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最後のチャイムまで、僕は嘘をつく  作者: 水前寺鯉太郎
第一章

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第九話:鏡越しの事実

旧図書準備室の古い木製のドアが、乾いた音を立てて開いたのは、三月の冷たい雨が降り始めた放課後のことでした。

僕と先生は、いつものように埃っぽい光の中でノートに向き合っていました。先生の容体は、もう一言発するのにも肩で息をするほど悪化していました。僕が先生の独白を書き留めようとペンを走らせていた、その時です。

「……渉さん。そこに、いるんでしょう?」

その声に、先生の肩がびくりと跳ねました。

入り口に立っていたのは、真由美さんでした。傘もささずに走ってきたのか、彼女の肩先はしっとりと濡れ、結んだ髪からは雫が滴っていました。

先生は、とっさに膝の上のノートを隠そうとしましたが、今の彼にはその力さえ残っていませんでした。

嘘の終わり

「真由美……どうして、ここが」

先生の声は掠れ、消え入りそうでした。真由美さんはゆっくりと部屋の中へ歩みを進めました。彼女の視線は、痩せ細った夫の姿と、僕が握っている黒いノート、そして机の上に散らばった薬の空き殻を、静かに、逃さず捉えていました。

「高橋くんが、毎日あなたのカバンを大事そうに持って校門を出るのを見たの。……渉さん、あなたは学校で、こんなに苦しい顔をしていたのね」

彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれました。でも、その表情は驚くほど穏やかでした。

「ごめん、真由美。僕は、最後まで……君の前では、普通の夫でいたかったんだ」

先生はうなだれました。その言葉は、彼が自分に課した「嘘」という名の十字架の重さを物語っていました。真由美さんは先生のそばに歩み寄り、その骨ばった手を、自分の両手でそっと包み込みました。

「知っていたわよ。ずっと前から。あなたが夜中に一人で、痛みを堪えてノートを書いていたことも。私の作ったご飯を、無理して食べてくれていたことも。全部、知っていた」

僕は息を呑みました。先生もまた、目を見開いて妻を見つめています。

「あなたが嘘をつき通すと決めたから、私も嘘をつき通すと決めたの。あなたが『大丈夫』と笑うなら、私は世界で一番、あなたのその嘘を信じる妻でいようって。……でも、もういいわ。渉さん。ここでは、私の前では、もう嘘をつかなくていい。……痛いなら、痛いって言って」

真由美さんの声が震え、堰を切ったように涙が溢れ出しました。先生もまた、堪えていたものが決壊したように、妻の肩に顔を埋めて、子供のように声を上げて泣きました。

三人の沈黙

僕は、その光景をただ見つめていることしかできませんでした。

先生が僕に見せていた「弱さ」と、真由美さんに見せていた「強さ」。そのどちらもが、先生という一人の人間が必死に生きた証だったのだと、ようやく気づきました。

しばらくして、真由美さんは僕の方を向き、優しく微笑みました。

「高橋くん。ありがとう。この人が、私にも見せられなかった『自分』を、あなたにだけは預けられたのね。あなたがいてくれたから、この人は今日まで立っていられたんだわ」

僕は首を振ることしかできませんでした。

「……僕は、ただ、先生の言葉を書いただけですから」

「それが、どれほどこの人の救いになったか。……渉さん、これ、高橋くんに書いてもらっていたノートでしょう? 私にも、少し読ませてくれないかしら」

先生は少し照れくさそうに、でも誇らしげに、僕の手からノートを奪い、真由美さんに手渡しました。真由美さんは一ページずつ、慈しむようにページをめくっていきました。そこには、僕の拙い字で、先生の魂の叫びが刻まれていました。

最期の約束

その日、旧図書準備室の空気は、それまでとは違う、透明で清らかなものに変わっていました。

「三月十日。今日、僕は世界で一番愛する人に、最大の嘘を見破られた。けれど、それは僕の人生で最も幸福な敗北だった。真由美、君の沈黙が僕を生かしてくれた。高橋、君のペンが僕の言葉を永遠にしてくれた」

先生が口にしたその言葉を、僕は真由美さんの隣で書き留めました。

「高橋くん。あと少し、この人の『書記係』を続けてくれる? 卒業式まで、この人が望む通りに。……そのあとは、私が引き継ぐから」

真由美さんの言葉に、僕は強く頷きました。

先生は、妻と教え子という、自分の人生を支えてくれる二人の「共犯者」に囲まれて、窓の外の雨上がりの空を眺めていました。

「……卒業式。最後、あの子たちの前に立ちたいんだ。一分でいい。……立たせてくれ、真由美」

「ええ。分かったわ。あなたが決めたことなら、全力で支える」

真由美さんは先生の肩を抱き寄せ、そう答えました。

加藤渉という男の「生きるための記録」は、いよいよ最終章、卒業式の朝を迎えようとしていました。

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