第十三話:群像の断片 —— 職員室の「共犯者」たち
第2章第3話:群像の断片 —— 職員室の「共犯者」たち
加藤先生の三回忌が過ぎた、三月のことです。
僕は大学の春休みを利用して、母校であるこの高校に足を運んでいました。教育実習の事前打ち合わせという名目もありましたが、本当はただ、あの場所に戻りたかったのかもしれません。
僕の左腕には、真由美さんから譲り受けた先生の腕時計が、少し重たく、けれど確かな体温を持って時を刻んでいました。
「おや、高橋じゃないか。精が出るな」
職員室の入り口で僕を呼び止めたのは、かつて先生の隣の席だった数学教師、佐々木先生でした。相変わらずの大きな声と、少し増えた白髪。彼は僕を空いているパイプ椅子に座らせると、缶コーヒーを差し出してくれました。
「先生、お久しぶりです」
「聞いたぞ、文学部に進んだんだってな。加藤のやつも、草葉の陰で『高橋に先を越された』なんて言ってるかもしれないな」
佐々木先生はガハハと笑いましたが、その瞳はどこか遠くを見ているようでした。僕は、あの日からずっと胸に仕舞い込んでいた、ある疑問を口にしました。
「佐々木先生……今だから教えてください。あの時、先生方は、加藤先生の病気に本当に気づいていなかったんですか?」
僕がそう問いかけると、佐々木先生の笑みが、ふっと消えました。彼はコーヒーを一口飲み、視線を窓の外、生徒たちが駆け回る校庭へと移しました。
静かな「気遣い」の連鎖
「気づかないわけないだろう、あんなに痩せて。あいつ、最後の方はチョーク一本持つのも辛そうだったんだぞ」
佐々木先生の言葉に、僕は息を呑みました。
「……気づいていて、どうして何も言わなかったんですか? もっと早く休ませてあげれば……」
「それは無理な相談だ。あいつが『隠し通す』と決めたんだ。それを台無しにするほど、俺たちは無粋じゃないよ」
佐々木先生は、机の引き出しから一冊の古い出席簿を取り出しました。そこには、あちこちに付箋が貼られ、加藤先生が書き込んだであろう細かいメモがびっしりと残っていました。
「いいか、高橋。加藤が休んだ日の補習、誰がやったと思う? 英語の田中先生や、社会の木村先生、みんな『最近、加藤先生から教え方を相談されてね』なんて嘘をつきながら、あいつの授業をカバーしてたんだ。俺も、あいつのテスト採点を手伝う時に、『最近老眼が進んじゃって、加藤先生の綺麗な字を拝ませてくれ』なんて、ありもしない嘘をついてな」
佐々木先生の声が、少しだけ震えていました。
「あいつが必死に『健康な教師』を演じているなら、俺たちは『騙されている同僚』を全力で演じなきゃいけなかったんだ。それが、あいつに対する俺たちの、精一杯の敬意だったんだよ」
守られていた「聖域」
僕は愕然としました。
加藤先生は孤独に戦っていると思っていた。高橋くん、君だけが僕の理解者だ、そう言ってくれた。けれど実際は、この職員室全体が、一つの巨大な「優しい嘘」の舞台装置になっていたのです。
「体育の授業で生徒が騒ぎすぎないように、あいつの教室の近くを通る時は静かにさせたりな。保健室の先生なんて、あいつがこっそり倒れに来るのを、何も聞かずに、ただベッドを空けて待ってたんだ」
佐々木先生は、僕の腕時計を見つめました。
「高橋。あいつは一人で死んでいったんじゃない。あいつが命を懸けて守ろうとした『日常』を、俺たち全員で支えてたんだ。あいつは幸せな男だよ。……お前という最高の書記係を持って、そして、こんなに物分かりのいい嘘つきたちに囲まれてさ」
僕はこらえきれず、顔を伏せました。
先生がノートに綴っていた「孤独」は、実は温かな愛情の裏返しだった。先生が必死に守ろうとしたものは、実は周囲の大人たち全員で、そっと包み込むように守られていた。
先生は、騙し通せていたわけではなかった。
騙されたふりをしてくれる仲間たちに、守られていた。
最後の告白
「……あ、そうだ。これを渡しておくよ。加藤が、自分が死んだら高橋に、って俺に預けてたんだ」
佐々木先生が差し出したのは、小さなメモ帳の切れ端でした。そこには、あの几帳面な、けれど力強い文字でこう書かれていました。
『佐々木先生。僕の嘘に付き合ってくれてありがとう。バレバレだったのは分かっていたけれど、それでも君が笑って羊羹を差し入れてくれる時、僕は世界で一番の幸せ者だと思えた。高橋が来たら、彼に伝えてほしい。君はもう、一人で背負う必要はないのだと。』
先生は、最初から知っていたのです。自分の嘘が、周囲の優しさに支えられていることを。
そして、僕がいつか一人でその重みに耐えられなくなることを予見して、このメモを遺していた。
「高橋。お前が文学部で学んで、いつかこの教壇に立つ時、覚えておいてほしいことがある」
佐々木先生は、僕の目をまっすぐに見つめました。
「教師ってのはな、教えるだけが仕事じゃない。誰かの嘘を信じたふりをしてやることも、時には必要なんだ。……加藤がそうだったようにな」
僕はメモを握りしめ、深く、深く頭を下げました。
僕が知っていた加藤渉という男は、氷山の一角に過ぎなかった。海面の下には、こんなにも深くて広い、友情と敬意の世界が広がっていた。
職員室を出ると、放課後のチャイムが鳴り響きました。
その音は、かつて先生と二人で聞いた時よりも、ずっと多層的で、豊かな響きを持って僕の胸に届きました。
「先生。僕は、一人じゃなかったんですね」
僕は腕時計を一度だけ撫でると、春の光に包まれた廊下を歩き出しました。
僕の書記係としての仕事は、まだ終わっていません。先生の「孤独」さえも包み込んだ、この学校という場所の温かさを書き残す。それが、僕に与えられた新しい使命だと確信したからです。




