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最後のチャイムまで、僕は嘘をつく  作者: 水前寺鯉太郎
第3章

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第十九話:泥だらけの初等教育 —— 偽物の英雄が、真実を綴るまで

かつての僕は、「英雄」になりたかった。

 ヒーロー映画の主人公のように、どんな困難も颯爽と解決し、周囲から称賛の眼差しを向けられる存在。挫折を知らず、常に完璧で、誰からも必要とされる男。それが僕の理想であり、僕が必死に演じ続けていた「仮面」の正体でした。

 しかし、その中身は空っぽでした。誰かに弱みを見せることを極端に恐れ、他人の評価という鏡に映る自分だけを信じていた僕は、就職活動という現実の壁にぶつかり、いとも容易く粉砕されました。大手企業の内定を逃し、面接官に「血が通っていない」と指摘されたあの時、僕の世界は一度、完全に止まったのです。

 自暴自棄になり、部屋に閉じこもっていた僕を繋ぎ止めたのは、皮肉にも僕が「自分には相応しくない」と遠ざけていた、あの黒いノートでした。高橋先生の葬儀で、真由美さんから託された、加藤渉と高橋の魂の記録。僕は、埃を被りかけていたその表紙を、震える指先で開き直しました。


一本の補助線


 読み返して、最初に目に入ったのは、加藤先生が記した、ある冬の日の言葉でした。

 二月二十五日。

 嘘をつくのは、とても体力がいる。けれど、彼が僕を憐れむことなく、いつものようにガハハと笑って立ち去っていく背中を見て、僕は救われた気がした。

 僕は、その一文の前で、長い時間動けなくなりました。

 これまで僕は、加藤先生や高橋先生を「強靭な意志を持った、本物の英雄」だと思い込んでいました。死を前にしても動じず、自分の弱さを完璧に隠し通して教壇に立ち続けた、選ばれし者。だからこそ、自分のような「偽物の英雄」には、その遺志を受け継ぐ資格などないのだと、勝手に劣等感を抱いていました。

 けれど、それは違いました。

 この一文に滲んでいたのは、強さではなく、「弱さ」でした。

 加藤先生は、死の恐怖に震えていた。嘘をつくことに疲れ果て、体力の限界に喘いでいた。そんな彼を支えていたのは、彼自身の意志の力だけではなく、「騙されてくれている周囲の日常」だったのです。同僚の佐々木先生が、あえて何も聞かずに羊羹を差し入れてくれる。その「無神経なふりをした優しさ」に、先生は生かされていた。

 高橋先生も同じでした。不登校だった彼が、先生の嘘を支える「書記係」になったことで、彼は自分の生きる場所を見つけた。彼らは二人とも、「強いから」嘘をついたのではありません。誰かを愛し、誰かに生かされている自分を自覚していたからこそ、その「愛おしい関係性」を壊さないために、泥を啜るような思いで嘘を演じ続けていたのです。

 自分のために「英雄」を演じていた僕とは、根底から違っていました。僕は自分のプライドを守るために仮面を被っていましたが、彼らは誰かの「明日」を守るために、自分を殺して嘘をついていた。

「……僕は、なんて浅はかだったんだ」

 真っ暗な部屋で、僕は一人で声を上げて泣きました。ノートを濡らさないように、必死に顔を背けて。

 その日、僕は内定をもらっていた数少ない企業すべてに、辞退の連絡を入れました。安定した将来も、見栄えの良い肩書きも、今の僕には必要ありませんでした。

 僕が行くべき場所は、かつて自分が否定し、逃げ出したあの場所——教育の現場でした。「英雄」として君臨するためではなく、泥だらけの「嘘つき」として、誰かのそばで共に呼吸するために。


春の嵐、不格好な船出


 大学卒業後、僕は臨時採用の教員として、ある市立中学校に赴任しました。

 赴任先は、古びた校舎が春の嵐に揺れる、お世辞にも華やかとは言えない学校でした。そこには、かつての僕のように虚勢を張って周囲を威嚇する生徒や、あるいは完全に心を閉ざし、透明な壁を作っている生徒たちが集まっていました。

「よし、やるぞ」

 僕は自分に言い聞かせました。昔の僕なら、ここで「完璧な教師」の台本を用意していたでしょう。第一声の挨拶から、チョークを持つ角度まで、計算し尽くした演技。けれど、今の僕は違いました。僕は初めて、あの黒いノートを、自分自身の言葉で更新することに決めたのです。

 四月十日。

 今日、人生で最も不格好な「デビュー」をした。生徒たちの前に立ち、完璧な挨拶をしようとした瞬間、僕は思い切り自分の名前を噛んだ。動揺して教壇を叩いた拍子に、抱えていた教科書と出席簿が、バラバラと床に散らばった。

 かつての僕なら、顔を真っ赤にして、恥ずかしさのあまりその場から逃げ出したくなっていたでしょう。エリート然としていた「藤堂」というブランドが崩れることに、耐えられなかったはずです。

 教室には、冷ややかな空気が流れました。最前列の生徒たちがクスクスと笑い、後ろの方では「なんだ、この先生。だせえ」という声が聞こえました。

 でも、僕はそこで笑い返したのです。

「……ごめん。今の、なかったことにしてくれるかな。先生、実はめちゃくちゃ緊張してるんだ。昨日から、挨拶の練習を百回くらいしてきたんだけどさ」

 僕が素直にそう告げると、教室の空気が、ふっと緩みました。「百回も練習してそれかよ!」という突っ込みが入り、生徒たちの顔に、嘲笑ではない「興味」の色が浮かびました。

 仮面を剥がし、一人の不器用な大人として、彼らと同じ地平に立った瞬間でした。


三つの筆跡


 その日の夜。僕は誰もいない放課後の教室で、ノートに続きを記しました。

 先生。僕はようやく、嘘を脱ぐことができました。英雄にはなれなかったけれど、一人の、泥臭い人間として、この教室で、彼らと向き合ってみようと思います。

 僕の文字を改めて眺めてみると、そこには加藤先生のような、背筋が伸びるような几帳面さは微塵もありませんでした。また、高橋先生のような、壊れそうなほど繊細で美しい揺らぎもありませんでした。

 僕の文字は、筆圧が強すぎて少し紙が凹み、角張っていて、迷いに満ちた、お世辞にも綺麗とは言えない不格好なものでした。

 けれど、不思議なことに。

 その汚い文字が、加藤先生の流麗な文字と、高橋先生の震える文字の隣に並ぶと、まるで一本の太い綱のように見えたのです。三つの異なる筆跡が、それぞれの「嘘」と「真実」を抱えながら、一つの物語として調和していました。

 二人から、三人へ。このノートはもう、亡くなった英雄たちの遺品ではありません。今この瞬間を、泥まみれで生きている僕の、血の通った「現在進行形」の記録になったのです。

優しい嘘の再定義

「藤堂先生、また漢字間違えてるー! さっきの『英雄』の『英』、草冠の数おかしいよ!」

 翌日の授業中、茶髪の男子生徒が、遠慮のない声を上げました。

「え、マジで? ……ああ、本当だ。誰か代わりに書いてくれないか? 先生より上手なやつ、いるだろ」

 僕がチョークを差し出すと、一人の女子生徒が渋々立ち上がり、僕の代わりに正しい漢字を書いてくれました。

「先生、しっかりしてよね」

「悪い悪い。次は完璧にやるよ。……多分な」

 僕はチョークの粉で汚れた手をパンパンと払い、彼女に向かってウィンクをしました。

 「次は完璧にやる」。それは、今の僕にとっての「優しい嘘」でした。本当に完璧にできるとは思っていません。でも、生徒たちの前で「次は頑張る」と宣言することで、彼らとの間に小さな、けれど明るい「明日への約束」を交わす。

 英雄になりたかった男・藤堂の物語は、二人の先師の背中を追いかけながら、今、泥臭く、等身大の歩みを始めたのです。

 黒いノートの余白は、まだ半分以上残っています。加藤先生が三十ページを使い、高橋先生が五十ページを埋めた。僕はこれから、何ページを書き込むことになるのでしょうか。

 窓の外では、散り始めた桜に代わって、鮮やかな新緑が芽吹こうとしていました。

 僕はノートを閉じ、鞄の奥へ。明日もまた、僕は大失敗をするかもしれません。でも、そのたびに僕は、このノートに自分の無様さを書き記し、また笑って教壇に立つのです。それが、僕に託された「記録」の本当の意味なのだから。

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