第二十二話:付箋の迷宮 —— 共有される秘密
第3章 第6話 :付箋の迷宮 —— 共有される秘密
藤堂のデスクは、かつては加藤先生のそれと同じように、必要最小限の物しか置かれていない、整然とした場所でした。しかし、季節が梅雨から初夏へと移り変わる頃、その風景は一変していました。
「……藤堂先生、また増えましたね」
隣の席のベテラン教師、松本先生が、少し困ったような、それでいて深い慈しみを湛えたような声で呟きました。
藤堂のデスクの至る所——パソコンのモニターの縁、出席簿の表紙、さらには卓上カレンダーの余白にまで、色とりどりの付箋が、まるで鱗のようにびっしりと貼り付けられていたのです。
『2限目、2-B。漢字テストの範囲はP42から』
『給食費の集計、教務課へ。合計金額の確認は佐藤くんに頼むこと』
『松本先生の誕生日は来週火曜日。おめでとうを忘れない』
それは、こぼれ落ちていく記憶を必死に繋ぎ止めようとする、藤堂の「外付けの脳」でした。数字を失い、論理の糸が切れかけた彼にとって、その小さな紙片だけが、自分を「藤堂先生」という役割に繋ぎ止める命綱だったのです。
綻びと、沈黙の理解
職員室の同僚たちは、決して愚かではありませんでした。
特に、かつて加藤先生の「優しい嘘」を支え続けた佐々木先生や、今の藤堂を支える松本先生たちは、その付箋の山が何を意味しているのかを、痛いほどに察していました。
藤堂が席を立った隙に、松本先生はそっと彼のデスクに近づきました。
そこには、藤堂が書いたと思われる自分宛てのメモがありました。
『松本先生に、昨日の授業の進捗を聞く。恥ずかしがらずに、三回目でも聞くこと』
松本先生は、胸が締め付けられるような思いでその付箋を見つめました。
藤堂は、自分が同じ質問を繰り返していることに気づいている。そして、それを「恥」と知りながらも、教師であり続けるために、プライドを捨てて自分を律している。
その時、職員室の入り口から藤堂が戻ってきました。
「あ、松本先生。すいません、ええと……」
藤堂は自分のデスクに座るなり、モニターの付箋を必死に探しました。指が震え、一枚の付箋が床にひらりと落ちます。
「藤堂先生」
松本先生は、床に落ちた付箋を拾い上げ、彼に手渡しました。
「……昨日の授業の続きは、平家物語の冒頭からですよ。さっきも話しましたけど、何度聞いてもらっても構いません。僕も最近、物忘れがひどくて、同じことを何度も言っちゃうんです。お互い様ですよ」
松本先生の言葉は、完璧な「嘘」でした。
彼は若年性アルツハイマーなどではありません。けれど、彼は加藤先生の時代から続く「職員室の伝統」を、無意識に、そして完璧に実行していました。
「……ありがとうございます、松本先生。助かります」
藤堂は、消え入りそうな声で答えました。
彼は、自分が周囲に気づかれていることを、そして、周囲が「気づかないふり」をしてくれていることを、この時確信しました。
付箋に隠された「本音」
その夜。誰もいなくなった職員室で、藤堂は一人、自分のデスクの付箋を整理していました。
剥がした付箋を捨てる前に、彼はそれらを一冊のノートに貼り付けていきました。
それは「記録のノート」ではありません。自分自身が壊れていく過程を記した、残酷なまでの「証拠」です。
七月五日。
付箋が増えるたびに、僕の中の何かが消えていく。
今日は、自分の印鑑をどこに置いたか分からなくなった。
付箋に『印鑑は右の引き出しの奥』と書いた。
次は、その付箋をどこに貼ったかを忘れるかもしれない。
加藤先生。高橋先生。
お二人は、身体が動かなくなる恐怖と戦った。
僕は今、自分が『空っぽ』になっていく恐怖と戦っています。
同僚たちは、何も聞かずに、剥がれ落ちた僕の断片を拾ってくれる。
その優しさが、今の僕には、何よりも痛い。
藤堂の筆跡は、もはや判読が困難なほどに乱れていました。
文字の線は震え、重なり、まるで叫び声のようでした。
その時、ふと一枚の、色の違う付箋が目に入りました。
それは、彼が書いたものではありませんでした。
彼の出席簿の裏に、こっそりと貼られていた、小さな青い付箋。
『藤堂先生。今日の授業のノート、僕がまとめておきました。先生の机に入れておきます。計算は、もう僕が完璧に覚えましたから』
それは、あの「書記係」志望の少年の筆跡でした。
藤堂は、その付箋を握りしめ、暗い職員室で声を殺して泣きました。
共犯者たちのネットワーク
職員室の「付箋」は、いつしか藤堂だけの物ではなくなっていました。
佐々木先生は、藤堂が忘れるであろう予定を、さりげなくホワイトボードの目立つ位置に書き込みました。
事務の職員は、計算が間違っている可能性のある書類を、何も言わずに「再確認が必要なようです」と優しく差し戻しました。
それは、組織としての「機能不全」を補うための、献身的なメンテナンスでした。
「一人の教師が壊れていくのを、組織全員で支える」。
それは非効率的で、合理的ではないかもしれません。けれど、この学校には、命を懸けて「日常」を守り抜いた先師たちの魂が、付箋の一枚一枚に、確実に宿っていたのです。
藤堂は、涙を拭き、新しい付箋にペンを走らせました。
『明日、みんなに、ありがとうを言う。……忘れてもいいように、三枚書く』
彼はその三枚の付箋を、手の甲と、教科書と、財布の中に貼りました。
藤堂の「記憶」は、もう彼一人の中にはありませんでした。
それは職員室の付箋に、生徒のノートに、そして同僚たちの温かな眼差しの中に、バラバラに、けれど大切に分散されて、守られていたのです。
「……よし。帰ろう」
藤堂は、腕時計を確認しました。
加藤先生から、高橋、そして藤堂へ。
止まることなく動き続けるその針は、今、新しい「愛」の形を刻み始めていました。




