第五話:台本のない特別授業
「今日は教科書を横に置いてくれ。……残り少ない時間で、僕がどうしてもお前たちに伝えておきたいことがある」
加藤の声は、いつになく低く、そして澄んでいました。
窓の外からは、体育の授業で走る生徒たちの歓声が聞こえます。その「生」の騒音を背景に、加藤はチョークを手に取り、黒板に大きく二つの言葉を書きました。
『日常』と『異常』
「お前たちは、明日が来ることを疑っていないだろう。明日の朝、目が覚めて、この教室に来て、隣の席のやつとくだらない話をする。それが『日常』だと思っている」
加藤はゆっくりと教室を見渡しました。
「だがな、その『日常』は、実は奇跡のようなバランスの上に成り立っている、脆いガラス細工のようなものなんだ。ある日突然、何の前触れもなく、それは『異常』に取って代わられる」
教室が、しんと静まり返りました。
寝たふりをしていた生徒も、スマホを隠していた生徒も、今は加藤の背中を見つめています。
「もし、今日が人生最後の一日だとしたら、お前たちは隣のやつに何を言う? 家に帰って、親にどんな顔を見せる?」
加藤の脳裏に、昨夜の真由美の震える肩が浮かびました。
彼女が「知らないふり」をしてくれたからこそ、自分は今、この教壇に立っていられる。その感謝と、言いようのない切なさが言葉に熱を宿らせます。
高橋の問い
「先生」
静寂を破ったのは、最後列の高橋でした。彼はいつもの冷めた表情ではなく、どこか縋るような、それでいて挑むような瞳で加藤を見つめていました。
「……先生は、もし今日が最後だとしたら、何をするんですか?」
教室中の視線が加藤に集まりました。
加藤は微かに微笑みました。その笑顔は、病を抱えてから初めて見せた、無理のない、穏やかなものでした。
「僕は、……こうして、お前たちの前で授業をしている。それが、僕にとっての『一番生きたい日常』だからだ」
嘘の中に、最大の本音が混じった瞬間でした。
高橋はハッとしたように目を見開き、やがて視線を落としました。
限界の予兆
「いいか。自分の時間を、誰かのために使いなさい。そして、大切な人に『ありがとう』と言うのを、明日に回すな。明日、その人がそこにいる保証なんて、どこにもないんだから」
そこまで言い終えた時、胃を直接掴まれたような激痛が加藤を襲いました。
視界が急激に狭まり、冷や汗が吹き出します。
彼は、生徒に悟られないよう、教卓を両手で強く握りしめました。爪が白くなるほど、死に物狂いで耐えます。
「……今日の授業は、ここまでだ。号令」
いつものように終わらせなければならない。
加藤の体は悲鳴を上げていましたが、その心は不思議なほど充足感に満ちていました。




