第二十六話 将来
ガラス越しに見下ろすオフィス街には、冬の鈍い日差しが冷たく反射していた。
フトダマ社の社長室。
デスクの向かい側では、命がノートパソコンの画面を開いたまま、落ち着かない手つきでコーヒーカップの取っ手に触れている。
今日この時間、JEホールディングス本社では定例取締役会が開かれている最中だ。
フトダマ社はJEホールディングスから二割の出資を受けた持分法適用会社であり、子会社ではない。
当然ながら、別会社の役員である自分たちがJEの取締役会に直接同席する権限はない。
あらかじめ金山社長とすり合わせたシナリオがどう転ぶか、この部屋で連絡を待つしかなかった。
(まあ、金山なら抜かりなくやるはずだ。あの男は無謀な投資で自社の足を引っ張られるのを嫌う現実主義者だからな)
脚を組み替え、膝の上で指を軽く交差させる。
事前に打ち合わせた骨子は明確だ。
烏太朗が推し進めようとする「10兆円のフィジカルAI構想」は、LTC社を巻き込んだ「三社連合での長期調査課題」として形式上立てつつ棚上げにする。
その一方で、すでに社内検証でコスト削減の実証が取れている「フトダマ・オフィス」をメイン議案に据え、JEの法人販売網に乗せて外販していく。
デスクの上のスマートフォンが短い振動音を立てた。
ディスプレイに『JEホールディングス 金山』の表示が浮かび上がる。
「来たよ、鏡子さん」
「ええ、出ましょう」
通話ボタンを押し、スピーカーモードに切り替える。
「お電話ありがとうございます。石凝です」
『お疲れ様です、石凝副社長。玉屋社長もお揃いでしょうか。先ほど取締役会が閉会しました』
スピーカーから聞こえてきた金山の声は、いつも通り淡々とした冷静なトーンだった。
過剰な熱量はなく、事務的な報告の響きを保っている。
『結論からお伝えします。事前に協議した内容通りに通過しました。1号議案の「フトダマ・オフィス」外販事業については、先日の先行導入データ資料が効きましたね。数字が固かったこともあり、異論なく承認されています』
「ありがとうございます、金山社長。迅速なご手配に感謝いたします」
『いえ、合理的な案であれば通すのが私の役割ですから。それと、2号議案のフィジカルAIの件ですが、こちらも予定通りLTC社を含めた「三社連合での調査検討」という形で処理しました。烏太朗会長も、大手キャリアとの共同プロジェクトという見栄えには納得されたご様子で、円滑に進行しました』
(よし。あの親父のプライドを傷つけずに、現場への余計な口出しを封じ込めたな)
「会長の反応はどうでしたか」
『上機嫌でしたよ。近々行われる経済団体の新年交歓会で、LTCの代表陣、特に子会社を率いる鳴神社長と顔合わせをするようセッティングすると張り切っておられました。詳細は追って秘書室から連絡が入ります』
「承知いたしました。引き続きよろしくお願いいたします」
通話を終えると、命がホッとしたように息を吐いた。
「よかった……金山社長、本当に話した通りに進めてくれたんだね」
「ええ。あの人は感情ではなく、数字とリスク回避で動く経営者ですから。約束は守ってくれると思っていました」
前方の脅威をひとつ回避したものの、意識はすでに次の局面へと向いていた。
(次はLTCの鳴神武己か……。だが、あの男と接触する前に、こちらの足元を完璧に固めておかなきゃならねぇ)
その後、資本防衛と組織体制について詰めるため、二人は資料を広げていた。
「命さん。JEの件はひとまず整理がつきましたが、LTCとの三社連合が本格化すれば、外部からの資本参加や出資の打診が必ず発生します。だからこそ、今のうちに徹底的な節税と防御を兼ねた仕組みを作っておきたいのです」
「防衛と節税……?」
「ええ。例えるなら、命さんが大切に建てた『フトダマ』という大きな家を守るための頑丈な金庫作りですね。そのために、私たちのプライベートな資産管理会社……『合同会社kokoパートナーズ』を設立しましょう」
茎一は手元のタブレットに、簡単なイラストのような構成図を映し出した。
「現在、フトダマという家(株式)は、命さん個人が八割という巨大な鍵をそのままポケットに入れて持ち歩いている状態です。でも、会社の価値が跳ね上がっている今、個人でその鍵を持ち続けると、税金という大きな嵐が吹いた時に、とてつもない額の税金に持っていかれかねません」
命は画面の図を見つめながら、興味深そうに頷いた。
「なるほど……僕個人で直接抱えていると、税金の嵐で家の一部を持っていかれちゃうかもしれないんだね」
「その通りです。ですから、賢く合法的な節税対策を行いましょう。命さんが持っている八割の鍵のうち、五割分を新しく作る『kokoパートナーズ』という頑丈な金庫に預けるのです。命さん個人の直接分は三割に下げておきましょう」
「kokoパートナーズの金庫に五割、僕が直接三割……合算すれば、僕の鍵は八割のままだね。でも、その金庫の管理はどうなるの?」
「金庫の『中身』は、ほぼすべて命さんご自身のものです。出資比率は命さんが99%。私は金庫の管理を担う代表社員になる都合上、ごくわずか1%だけ出資させてください。そして、金庫の日常的な『鍵の管理』は、私が引き受けます」
茎一は柔わらかな笑みを向けた。
「命さんが金庫のほぼ全部の持ち主ですから、家から生まれる財産や所有権は、実質的にすべて命さんのものです。命さんが創業者として八割相当の家を所有する主であることは何一つ変わりません。一方で、面倒な鍵の保管や書類の手続きを私が引き受けることで、命さんは税金やお金の心配から解放されて、大好きなAIの開発だけに集中できるようになります」
さらに茎一は、図の端にある小さな枠を指し示した。
「そしてもうひとつ、大きなルールを決めておきます。今後、LTC社などの外部から『うちも家づくりを手伝いたい(出資したい)』と言われても、あげる鍵の量は最大でも1割(10%)までに固く制限します」
「1割までに制限……?」
「はい。例えるなら、シェアハウスの決まり事ですね。現在JE社が2割の部屋を持っていますが、LTC社を1割に抑えれば、外部のゲストを合わせても3割にしかなりません。ゲストを迎える時は部屋を増築する形になるので、命さんの八割もJE社の2割も、それぞれ少しずつ薄まります。それでも、外部のゲストは合わせて3割にも届きません。誰かが勝手に家の間取りを変えたり、命さんを家から追い出したりできる『強大な拒否権』は、3分の1を超える鍵を持たないと使えないルールになっているのです。外部のゲストを合計で3分の1以下に留めておけば、外から何を言われても、私たちの家は絶対に安全ですから」
茎一は、難解な法律用語やパーセンテージの専門説明を省き、命の創業者としての資産と技術を守る「徹底的な節税と金庫作り」というシンプルな例え話として提示したのだった。
(よし……命の顔も立てつつ、すんなり理解してくれたな。表向きは命のための節税と金庫作り……だが、本質はそれだけじゃねぇ)
茎一は内心で不敵な笑みを深く刻んだ。
(出資のほとんどが命の節税会社だとしても、kokoパートナーズの『代表社員』として実際の議決権を振るう権限を持つのは、1%だけ出資したこの俺……『石凝鏡子』だ。kokoの五割の議決権を俺が預かることで、フトダマの議決権の半数を実質的に俺が握ったことになる。烏太朗の親父が喉から手が出るほど欲しがっていた『フトダマの支配権』を、親父に気づかれることもなく、俺たちで先回りしてガッチリ囲い込んだわけだ)
もちろん、命を裏切る気など毛頭ない。
(乗っ取りと言えば乗っ取りだが、俺の目的は命を排斥することじゃねぇ。命の顔をしっかりと創業者として立てつつ、一緒に外部の有象無象や烏太朗の親父からこの城を守り抜き、フトダマを世界へ売り込んでいく最強のハンドルを俺が握るためだ。命の純粋な想いと技術を、俺が現場と経営の両面から全力でバックアップしてやるんだよ)
胸の中で熱く決意を固めながら、茎一は可憐な瞳で命を見つめた。
「命さんの大切な技術と資産を守るための、とてもスマートな節税対策です。いかがでしょうか、命さん?」
命は画面の図と茎一の目を交互に見つめ、やがて胸のつかえが取れたような、温かく晴れやかな笑顔を浮かべた。
「……わかった、鏡子さん! 例えで説明してもらうとすごく分かりやすいよ。僕一人だったら、そこまで考えが及ばなかったと思う。僕の技術と会社を守るために、そこまで考えてくれたんだね」
命の手が机越しに伸ばされ、茎一の手を温かくく包み込んだ。
「kokoパートナーズの設立、すぐに進めよう。君が代表として僕の金庫と家を守ってくれるなら、これ以上心強いことはないよ。これで僕は、心置きなく新しいAIの研究に没頭できる」
「ええ、命さん。任せてくださいね。二人でしっかり防衛体制を組んでおけば、どんな雑音にも揺らぎません」
(よし、これで根幹の防壁は完成だ。命の創業者としての尊厳を守りながら、俺が経営の舵を全力で切れる)
◆◆◆
会社と資本の防衛策を整理し終えたところで、茎一は少し表情を和らげつつも、真剣な眼差しで命に向き直った。
「命さん……会社の資本構造や防衛も大切ですが、私たち個人としても、入籍する前にきちんとお話し合いをしておきたい『お金と将来のこと』があります」
「個人の……お金と将来のこと?」
命は不思議そうに首を傾げた。
「ええ。世間では『愛があればお金のことなんてどうにかなる』とか『結婚する前からお金の揉め事の話をするなんて不粋だ』と曖昧にしてしまう夫婦も多いですが……実際には、そういう部分をうやむやにしておくことこそが、後々すれ違いや深刻な対立を生む最大の原因になります。お互いを深く愛し、信頼しているからこそ、価値観やルールを明確にして事前にスッキリさせておくべきだと考えています」
命は真剣な表情を浮かべ、深く大きく頷いた。
「……うん、すごく納得できるよ。理系のエンジニアとしても、『曖昧な前提のまま仕様決定を先送りにする』のはシステム構築で最も危険なバグの元だからね。感情で逃げずに、ルールや前提条件を明確にするのは大賛成だよ。鏡子さんは、具体的にどんなことを話し合っておきたいんだい?」
命の柔軟な理解力に頼もしさを感じながら、茎一は少し頬を染めつつ、言葉を選んで切り出した。
「まずは……私たちの家計と生活費の管理。そして……少し気が早いかもしれませんけれど、将来、私たちが子供に恵まれた時のお金のかけ方や教育方針、資産の残し方についてです」
「子供……!」
命の目がわずかに丸くなり、どこか愛おしそうに目元を緩めた。
茎一は可憐な手を胸元に添えながら、自分の考えを誠実に伝えた。
「私たちは幸いにも、フトダマの成功や資産管理会社のおかげで、普通では考えられないほどの資産を手にすることになります。ですが……子供が恵まれすぎた環境で育ち、無限の財産をそのまま無条件で継承・相続することが、果たしてその子の人生にとって本当に幸せなことなのか……という問題があります」
(俺自身、泥水すするような過酷な環境から自力で這い上がってきたからこそ分かる。最初から巨額の資産を与えられすぎた人間は、自分自身の足で立つ強さやハングリー精神を失うリスクがあるんだ)
茎一は自分の経験と観察眼に基づいた価値観を、自然な言葉に変えて紡ぐ。
「十分な教育や不自由のない生活環境を整えてあげるのは親としての当然の責任です。ですが、必要以上の贅沢や莫大な遺産を残して子供を甘やかすのではなく……私たちが生み出した資産の一部は、プライベートカンパニー(kokoパートナーズ)を通じて、若い起業家の育成や技術研究への助成、あるいは恵まれない子供たちへの慈善事業へ寄付金として還元していく……そんなお金の使い方を軸にした方がいいんじゃないかなって」
「慈善事業への還元……! すごいな、鏡子さん……」
命は感嘆の溜息を漏らし、心底嬉しそうに目を輝かせた。
「僕も大賛成だよ! 自分が苦労して作った技術や資金が、次の世代のエンジニアや社会の役に立つならそれ以上の使い道はないよ。子供にも『自分自身の力で人生を切り拓く面白さ』を知ってほしいしね。贅沢をさせるより、夢を追える選択肢を広げてあげる教育にしたいな」
「ふふ、命さんにそう言っていただけて良かったです。……こうして二人でじっくり話し合って、お互いに納得した上で同じ方向を向けることが、何より大切ですものね」
「うん! 鏡子さんとこうして未来のことを具体的に話せて、すごく安心したし、もっと君のことが好きになったよ」
あらゆるパズルのピースが完璧に嵌まり込み、二人を揺るがす不安要素は綺麗に消え去っていた。
「さて……これで足元は固まりましたし、あとは新居ですかね?」
「新居!」
そう。
すなわち、マイホームであった。




