第三話:消えない明かり、消せない嘘
夜間外来のロビーは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていました。
加藤は、医師から渡された新しい鎮痛剤のシートをポケットにねじ込みました。
「痛みが増しているなら、投与量を増やします。ですが加藤さん、もう隠し通せる段階では……」
主治医の言葉を途中で遮り、彼は逃げるように病院を後にしました。
冷たい夜風にあたりながら、加藤は自分の頬を何度も叩きます。強張った表情をほぐし、鏡のない暗闇の中で「健康な夫」の笑顔を作り上げました。
21:30 玄関の攻防
「ただいま」
玄関のドアを開けると、温かな出汁の香りが鼻をくすぐりました。奥から、エプロン姿の真由美が小走りでやってきます。
「おかえりなさい! 遅かったわね。また会議?」
「ああ、来年度の予算編成で揉めてね。悪い、遅くなった」
嘘が、あまりにも滑らかに出ます。加藤は自分の心臓が冷えていくのを感じながら、コートを脱ぎました。真由美は夫の顔を覗き込み、少しだけ眉を寄せました。
「顔色、やっぱり良くないわよ。本当に胃炎だけなの? 精密検査、ちゃんと受けたんでしょ?」
「受けたさ。ピロリ菌がどうのこうのって言われたよ。薬を飲めば治るってさ。……それより、お腹空いたな」
話題を逸らすために、あえて明るい声を出します。加藤は食卓についた。目の前には、彼の好物である肉じゃがと、ほうれん草のお浸しが並んでいます。
飲み込めない「日常」
「美味しいよ」
一口、肉じゃがを口に運びました。しかし、病魔に侵された胃は、その愛情のこもった料理を拒絶するように激しく収縮しました。喉の奥までせり上がる吐き気を、加藤は「お茶を飲む」ふりをして必死に押し殺します。
「どうしたの? 箸が止まってるけど」
「いや、あまりに美味しくて、味わってたんだ」
真由美は少し安心したように笑い、自分の今日の出来事を話し始めました。パート先での失敗、庭に咲き始めた花のこと。
その何気ない、明日も明後日も続くはずの「日常」の話が、今の加藤にはどんな悲劇よりも残酷に響きました。
(ごめんな、真由美)
本当は、今すぐこの食卓で泣き崩れたい。「怖いんだ」と叫んで、彼女の胸に顔を埋めたい。けれど、それをすれば、彼女のこの穏やかな笑顔を今この瞬間に奪ってしまうことになる。
加藤は痛む腹部を片手で押さえながら、無理やり残りの食事を胃に流し込みました。それは食事ではなく、彼にとっての「戦闘」でした。
深夜——書斎の告白
真由美が寝静まった後、加藤は書斎のデスクでノートを開きました。月明かりが差し込む部屋で、彼は今日一番の「真実」を綴ります。
二月十六日 深夜。
妻が作ってくれた肉じゃがを、僕は「毒」でも飲むかのような覚悟で食べた。美味しかった。本当に美味しかった。けれど、それを「美味しい」と言うたびに、彼女との未来を切り捨てているような気がしてならない。
医者は「隠し通せる段階ではない」と言った。確かに、体の内側から何かが僕を食い破ろうとしているのを感じる。それでも、あと少しだけ。彼女が僕の病室で泣く姿ではなく、食卓で笑う姿を、一日でも長く見ていたい。
僕は最低の夫で、最高の嘘つきだ。
万年筆を置くと、加藤は机に突っ伏しました。消えない明かりの下、彼の震える背中だけが、誰にも見せない真実を知っていました。




