!」
わー、お久しぶりです! あの時はありがとうございました! なんて言って笑う紫乃ちゃん。そんな私達にひなが「知り合い?」と聞く。
「うん。まあちょっと前にあった程度だけどね」
紫乃ちゃんはニッコリと私に満面の笑みを浮かべ、それからひなにも同様に笑みを浮かべる。そして最後に哀歌に笑顔を向けたけど――――「ひっ!」哀歌は露骨に脅えた態度を示し、開いた本で顔を隠す。
訝しげな顔で首を傾げる紫乃ちゃんを困ったように見ながら、ひなは明るい声を出して私達に言葉を投げかける。
「ほら皆、自己紹介しようか。――――私は部長の冴村ひな。よろしくっ!」
ひなが私に視線を投げかける。私は一歩前に踏み出し、出来る限りの笑顔を向ける。
「二年生の川瀬凪です。よろしくね、紫乃ちゃん」
そして残る一人に私達全員の視線が集まる。六つの目玉を向けられた哀歌はびくびくおどおどと挙動不審になり、顔を青くさせる。長い前髪を細い指でササッと動かし、ジトリとした鬱屈な瞳を隠した。
「あ、あっ……副部長の、哀歌…………し、もべです。…………よっ、ろしく」
舌を噛みながら必死にそう言って、すぐ顔を俯かせる。紫乃ちゃんがどう思うかがちょっと心配だったけれど、彼女は私達に向けたのと変わらぬ笑顔で「よろしくお願いします、哀歌先輩!」と言った。
自己紹介が終わり、ひなと紫乃ちゃんが楽しそうに談笑をする。窓際の席に椅子を二つ並べ日差しを浴びながらのお喋り。
「ところで紫乃ちゃんは何で図書部に入ってくれたの? パンフレットって、本当にそれだけ?」「はい勿論。他の部活もちょっと迷ってたんですけど、図書部って珍しくて面白そうだなーと思って」「まあ普通は委員会としてだもんね。中学校で部活やってた?」「あー……まあ一応一年の頃に陸上やってたんですけど、ちょっと都合があって途中退部しちゃって」「ふーん、大変だったんだねぇ」「あははっ。でも、高校からは勉強一筋で行こうと思ってるんですよ。真面目になろうって」「でも紫乃ちゃん凄く真面目そうじゃん! 三つ編みだし眼鏡だし」「あはは」
他愛も無い会話を二人が繰り広げているのを微笑ましく眺めてから、ふと哀歌に顔を向ける。哀歌は私が見ている事に気づかずじっと手元の本に目を向けていた。
「……………………」
さっきから一ページも捲られていない。
――――段々と哀歌の様子がおかしくなっていっていると昨日ひなが言っていた。目に涙を溜めつつ震える声で『哀歌が変なの』と。外を見てボーっとしていたり、突然笑いだしたり、手首にリストバンドを巻いていたり。私やひながその様子について話しかけても、以前のように黙り込んだり震えながら泣きそうになったりなど一切せず、ニコニコとした笑顔で『大丈夫』と言う返事を返すだけ。
心底悩んでいる人間の『大丈夫』は、どう考えても大丈夫ではない。
「……………………」
哀歌の手がようやく本に近付く。
紙の擦れる、ページの捲れる音がした。
「ねえ、今日は紫乃ちゃんの入部歓迎会ってことで、皆でカラオケにでも行かない?」
部活の終わる時間になった瞬間、ひながそう楽しそうに叫んだ。そして一人一人に目を向け、「ねっ?」と。
「私はオッケーですよっ。歌うのスカッとして好きだし!」
「私も別にいいけど」
紫乃ちゃんと私の返事ににんまりと口角を上げた後、ひなは哀歌にビシッと指を突き付ける。「哀歌はっ!?」
「えっ!?」
哀歌がビクリと反応して顔を上げる。そしてすぐ、困ったように顔を背け、
「あ…………わ、わたっし、は、やめておく、よ。音痴だし、恥ずかしいし」
「えー! 哀歌もおいでよ! 皆来ないと、つまんなーい」
ブーブーと不満気にひなが口を尖らせるが、哀歌は何度もごめんねごめんねと謝罪の言葉を繰り返すばかりで、承諾する気はないようだった。これ以上誘われると断り辛いと思ったのか、慌てて鞄を肩に下げて図書室を出て行こうとする。
「あ、ちょっと待ってよ哀歌。帰るんだったら途中まで一緒に行こうよ!」
ひながそう言って哀歌の後を付いて行く。私と紫乃ちゃんは一瞬だけ目を見合わせて、ふふっと笑い合ってからその後に続いた。
階段を下りて玄関まで走って、靴を履き替える。
「哀歌先輩、本当に行かないんですか?」
「う、うん。ごめんね」
「んー……じゃあ、今度は一緒に皆で行きましょうね!」
屈託の無い笑みを浮かべる紫乃ちゃんに、哀歌は苦笑いを返す。そして黒いローファーに履き替えて一足先に玄関を出ようとした。「あ、哀歌待ってよー!」ひなが明るくそう言い、哀歌は顔だけこっちに振り向いて苦笑する。と、
「きゃっ!」「ひっ!?」
前に注意が言っていなかったのか、哀歌が誰かとぶつかってその場に二人が倒れ込む。痛みに顔を歪めながらも哀歌は慌てて顔を上げ、
「ごめんな…………っ、あ……!」
そして、みるみるうちに顔を青ざめさせていく。
「いった……って、あんたかよ! 何してんの、まじ痛いんだけど!」
同じく倒れたのは、長い茶髪の女子生徒。口紅やらネイルやら短いスカートやら、ギャル風の格好だった。確か前に見たことがある、あれはいつだったっけ……哀歌が、水をかけられて虐められていた時の女子達だっけ。
彼女は脅える哀歌に舌打ちをしながら立ち上がり、苛立つ様子で髪を掻きあげる。
「あーもう、スカート汚れたじゃん、どうしてくれんの!? あんた本当トロイよね、頭おかしいんじゃないの!?」
「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ!」
必死に青ざめた顔で謝る哀歌を見下ろしながら、その子は溜息を付く。
「明日どうなるか分かってる?」
「…………!」
静かに吐かれたその言葉に、哀歌がブルリと身を震わせる。「ぁ…………」小さな声で、目に涙を溜めて。
「やめてよっ!」
大声で叫びながら、ひながへたり込む哀歌の前に飛び出す。両手をバッと広げて、相手をきつく睨んだ。迫力としては、相手の方が断然に上だったけれども。私と紫乃ちゃんも急いで外に出て彼女達の方へ近付く。ひなが叫び続ける。
「哀歌が何したって言うの、ぶつかっただけじゃない! 謝ってるんだし、もう責めないでよ!」
「はぁ? ぶつかった『だけ』? 何その言い方、上からって感じでムカツクんですけど。あんたもそっちの奴の味方って言うんだ?」
ギャルの子がそう言って哀歌を見下ろしせせら笑う。カッと顔を赤くしたひなに、真逆に顔を青くさせている哀歌は「ひな! もういいよ、やめて!」と叫び縋りつく。
そんな二人の行動でさえも可笑しいのか、ギャルは鼻で笑う。
「先輩達の悪口を言うの、やめてもらえませんか」
いつの間にか紫乃ちゃんがギャルの真横に行き、静かにそう呟いた。ギャルは訝しげに紫乃ちゃんを見つめ、「『先輩』って、あんた一年? 後輩の癖に口出ししないでくれる? 後でどうなっても知らないよ」
脅し文句としてだったのか、自信たっぷりにギャルが言う。けれどそれに対する紫乃ちゃんの反応は、怖気づくようでも恐れるようでもなく、ただ無言で相手の目を見つめるだけだった。
「…………何よ」
「……………………」
「何だって言ってるのよ」
「……………………」
「黙ってんなよ! 殺すよ!?」
紫乃ちゃんが鼻で笑った。
「そんな事出来ない癖に」
ブチッと、彼女がキレたのが分かった。顔を真っ赤にさせ、血走った目で紫乃ちゃんに手を振り上げる。紫乃ちゃんは何をするでもなく、ただ相手を哀れんだような目で見つめているだけだった。ひなと哀歌はあっと驚きながらそれを見ているだけだ。――――だから。
「駄目ですよ、暴力は」
そう言いながら背後から彼女の振り上げた手首を掴む。ギリッと力も入れてみたけれど、露骨に相手が痛がることは無い。ただ私にキツイ眼差しを向けて「なに」と低い声で呟くだけだった。
「何で関係無いあんたがウチの邪魔するの。邪魔しないでよ、ウチはこいつがムカツクからやってんだよ!」
そう紫乃ちゃんを睨みつけながらがなる。紫乃ちゃんはクスリと敵意の無いような微笑みを浮かべただけだったけれど、それが余計に彼女を苛立たせていく。私の掴む手首に力が入る。
「何やってんだお前ら、声うっせーぞ」
突然玄関からかけられた言葉に、皆が顔を向ける。特徴的な白い長髪を窓から垂らしながら、棺先生が私達を見ていた。
「あっ……先生」
ギャルの子の顔が赤くなり、一気に怒りが治まって行く。そしてもう私達は眼中に無いかのように小走りで先生の元へ駆けて行き、わずかに高くなった声のトーンで話しかける。
「先生、ウチこないだの理科のテスト八十点取ったんだよ。先生に放課後教えて貰ったおかげだよ」
「おうそうか、それは俺も教えた甲斐があったな。よくやったな、絵梨」
そう言って棺先生は彼女の頭を撫でる。彼女はトロンとした目でうっとりと先生を見つめ、心底嬉しそうに微笑む。そうか、あの子絵梨って言うんだ。
「ところで、お前の声聞こえてたぞ。まさか一年生虐めてたのか?」
棺先生が窘めるように絵梨に言い、彼女はビクッと反応しながら勢い良く首を振る。
「違うよっ! ウチ、そんなことしてな「せんせー、私、その先輩に『調子乗んな』って言われましたー」……はぁ!?」
紫乃ちゃんがおどけたようにそう宣言し、「こら紫乃ちゃん」と私が頭を小突く。テヘッと舌を出して無邪気な紫乃ちゃんと対象に、絵梨は酷く憤慨した様子で睨みつけていた。棺先生は僅かに口だけで微笑みながら、
「絵梨、駄目だぞ後輩虐めちゃ。二年生になったんだから、先輩としてしっかりしなきゃいけないんだぞ」
「…………っ」
「ほら、今日はもう帰りなさい。……また放課後いつでも勉強教えてやるから。勉強頑張れよ」
絵梨は棺先生の言葉に素早く頷き、駆け足で校門へ向かって行く。私達の横を通り過ぎる時、ジロリと紫乃ちゃんを睨み、「覚えてろ」と囁いて。
ひなが哀歌を立ち上がらせ、皆でしばしぼうっと突っ立っていた。窓から身を乗り出している先生が興味津々な目でこちらを見つめていたので、一旦そっちに向かってみる。
「なあ、なあっ。修羅場?」
「まあそんなもんですけど…………先生、遂に生徒にまで手ぇ出したんですか?」
「いや、出したっつってもそんなじゃないし。そもそも俺は高校生には興味ないさ。興味があるのは死体と小学生以下の幼女だけ」
「ゲス野郎」しかも少しは手出したのか。
呆れながら哀歌達の元に戻る。哀歌は少し戸惑いながらも、「……ありがとう。私の所為で、ごめんね」
「なに言ってんの。私達、友達でしょ!」
元気良く胸を叩くひな。
「そうだよ、友達なんだからいつでも助けるよ」
「今日から私の先輩になった人なんですから、何かあったら守ります!」
そんな私達にへらっと微笑み、哀歌は再度「ありがとう」と呟いた。それから紫乃ちゃんを見て、心配そうに表情を曇らせる。
「でも……私の所為で、紫乃ちゃんが…………」
「え、私? ……ああ、大丈夫ですよあれくらい! あんなギャルなんかケチョンケチョンに叩きのめしてやりますって!」
ケチョンケチョンって死語のような気がする。まあそれはともかく、紫乃ちゃんがやけに自信満々なことが気になった。
でもそれは聞かないでおこうと思う。
「私、強いですから!」
紫乃ちゃんはそう言って、二カッと歯を見せて笑った。




