第二話:眩暈(めまい)の淵 と枯れた微笑
「……っ」
一瞬、天地が逆転したような感覚に襲われ、加藤は反射的に教卓の角を掴みました。
指先に伝わる冷たい木の感触。しかし、自分の体の境界線が曖昧になり、足元から力が抜けていくのがわかります。
視界が白く明滅する。
耳の奥で、キーンと高い耳鳴りが鳴り響き、遠くの部活動の声が水中に沈んだように遠のきました。
(まだだ……ここで倒れるわけには……)
歯を食いしばり、必死に意識を繋ぎ止めようとしますが、体は言うことを聞きません。
脂汗が額ににじみ、喉の奥から込み上げる不快な熱さ。
ガクガクと震える膝を支えきれず、彼はそのまま床に膝をつきました。
「はぁ、はぁ……っ……」
荒い呼吸だけが、無人の教室に虚しく響きます。
床に散らばったチョークの粉が、紺色のスーツの膝を白く汚しました。
その時、閉じたはずのビジネスバッグから、先ほど書き終えたばかりの**「あのノート」**が、滑り落ちるように床へと転がりました。
開かれたページには、先ほど綴った生々しい独白。
『僕は今日、死ぬための準備ではなく、最後まで生き抜くための嘘をつくことに決めた。』
その一文が、まるで嘲笑うかのように加藤の目に飛び込んできました。
「嘘」をつくには、これほどまでに体力が必要だったのか。
「生きる」とは、これほどまでに重いものだったのか。
必死に手を伸ばし、ノートを回収しようとしたその時。
ガラッ——。
背後の扉が、静かに開きました。
「……先生? まだ残ってたんだ」
聞き覚えのある、低くて抑揚のない声。
振り返る余裕もない加藤の背中に、冷ややかな、けれどどこか危うい視線が刺さりました。
そこに立っていたのは、一時間目の授業で目が合った、あの不登校気味の生徒・高橋でした。
「……ああ、高橋か」
加藤は、精一杯の「教師の顔」を貼り付けました。喉の奥にせり上がってくる熱い塊を、強引に飲み込みます。
「驚かせたな。ちょっと……立ちくらみがしただけだ。最近、根を詰めて教材研究をしていたからな。年かな」
自嘲気味に笑ってみせますが、その頬は土気色で、額には病的な脂汗が浮かんでいます。高橋は動かず、入り口に立ったまま、感情の読めない瞳で加藤をじっと見つめていました。
「……先生、顔、真っ白だよ」
高橋の淡々とした指摘が、加藤の胸に突き刺さります。
加藤は深呼吸をし、肺に残ったなけなしの酸素を使って、努めて穏やかな声を出しました。
「大丈夫だ。心配するな」
その言葉は、高橋に向けたものであると同時に、自分自身に言い聞かせる呪文のようでもありました。
「……本当かよ」
「ああ、本当だ。保健室に行くほどでもない。それよりお前、こんな時間まで残ってどうした? 忘れ物か?」
加藤はあえて話題を逸らし、いつもの「小言の多い教師」を演じます。生徒を気遣う側に回ることで、自分の弱さを覆い隠そうとしたのです。
高橋はしばらく沈黙していましたが、やがて視線を落とし、小さく呟きました。
「……別に。ただ、先生がまだいるのが見えたから」
それだけ言うと、高橋は背を向け、廊下へと消えていきました。
その去り際、一瞬だけ彼が振り返ったような気がしましたが、加藤にはそれを確かめる余裕はありませんでした。
一人残された教室。
加藤は再び椅子に崩れ落ちました。
「……ふぅ、……っ」
なんとか追い返した。嘘を通しきった。
その安堵感とともに、激しい自己嫌悪が押し寄せます。
教え子にさえ、真っ当な心配をさせる隙すら与えない。それが「隠し通す」と決めた男の選んだ道でした。
カバンの中のノートが、重く感じられます。
彼はもう一度だけ手帳を取り出し、震える文字で一行だけ書き加えました。
『嘘をつくたびに、僕は一人になっていく。』




