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最後のチャイムまで、僕は嘘をつく  作者: 水前寺鯉太郎
第ニ章

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12/24

第十二話:真由美のケジメ —— 季節を歩む、嘘の解体

加藤渉がこの世を去ってから、早いもので一年という月日が流れようとしていました。

 街のあちこちで早咲きの桜が蕾を膨らませ、卒業式の足音が聞こえてくるこの季節は、真由美にとって、胸を掻きむしられるような痛みを伴う季節でもありました。

 リビングの棚には、あの日、高橋くんが撮影してくれた「黒板の絵」の写真が、いまも変わらず飾られています。真由美は毎日、その写真の中の白い大樹に向かって、「おはよう」と「おやすみ」を繰り返してきました。けれど、彼女の心は、あの日、渉が遺していった「優しい嘘」の魔法にかかったまま、時計の針を止めてしまっていたのです。


消えない生活の残り香


 真由美は、渉の遺品をほとんど整理できずにいました。

 クローゼットを開ければ、まだ彼の柔軟剤の匂いがするスーツが並び、書斎の机には、彼が愛用していた万年筆が、主人の帰りを待つかのように置かれたままです。

「整理しなきゃいけないのは分かっているのよ。でもね、これを捨ててしまったら、渉さんが本当の意味でいなくなってしまう気がして……」

 時折訪ねてくる高橋くんに、真由美は寂しげな微笑みを浮かべて漏らしていました。

 彼女にとって、家の中の至る所に残る渉の気配は、彼が命を懸けて守ろうとした「日常」の延長線上にありました。それを清算することは、彼との「共犯関係」を解消することを意味し、それが何よりも恐ろしかったのです。

 しかし、三月半ばのある夜、彼女はある「遺物」に手を伸ばしました。それは、高橋くんから返却された、あの黒いノートの、さらに奥に隠されていた一通の封筒でした。渉が「自分が動けなくなったら渡してほしい」と高橋くんに託し、真由美が受け取ったまま、怖くて開けられずにいた手紙です。

 真由美は、震える指でその封を切り、静かに便箋を広げました。


渉からの、もう一つの嘘


 手紙には、これまでの感謝とともに、渉らしい、少し理屈っぽくて不器用な言葉が並んでいました。そして、最後の一行に、彼女の心を揺さぶる言葉が記されていたのです。

 『真由美。僕の嘘に付き合ってくれてありがとう。でも、僕がいなくなった後の世界で、君が僕の嘘を背負い続ける必要はない。どうか、僕を美化しすぎないでほしい。僕はただの、往生際の悪い臆病な男だったのだから。』

 真由美はその言葉を読み、思わず声を上げて笑ってしまいました。涙が溢れ、視界が滲みます。

「何を言ってるの。知ってるわよ、あなたが臆病だったことなんて。ずっと、ずっと前から……」

 彼は、死してなお、真由美を自由にするための「嘘」を吐こうとしていました。「僕はそんなに立派な男じゃないから、早く忘れて前を向きなさい」という、彼なりの最後の手向け。その優しさに触れたとき、真由美はついに、自分なりの「ケジメ」をつける決意を固めたのです。


真由美のとった行動


 翌朝、真由美は大きな段ボール箱をいくつも用意しました。

 彼女がとった行動は、単なる「遺品の整理」ではありませんでした。それは、渉が愛した人たちへ、彼の「生きた証」を還元していく作業でした。

 まず、渉の蔵書の中から、彼が特に大切にしていた文学全集や専門書を選び出しました。そして、それらを一冊ずつ丁寧に拭き、渉が勤務していた高校の図書室へ寄贈することを決めました。「先生の言葉が、これからも生徒たちの血肉になるように」という願いを込めて、見返しの一枚一枚に、小さなスタンプを押しました。

 次に、彼が最後の日まで着ようとしていたスーツやネクタイ。それらは、高橋くんが大学の入学式や、将来教壇に立つ時に使えるようにと、仕立て直しに出すことにしました。「渉さんの魂を、次の世代に繋いでほしい」——それは、悲しみを捨てるのではなく、形を変えて受け継いでいくという選択でした。

 そして、最も勇気のいる行動。

 真由美は、あの旧図書準備室を訪れました。高橋くんが「書記係」として先生の言葉を綴った、あの静かな聖域です。彼女はそこで、渉が最期まで使っていた、インクの切れた万年筆を机に置きました。

「渉さん、あなたの授業は、もう終わったのね」

 真由美は、黒板に向き合いました。あの日、渉が命を削って描いた大樹は、もうとっくに消されて、新しい連絡事項が書き込まれています。でも、真由美はそこに、彼が最後に記した『また、明日。』という幻影を見ました。

 彼女はチョークを手に取ると、黒板の隅に、小さくこう書き足しました。

 『いってらっしゃい。』

 それは、一年間、ずっと言えなかった言葉でした。彼を「日常」という檻に留めておくのではなく、本当の安らぎへと送り出すための、彼女なりの卒業の言葉でした。


新しい朝の記録


 家に戻った真由美は、最後に一冊、真っ白なノートを買いました。

 それは、加藤先生の記録を引き継ぐためではなく、「加藤真由美の、これからの記録」を始めるためのものでした。

 最初のページに、彼女はこう綴りました。

 三月十六日。

 部屋が少し広くなった。クローゼットは隙間だらけで、書斎は少しだけ埃っぽい。けれど、窓から入ってくる風は、驚くほど心地いい。

 渉さん。私は今日から、あなたの嘘のない世界を歩いてみます。あなたの思い出を胸に抱いたまま、私は私の「明日」を生きていきます。だから、もう心配しないで。私は、あなたの妻でいられたことを、誇りに思っています。

 真由美がペンを置いたとき、庭の桜の蕾が、一つ、誇らしげに弾けました。

 思い出を清算するとは、忘れることではありません。思い出を、これからの自分の「力」に変えること。真由美がとったケジメは、最愛の夫への、最大級の感謝の形だったのです。

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