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最後のチャイムまで、僕は嘘をつく  作者: 水前寺鯉太郎
第ニ章

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第二十四話:英雄の帰還 —— 白銀の轍

第3章第8話 :英雄の帰還 —— 白銀の轍

その日、体育館に集まった全校生徒の前に立った藤堂の背中は、いつになく小さく、けれど岩のように硬く、凛としていました。

マイクの前に立った彼は、数秒間、沈黙しました。かつての彼なら、ここで気の利いたジョークの一つでも飛ばして、場を掌握しようとしたでしょう。しかし、今の彼にその余裕はありませんでした。手元のメモを何度も確認し、自分の置かれた状況を、霧が晴れた瞬間を逃さぬように言葉に変換していきます。

「……みんなに、伝えておかなければならないことがあります」

藤堂の声は、スピーカーを通じて静まり返った館内に響き渡りました。

「僕は、病気です。若年性アルツハイマー型認知症といいます。少しずつ、みんなの名前や、昨日話したこと、そして自分自身のことも、忘れていってしまう病気です」

ざわめきすら起きませんでした。生徒たちは、信じられないものを見るような目で、壇上の教師を見つめていました。

「僕は、英雄になりたかった。完璧な教師として、みんなの記憶に残りたかった。けれど、それは僕の傲慢でした。僕は今、自分一人では何もできない、不完全な大人です。計算もできず、道も忘れ、君たちの名前さえも、いつか分からなくなってしまう。……でもね」

藤堂は、メモを置きました。

「僕は、忘れてしまうことが怖くなくなりました。なぜなら、僕が忘れても、君たちが僕のことを覚えていてくれるから。僕がいた証を、君たちがその胸の中に『記録』として持ち続けてくれると信じているからです。……今まで、僕の拙い嘘に付き合ってくれて、本当にありがとう」

藤堂が深く頭を下げたとき、体育館には啜り泣く声だけが満ちていました。

「英雄」という仮面を脱ぎ捨て、最も無防備で、最も誠実な「一人の人間」として告白したその姿は、皮肉なことに、どのヒーローよりも強く、雄弁に生徒たちの心に刻まれました。

最期の日常、黄金色の黄昏

校門を出た藤堂の心は、鏡のように澄み切っていました。

すべての「嘘」を清算し、すべての「記録」を預け終えた。

左腕の腕時計は、午後四時三十分を指しています。高橋先生から受け継いだその針は、今日という日の終わりを、祝福するように刻んでいました。

駅へと続く、緩やかな下り坂。

小学生たちが黄色い帽子を揺らしながら、笑い声を響かせて歩いています。

藤堂はその光景を、慈しむように眺めていました。明日には、この場所の名前を忘れているかもしれない。けれど、今、この瞬間、自分がこの世界の一部であるという感覚だけは、何物にも代えがたい喜びでした。

その時でした。

「危ない!」

誰かの叫び声と、けたたましいタイヤの摩擦音が、静かな住宅街の空気を切り裂きました。

一人の低学年の少年が、落としたボールを追いかけて、信号のない車道へと飛び出したのです。

その視線の先には、積載重量を超えた大型のトラックが、夕日に目を焼かれたのか、少年の存在に気づかぬまま、猛烈な速度で迫っていました。

藤堂の思考は、その瞬間、病による霧を完全に振り払いました。

アルツハイマー。記憶の欠落。計算の不能。

そんな複雑な事象は、生命の根源的な本能の前では無力でした。

(走れ。)

加藤先生が、命を懸けて教壇に立ち続けたように。

高橋先生が、命を懸けてハンドルを路肩に寄せたように。

「誰かの明日」を守るという一点において、藤堂の肉体はかつてないほどの鋭敏さを取り戻しました。

「どけえッ!!」

藤堂は、自分でも驚くほどの咆哮を上げ、地面を蹴りました。

足の筋肉が悲鳴を上げ、心臓が爆発しそうなほどの鼓動を打つ。

トラックの巨大なフロントグリルが、目前まで迫っています。

藤堂は、少年の小さな背中に体当たりをするようにして、彼を歩道へと突き飛ばしました。

――ドォォン。

鈍い衝撃音が響き、藤堂の視界は一瞬で反転しました。

重力の感覚が消え、自分が宙を舞っているのが分かりました。

空は、燃えるような茜色。

かつて高橋先生が、海辺の帰り道に見たであろう、あの最高の夕焼けでした。

アスファルトに叩きつけられたとき、痛みは感じませんでした。

ただ、とても静かでした。

周囲の喧騒も、悲鳴も、トラックのエンジン音も、すべてが遠い海の底の音のように、穏やかに遠ざかっていきます。

(……ああ。……間に合った)

藤堂は、動かなくなった右手の先で、少年の無事を確認しようとしました。

歩道で泣きじゃくる少年の姿が、霞む視界の隅に見えました。

それでいい。それで十分だ。

藤堂は、最後の力を振り絞って、左腕の腕時計を見ました。

風防のガラスは粉々に砕け散っていましたが、その下の針は、まだ死に物狂いで動こうとしていました。

加藤渉、高橋。そして、藤堂。

三人の男たちが繋いできた「時間」という名のバトン。

それは今、この凄惨な事故現場において、ひとつの完成を迎えようとしていました。

「……先生。……僕は、なれましたか」

英雄になりたかった男。

偽物の仮面を被り、称賛を求めていた男。

けれど、最期に彼が掴み取ったのは、誰に見られることも、誰に褒められることも期待しない、純粋な「一人の人間としての祈り」でした。

藤堂の瞳から、一筋の涙がこぼれました。

それは、失われゆく記憶への未練ではなく、自分の人生の最期が、こんなにも美しく、誰かの役に立てたという、至上の幸福によるものでした。

意識が完全に白銀の世界へと溶け込んでいく中、藤堂は、懐かしい声を聞いた気がしました。

『よくやったな、藤堂』

それは加藤先生の、ぶっきらぼうな賞賛。

『さあ、ノートを閉じましょう。続きは、彼らが書いてくれます』

それは高橋先生の、穏やかな微笑み。

藤堂は、満足げに目を閉じました。

その唇には、これまでの人生で一度も見せたことのない、嘘のない、清らかな微笑みが浮かんでいました。

エピローグ:記録の永遠

藤堂の葬儀には、街中の人々が参列しました。

地元のニュースでは「病を公表したばかりの教師、身を挺して幼い命を救う」と、大々的に報じられました。

人々は彼を「真の英雄」と呼び、彼が救った少年の家族は、一生感謝し続けると誓いました。

けれど、藤堂が本当に望んでいたものは、そんな名声ではありませんでした。

葬儀の夜。

真由美さんは、仏壇の前に置かれた、あの「黒いノート」を手に取りました。

加藤先生の三十ページ。

高橋先生の五十ページ。

そして、藤堂の、震えながらも最後まで綴られた数十ページ。

藤堂の最後のページには、病院へ行く直前に書かれたであろう、乱暴な、けれど温かな文字が残っていました。

『英雄とは、特別な誰かじゃない。今日を必死に生き、誰かのために小さな嘘をつき通せる、君たちのことだ。——また、明日。』

ノートを閉じた真由美さんは、それを一人の少年に手渡しました。

藤堂の教え子であり、彼のために計算を代行し続けた、あの「書記係」の少年です。

「先生はね、英雄になんてなりたくなかったのかも。ただ、あなたたちの中に、生き続けたかっただけなのよ」

少年は、重厚なノートを胸に抱きしめました。

彼の瞳には、涙はありませんでした。あるのは、かつての高橋少年が持っていた、静かな「意志の灯」でした。

数十年後。

この学校に、一人の新しい教師が赴任してくるでしょう。

彼は、不登校だった自分を救ってくれた高橋先生と、記憶を失いながらも自分を守ってくれた藤堂先生の話を、新しい生徒たちに語るはずです。

「昔、この学校には、三人の嘘つきな英雄がいたんだ」と。

記録は、途絶えることはありません。

たとえ肉体が滅びても、たとえ記憶が霧に消えても。

誰かを想い、誰かのためにペンを握る者がいる限り。

白銀のノートには、永遠に、新しい「明日」が書き足されていくのです。

(第3章、完)

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