第35話 同居生活
「パパもママも大嫌いだ。ぼくが好きなのは、海月だけ」
毎日毎日、ぼくはそう思っていた。
ぼくのパパとママはいつも喧嘩して、むかつくからってぼくと双子のお姉ちゃんの海月を傷付けていた。
パパは「お前らがママに似てるから」って言って殴って。
ママは「貴方達はパパに似てるから」って言って蹴って。
二人の子供だから、どっちにも似ているのは当たり前だって分かってたけど。それでも二人はそんなことがどうでも良いみたいだった。
前に一度聞いた。ぼくたちは『サンドバック』代わりなのだと。意味はよく分からなかったけど、パパもママもぼくたちが嫌いなんだっていうことは知った。
ぼくたちが学校に行くと、みんなはとてもいやそうな顔をしていた。そしてすぐに、誰もその場にいないかのように無視をする。それがぼくと海月の体に付いているいっぱいの傷のせいだって分かってはいたけど、どうすることもできない。先生には知られてないだけよかった。無視されることは最初はすごく悲しかったけど、すぐに慣れた。
学校はぼくと海月にとってとても楽な場所だった。友達はいないけれど、痛くないから平気だった。
それでも家に帰ると痛くなる。ぼくも海月も蹴られて殴られて罵られて。何回もごめんなさいって謝ったけど、許してくれなかった。逆にたばこを押しつけられた。熱かったし痛かった。
そんな生活の中で、海月だけがぼくの生きがいだった。
海月もぼくと一緒に傷付けられていつも泣いていたけれど、ぼくにいつも笑いかけてくれた。パパに蹴られて顔が腫れた時も、ママにぶたれて頬が赤い時も、さんざん罵られて泣いている時も。
そんな海月がぼくは大好きだったから、ぼくは生きていられるんだなぁって。なんとなくそう思っていた。
でもある日、海月がパパにとても叱られた時があった。
パパの本を破いちゃったから、ズルズル首を引きずられて床に倒されて。パパは怒鳴り声を上げながら海月を殴って蹴って罵って蹴って。蹴って蹴って蹴って。
海月が泣きながら何度も謝っているのに、パパは顔を何度も蹴っていた。ぼくがパパに殴りかかっても、すぐに顔を殴られて駄目だった。
ママもそれを見ていたけれど、すぐに見なかったことにしてコーヒーを飲んでいた。
痛くて痛くて泣きそうで、でも海月のあやまる声と泣き声が頭の中で響いて。
パパとママが憎くて憎くて悔しくて許せなくて。ぼくの大好きな海月をいじめて、ぼくもいじめて。すごく痛くて苦しくてそして、
殺したくて。
だから。
「じゃあほら、二人とも服脱いで」
「あ、は、はい……」
言葉だけを抽出すると、おかしな光景に思えるかもしれないなあと思った。普通にお風呂に入る為に服を脱ぐのであって、他意は無い。
海星くんだけならず、海月ちゃんもちょっと服を脱ぐのを躊躇していた。もぞもぞと服の中に手を入れはするものの、そこから動かない。
「何を恥ずかしがってるのさ。姉弟……双子? なんだし、まだ十一歳の子供なんだから男女関係ないさ」
実際、子供だからって男女を分けるか否かの年齢は知らないけど。その歳なら大丈夫じゃない、かな? そう言えば二人とも十一歳って言ってたけど、見た目が細いからかもう一、二歳は下に見える。
「あ、そうじゃなくて……えと…………」「つべこべ言わずに脱げっ!」「わっ!」
無理矢理海星くんのTシャツを引っぺがす。腕は抜いていたから楽に取れた。
その時、二人が服を脱ぐのを躊躇していた理由を理解した。
「…………」
海星くんの体には、無数の傷があった。小さな物から大きい物まで、それに赤や青色の痣も。どれも薄く消えかけの状態だけれど、見ていて痛々しいことには違いない。
「……海月ちゃんも脱ぐのさっ!」「うにゃっ!?」
これ以上見続けていたら、哀れんでいる事が悟られてしまいそうだったから、海月ちゃんの服にも手をかける。同情されるのはきっと誰でも嫌だから、特に気にしていないフリをする。
海月ちゃんの体にも同様、傷や痣があった。二人に共通するのは、どちらも傷などが服に隠れて見えない位置にあると言うことか。
「さー入ろう入ろう。下は自分で脱げるかな?」
わざと明るい口調でそう言うと、二人は少しはにかんで、ゆっくりとながらもズボンを脱ぎ始めた。
「ちょっとぉー、この服ぶかぶかなんですけどー!」
「悪いなあ。しょうがないけど俺用の服しか無いんだ」
お風呂から上がった後に着る服の問題について思い出した。結局皆棺先生の服を借りることになったが、どれもこれもぶかぶかすぎた。
私はまだ着れる範囲だから大丈夫。袖がだらりと垂れるぐらいに長く、腰回りもぶかぶかだけど、着れることには着れる。
だけど海星くんと海月ちゃんはぶかぶかにも程があるレベルだ。二人とも灰色のパーカーを着ているけれど、袖は床に付く寸前で、裾も足に引っ掛かって転びそう。フードを被ると顔は全く見えなくなる。
「海月、我儘言っちゃ駄目だよ」
「……分かってるわよ」
海星くんが窘め、膨れっ面でそれを聞きいれる海月ちゃん。そのまま一歩歩こうとして――べちっ「いたっ!」案の定裾に躓いて転んだ。
「あはは、大丈夫か? 流石に長すぎたな、俺身長高いし」
さり気無く自慢を呟いた棺先生に抱えられた海月ちゃんはフードを取る。少し赤くなった鼻と膨れっ面でそっぽを向きながらも、棺先生に抱き上げられ続ける。
足をぶらぶらと前後に揺らし、少し欠伸をして目を擦る。眠いのかな。
「…………」
ねえ君達、これからどうするの? そう問いたかったけれど口を閉じる。二人とも少し疲れていそうだし、今話すのは止めておこう。
けれど棺先生も同じことを考えていたらしい。海月ちゃんを一度床に座らせて頭を撫でながら、私の方に目線を投げかけた。
「……どうしましょうかね」
「どうするかな――――なあ、お前ら家あるのか?」
棺先生が海星くんに尋ねる。海星くんもしきりに目を擦りながら答える。
「いえ……無いです」
「じゃあ今までどうやって生活してきたんだ?」
「…………誰もいない橋の下とか、そう言う所に住んでるおじさん達にご飯貰ったり……寝させてもらったり…………公園で寝たり」
近くに家があるということはやっぱり嘘だったんだな。海星くんは眠いのか、それとも今更嘘を付いてもどうしようもないと分かっているのか、多分正直に話してくれる。
ホームレスのおじさんにご飯を分けて貰ったり寝床を貸して貰ったりで半年か。この子達は大分運が良いのかもしれない。まだ幼いこの子達を道具として使って儲けるホームレスもいそうだから。それだけじゃなく、この半年間の一度も警察に保護されたりしていないのが凄いな。よく逃げられたもんだ。
「んー、じゃあこのまま帰すわけにもいかないしなあ……」
棺先生が困ったように頬を掻く。海星くんは不安そうにそんな棺先生の顔を覗いていたけれど、その目が段々と虚ろになっているのが分かる。海月ちゃんも同様だった。
この子達が生活していけるようにするのなら、誰か大人が引き取らなくてはいけない。けれどいきなりそんな事を快く承諾してくれる人なんているのだろうか?「俺が引き取ってやろうか!」「ええ……やだぁ……」棺先生の言葉はあっさり拒絶された。まあ、一緒に暮したら犯罪に走りそうだしな、先生は。
出来る事なら私だって引き取りたい。だけど私はまだ学生だ。十五歳なんて、同じ子供なのだから、この子達二人を養う余裕は無い。お金だけじゃなく、その他色々と。
じゃあ残るは一人だろうか。
「佐々木さんはどうなんでしょうか?」
「うん、今電話する」
棺先生はそう言って、テーブルに置いてあった白色の携帯を操作する。操作する度にぶら下がっている髑髏のキーホルダーがチャリチャリと音を立てた。
「あれ? 佐々木さんの携帯番号知ってるんですか?」私も知らないけど、大人同士として知ってるんだろうか。
「ああ。こっそり盗み見た時に登録した」
駄目じゃん。
そのうち携帯が繋がったのか、棺先生が少し明るい声で言う。
「あ、もしもしゆっきー? ちょっと用があんだけどさ…………」
「何だよ、その名前」
呆れたような表情の佐々木さんが来たのは、電話をした十数分後だった。
その頃には海星くんも海月ちゃんもぐっすり眠っていた。猫のように体を丸めて小さく寝息を立て。まだ夜の六時だけれどいいか。
佐々木さんはその二人を見て少し首を傾げる。海星くんの髪を撫でる。
「誰だこいつら」
台詞は冷たいけれど、少し優しげに微笑んでいる。
「いや、実はそいつらさ」
棺先生が説明し、佐々木さんはしばらくそれを黙って聞いていた。聞き終わったところで軽く頷いて、
「じゃあ家が無いのか」
そう言った。焼殺犯だとか毒殺犯だとか、そっちの方は気にもせず。
その後はまた黙り込む……かと思ったら、
「じゃあ俺が預かる」
「え、マジで?」
「ああ」
世間話をするようにあっさりとした言葉。いくら子供とは言えど、人二人を育てるなんてそんな簡単なことじゃない。生活費も大変だ。
棺先生も佐々木さんの顔を覗き込むようにして問う。
「大丈夫なの? 金とか金とか金とか」
「金しかねえのか」
「いやほら、雪ちゃん教会にも寄付してるとか言ってただろ? だから生活キツイんじゃないか?」
「…………」
的を突かれたのか、佐々木さんがまた無言になる。けれどすぐに口を開いて棺先生を見上げた。
「でもそれしかないだろう? 凪も藍川もまだ学生だ。それにお前は信用ならねえし、じゃあ俺しかないだろう。路頭に迷わすわけにもいかないしな」
「さり気無く酷くね?」「間違ってなくね?」「うん!」
肯定すんのかよ。でもま、棺先生に幼い男女二人を預けるのはとても心配だ。佐々木さんの方がまだ大分安全な気がする。
「そうと決まれば、俺の家連れてくかこいつら」
「今ですか?」
尋ねると、佐々木さんは頷いた。
「一晩だけでも、こいつの家泊めとけるかよ」
「今すぐ行きましょうか」
棺先生が「えー、そんなに俺信用無いかなあ」とか呟いていたので頷いた。
道中、海月ちゃんを背負って歩く佐々木さんが言っていた。
「俺、歳の離れた妹いたんだよな」
独り言のように呟いた言葉に取りあえず、
「何歳だったんですか?」
と返す。
「俺が十八歳の時、八才だった」
十歳差か。大分あるな。
てことはえーと……今佐々木さんが二十四だから、十四歳かな。春生まれだったら十五か。
「……今は、どうしてるんですか?」
私の問いに、佐々木さんは首を横に振る。
「孤児院を出た時に別れて、それっきりだ。今はどっかの親戚の所で暮らしてるみたいだが、別れた時から会ってない」
「そうなんですか」
過去形なのはそう言うことか。
そして呟く。
「――こいつら、孤児院にいた子供とか、妹に似てるんだ」
その後はずっと無言のまま歩き、そのうち住宅街に着いた。
「あそこだ」
佐々木さんが首で示したその場所は、ボロボロの二階建てアパートだった。
佐々木さんの住んでいる所はそのアパートの二階の一室だった。部屋自体はとても片付いているが、壁や床などはあまりにボロボロだ。隣の部屋にも住んでいる人がいるようで、テレビの音がうるさい。
正直お世辞にも綺麗とは言えないその部屋に布団を敷き、そこで佐々木さんは海月ちゃんを下ろす。
「……んぁ?」
「あ、起きたか?」
海月ちゃんが少しぼんやりとした目を擦り、佐々木さんを見上げる。思考が上手く働いていないのか呆けている様子だ。
部屋をきょろきょろと見回して、「ここどこ?」と呟く。「俺の家」と佐々木さんが答える。
棺先生が下ろした海星くんも、海月ちゃんに揺すられて起きる。同じように部屋を見て、不思議そうな顔をする。
「ここどこ?」同じ事言ってる。佐々木さんも同じ事を答える。
すると段々二人とも目が覚めて来たのか、きょとんとして質問をした。
「え、ぼく達何かしましたか?」
「あたし達に何かするの?」
二人して少し的外れな台詞。佐々木さんは違う違うと首を振り、少し優しげに話す。
「今日からお前ら、ここに住むんだ」
「「え?」」
「いや、どうせ行くとこ無いだろ? だから俺がお前らを引き取ることにした。嫌なら別に良いけど」
「「…………」」
二人とも、神妙な顔で佐々木さんを見上げる。
佐々木さんも、じーっと二人を見下ろす。
「「「…………」」」
「何この空気」
今まで殆ど喋っていなかった棺先生が呟く。やけに面白そうに三人を眺めている。全く子供みたいな人だなあと思いながら私も三人を興味深く眺めていた。
そしてようやく、海月ちゃんが言った。
「いいの?」
「ああ」
海星くんも少し目をパッチリ開いて、
「いいんですか?」
「勿論」
そして今度は二人で、
「迷惑かけちゃうよ? お金も大変だよ? いいの?」
「大丈夫だ。何とかする」
「バレたら面倒ですよ? ぼく達何も出来ませんよ?」
「バレても何とかする。何もしなくても問題無い」
そして最後に、佐々木さんは言った。
「お前らが何かしようと、迷惑かけようと、何も心配しなくて良い。俺がしたいからするだけだ」
「わー何か雪ちゃん格好良いー」
「黙れ白林。死ね」
冷たい視線と罵りを受けたにも関わらず、棺先生は嬉しそうだった。気持ち悪い。
海月ちゃんと海星くんは少し互いに顔を見合わせていたが、パアッと顔を輝かせる。
「っ……お兄ちゃんありがとうっ!」
「ありがとうございます! 嬉しいです!」
その言葉に佐々木さんも軽く微笑む。二人の頭を嬉しそうに撫で、二人も嬉しそうに微笑む。
こうして見ると、歳の離れた兄妹みたいで微笑ましい。
海月ちゃんが立ち上がり、あちこちの扉や押し入れを指差す。
「ねえっ、部屋とか見ても良い?」
佐々木さんが頷くと、楽しそうに笑った海月ちゃんは海星くんの手を引っ張る。
「海星っ、海星っ! 冒険だよ冒険!」
「海月ー、あまり走ると隣の人に迷惑だよ」
海月ちゃんを窘めながらも海星くんも楽しげに扉を開けに行く。あまり部屋数は多く無さそうだが、とても楽しそうだった。
そして案の定全ての部屋をすぐに見終えた二人が戻って来た。とても嬉しそうで、佐々木さんのそばに座って笑う。
「凄いよ! お部屋いっぱいなの! それに風が吹かない! 寒くない!!」
「窓から空が見えるんです! 星が綺麗ですよ!」
「そうよ! それに畳の部屋にロープいっぱい置いてあって凄い! あれ綱引きにでも使うの?」
「あ、押入れの奥にお札貼ってあるんですよ! 何かわくわくしますね!」
おい最後。
佐々木さんは軽く微笑みながら相槌を打つ。「そっかそっか、お札かー。連れて来ちゃったかなー」何をだ。
と、ふと海月ちゃんが佐々木さんの服を引っ張る。そして無邪気に自身の疑問を言う。
「ねえ、名前なんて言うの?」
「ん? 俺か?」
頷く。別に答えられない訳ではないので、「佐々木だ」と答える。
「下は?」
「雪」
「雪ちゃんって言ってあげるよ喜ぶよ!」「黙れ。雪って呼ぶな」
棺先生を一蹴して、佐々木さんは二人に向き直る。二人は少し考えて、海月ちゃんが言った。
「佐々木お兄ちゃん……って、言ってもいい?」
「…………」
その言葉に、少し佐々木さんが遠い目をしたような気がした。だけどすぐにまた笑う。
「いいぞ、勿論」
「あ、じゃあ、じゃあ、ぼくは佐々木お兄さんで…………」
海星くんにも佐々木さんは承諾し、二人は嬉しそうに笑う。
「えと、これからよろしく! 佐々木お兄ちゃん!」
きゃっきゃうふふ。ほのぼのした雰囲気が流れ、今度は海星くんが私の方を見る。
「お姉さんは……なんてお名前ですか?」
そう言えばちゃんとは名前言って無かったな。表情に笑顔を作り、答える。
「川瀬凪だよ。何て言ってくれてもいいから」
「…………凪お姉さん?」
何だかとても良い響き。私にも妹か弟がいたらこう呼ばれてたんだろうか。
海月ちゃんも元気良く、
「凪お姉ちゃん!」
と言う。そうですよ、凪お姉ちゃんです。
人って、名字か名前のどちらかが呼び易かったりする。私は大体凪って呼ばれるけど、藍川や佐々木さんは名字のように。棺先生は先生かロリコンのどちらかだろうか。あ、でも佐々木さんは白林って呼ぶな。
「じゃあ俺のことは何て呼ぶ? お兄ちゃんでもお兄さんでもにぃにでもいいぞ!」
「……ロリコン」「変態……」
「子供は正直だからな」
くくっと可笑しそうに笑う佐々木さんと、棺先生を何とも言えない目で見つめる海月ちゃんと海星くん。何故かほんの少し恍惚の表情を浮かべている棺先生。
「…………シュールだ」
そう呟いて肩をすくめた。
「パパもママも置いてって、海星といっしょに遠くに行きたいな」
あたしがそう言うと、海星はそうなるといいね、と微笑んだ。それが無理だとは知りながら。
あたしと海星の体にはたくさんの傷があった。ぜんぶパパとママが付けたものだ。
パパに殴られた時のお腹の痣も、ママに殴られた時の頭の怪我も。どれもこれもが毎日痛んだ。
それでも海星とおそろいの場所に傷ができたら少しうれしかった。
あたしは海星がいればそれでよかった。
パパとママに殴られても、海星はあたしを殴らない。
海星はあたしが大好きだから、あたしも海星が大好きで。
ずっと一緒にいたいなあって。そう思っていた。
ある日あたしは誤ってパパの本を破いてしまった。その時のことは今でもせんめいに覚えている。
さあっと血の気が引いて、めまいがしていた。泣きそうになりながら直そうとしたけど、そこにパパがやって来た。
パパはあたしと破けた本を見て、一歩前に進むと同時にあたしのお腹を蹴りあげた。
すごく痛くて苦しくて。吐きそうになったけど、何も食べてなかったからお腹からは何も出てこなかった。
その後はずっと、あたしはパパに謝り続けた。ごめんなさいごめんなさいって、のどがかれるまで泣きながら。けどパパは許してくれなかった。
海星がパパに殴りかかったけど、すぐに返り討ちにあって倒れてしまった。
何度も何度も顔や体を蹴られて。苦しくて痛くて。パパが飽きるまでずっとあたしは泣いていた。
その日の夜中のことだった。
あたしが眠っていると、夜遅くまで起きているパパとママのいるはずのリビングから鈍い音がした。
おどろいたけど、行ったら殴られそうだと思って。だけど隣にいるはずの海星がいなかったから、あわててそっちに向かった。
そしてそこで見た光景は、きっと夢の中にいるんだと思うようなものだった。
パパとママが床に倒れて、そばには二人のお気に入りのコップが二つ転がっている。パパのコップの方は割れて、中に残っていたコーヒーが零れていた。
そしてそんな二人を、無表情のまま、海星が見下ろしていた。
「……海星?」
あたしがふるえる声でそう呟くと、海星はこっちをゆっくり振り向いた。
手に持っていた、白くて丸いお薬を入れたビンを握りしめ、今まで見たことがない笑顔になる。
楽しそうでも嬉しそうでもないはずなのに、その笑顔はとても不気味だった。
海星が睡眠薬を二人にたくさん飲ませたというのが分かった。もしかしたら、今眠っているだけの二人はそのうち死んでしまうかもしれないことも。
そして、海星は笑顔で叫ぶ。
「海月、これでぼくたち、幸せになれるよ!」
嘘だ。
パパとママを。人を殺して、幸せになんかなれるわけない。
それでも、パパとママが死んだのなら、痛くなる事はもうない。
「海星……」
「どうしたの? 海月。そんなにふるえて」
あたしの体はガタガタふるえていた。けれど、よく見たらそれは海星も同じだった。
微かに足がふるえ、見開いた目にもうっすら涙が溜まっている。
きっと、ざいあくかんとか、こうかいとか。そういうものが海星をおそっているんだって。
「…………」
ああ、そうだった。
あたしはお姉ちゃんだもの。
「ねえ海星」
あの言葉も、きっと今なら叶うだろう。
「パパもママも置いてって、海星といっしょに遠くに行きたいな」
家に振り返る事はないまま、あたしと海星は逃げ出した。
海星の手にはバッグと睡眠薬を。あたしの手にはバッグとマッチ箱とライター、そして一本だけ使った使用済みのマッチ棒。
今頃パパとママの周りに敷き詰めた紙は、綺麗に燃えているだろうか。元栓をゆるめたガスには上手く火がつくだろうか。
その日の夜空は星が綺麗で、あたしと海星の目にはとても輝いて見えた。
しっかりと手をつないで走りながら、あたしも海星も泣いていた。




