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最後のチャイムまで、僕は嘘をつく  作者: 水前寺鯉太郎
第ニ章

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第二十話:砂の記憶 —— 迫りくる白昼の霧

第3章第4話: 砂の記憶 —— 迫りくる白昼の霧

藤堂が教壇に立ち、泥臭い「等身大の教師」として歩み始めてから、数年の月日が流れていました。

かつて「英雄」になりたかった自分を捨て、生徒たちの失敗を笑い飛ばし、自分の不器用さを隠さない彼のスタイルは、いつしか学校の中でも独特の信頼を勝ち取るようになっていました。

加藤先生、高橋先生。

二人の先師が遺したあの黒いノートは、藤堂の手によって順調にその余白を埋めつつありました。生徒たちの成長、教育現場の矛盾、そして自分自身のささやかな喜び。

「記録」は生き続け、言葉は血肉となって、藤堂の人生を支えているはずでした。

しかし、その日は、あまりにも唐突で、静かな違和感と共にやってきたのです。

消えた「三つの品物」

金曜日の放課後。

一週間の激務を終え、藤堂は心地よい疲労感と共に校門を後にしました。

「今日は真由美さんに教わったレシピで、少し手の込んだ料理でも作ってみるか」

そんな独り言を呟きながら、彼は駅前のスーパーマーケットへと足を向けました。

自動ドアが開き、冷房の効いた店内に一歩足を踏み入れたその瞬間。

藤堂の脳裏で、何かがパチンと音を立てて弾けました。

「……あれ?」

カゴを手に取り、生鮮食品売り場の前に立った藤堂は、自分の手が止まっていることに気づきました。

何を買うために、ここに来たのか。

さっきまで、明確に脳裏にあったはずの三つの食材が、霧が立ち込めるように急速に薄れ、消えてしまったのです。

「ええと……玉ねぎ、と……それから……」

玉ねぎはカゴに入れました。しかし、あとの二つが出てきません。

カレーを作ろうとしていたのか、それとも肉じゃがだったか。

藤堂は立ち止まり、記憶の糸を必死に手繰り寄せました。

昨日の夕飯は何を食べた? 朝、冷蔵庫の中を見て、何が足りないと思った?

考えれば考えるほど、思考は迷宮に入り込み、さっきまで「当たり前」だった情報が、指の間からこぼれ落ちる砂のように消えていきます。

「おかしいな。……まあいい、思い出せないなら適当に買うか」

彼は苦笑いを浮かべ、適当な野菜と肉をカゴに入れました。

けれど、レジに並んでいる最中、彼は自分の指が微かに震えていることに気づきました。これは単なる「物忘れ」なのか。それとも、もっと根の深い、抗いがたい何かが自分を浸食し始めているのではないか。

その疑念は、翌週、確信へと変わりました。

教室に降りた「霧」

月曜日の二時間目、国語の授業中でした。

黒板に漢字を書いていた藤堂は、突然、チョークを握ったまま静止しました。

「……」

書こうとした文字の「つくり」が思い出せません。

何度も書いてきた、馴染みのあるはずの文字。

生徒たちの視線が背中に刺さります。

「先生、どうしたの?」

「忘れちゃったのかよ、藤堂センセー!」

生徒たちの明るい野次。いつもなら「悪い悪い、老化かな」と笑い飛ばせるところです。

しかし、この時の藤堂は、笑えませんでした。

頭の中が真っ白になり、自分の名前さえも危ういような、底知れぬ恐怖が足元からせり上がってきたのです。

彼は震える手でチョークを置き、教科書をのぞき込みました。

文字を確認し、ようやく書き終えましたが、その背中には冷たい脂汗が流れていました。

その夜、彼は自室で、あの黒いノートを開きました。

加藤先生の几帳面な文字、高橋先生の繊細な文字。

それを眺めていると、涙が溢れてきました。

「先生……、癌じゃない。……僕は、自分を忘れていくんですか?」

彼は震える手で、ノートの新しいページに、絞り出すように書き込みました。

五月二十日。

今日、買い物に行った。

店に入った瞬間、目的を失った。

記憶が、バラバラに解けていく感覚。

生徒たちの名前が、一瞬だけ分からなくなることがある。

加藤先生は、身体が蝕まれる痛みに耐えた。

高橋先生は、そのバトンを繋ぐために命を燃やした。

僕は、何をすればいい?

言葉が消えていく。記録さえも、いつか僕に読めなくなる日が来るのか。

アルツハイマーの影

数日後、藤堂は病院の神経内科を訪れました。

一連の検査を終え、医師から告げられた診断は、彼が最も恐れていたものでした。

「若年性アルツハイマー型認知症。……初期段階ですが、進行を遅らせることはできても、完全に止めることは現在の医学では難しい」

医師の言葉が、遠くの部屋で鳴っているベルのように、現実味を欠いて聞こえました。

藤堂は、病院のベンチに座り、窓の外の景色を眺めました。

校庭で部活動に励む生徒たちの声が、どこからか聞こえてくるような気がしました。

(癌なら、戦う相手が見える。でも、これは……)

アルツハイマー。それは、自分という人間を形作ってきた、これまでのすべての「記録」が、一枚ずつ消されていく病です。

加藤先生との出会い、高橋先生の葬儀、真由美さんの笑顔、生徒たちと過ごした泥だらけの日々。

それらがすべて、白昼の霧の中に消えてしまう。

「記録のノート」を預かった自分が、真っ先にその「記録」を失う側になってしまう。

それは藤堂にとって、死よりも残酷な宣告でした。

英雄になれなかった男の「ケジメ」

アパートに戻った藤堂は、棚の奥から一冊の真っ白なノートを取り出しました。

加藤先生から引き継いだ黒いノートは、もうこれ以上、僕の曖昧な記憶で汚してはいけない。そう思ったのです。

彼は、黒いノートを丁寧に布で包みました。

そして、高橋先生の形見である腕時計をその上に置きました。

「……まだ、終わらせない」

藤堂は、自分の頬を強く叩きました。

たとえ、自分という人間が消えていく運命だとしても。

記憶が砂のように零れ落ちるのだとしても。

その「砂」がすべて落ちきるその瞬間まで、自分は教師として、このノートの継承者として、やるべきことがある。

彼は、新しく買った真っ白なノートの表紙に、太いマジックでこう書きました。

『僕が、僕を忘れるまでの記録』

それは、これまでの「英雄たちの記録」とは違う、一人の男の「崩壊と再生」の記録の始まりでした。

藤堂は、ペンを握りました。

今の自分にできること。それは、明日忘れてしまうかもしれない今日を、死に物狂いで紙に刻みつけることだけです。

「……よし」

彼は立ち上がり、鏡を見ました。

そこには、英雄にはなれなかった、けれど、絶望の中でもがくことをやめない、一人の泥臭い教師の姿がありました。

買い物で何を買うべきか忘れてしまったのなら、メモを書けばいい。

生徒の名前を忘れてしまったのなら、もう一度聞けばいい。

「忘れること」を「嘘」で塗り固めるのではなく、「忘れてしまう自分」を抱えて、生徒たちの前に立つ。

それが、藤堂にしかできない、新しい「誠実」の形でした。

第三章 第二十話:結びに代えて

夜、藤堂はスーパーへ向かいました。

手元には、大きく「肉、ジャガイモ、玉ねぎ」と書かれたメモを握りしめて。

店に入り、メモを見ながら一つずつカゴに入れていく。

それだけのことが、今の彼には、大きな勝利のように感じられました。

レジの店員が「ありがとうございました」と微笑む。

藤堂は深く頭を下げ、「ありがとうございます」と答えました。

その言葉の重みは、これまでの人生で感じたことのないほど、切実で温かなものでした。

アパートに帰り、彼はノートに最後の一行を記しました。

僕は忘れる。

けれど、この紙に刻まれたインクは、僕の代わりに覚えていてくれる。

明日、目が覚めたとき、僕はまた、僕に出会う。

藤堂の新しい戦いが、ここから始まろうとしていました。

加藤渉、高橋、そして藤堂。

三人の男たちの物語は、今、最も過酷で、最も人間臭い章へと突入していくのです。

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