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最後のチャイムまで、僕は嘘をつく  作者: 水前寺鯉太郎
第ニ章

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第十一話:書記係の進路

加藤先生がいなくなってからの学校は、驚くほど平穏で、そして残酷なまでにいつも通りでした。

 新しい年度が始まり、高橋のクラスの担任は数学の佐々木先生になりました。佐々木先生は時々、高橋の机の横を通る際、少しだけ足を止めて肩を叩きます。そこには、あの日旧図書準備室で「代わりはいない」と言った時と同じ、不器用な優しさが込められているのが分かりました。

 高橋は、学校に通い続けていました。

 以前の自分にとって、学校は「意味のない時間の集積所」でしかありませんでした。でも今は、ここに来る理由があります。放課後、かつて先生と過ごした旧図書準備室へ向かう。そこは今、高橋の「書斎」になっていました。


先生のノート、僕の言葉


 高橋は、加藤先生から引き継いだ黒いノートを机に広げました。先生の筆跡は最後の方は震えていましたが、そこには間違いなく、一人の男が最後まで尊厳を持って生きた証が刻まれていました。

 彼はその余白に、自分自身の「記録」を書き加えることにしました。

 五月十日。

 今日、進路希望調査票を提出した。先生はかつて、「君にしかできない仕事がある」と言ってくれた。僕は、文学部へ行こうと思う。先生が愛した夏目漱石や、あの黒板に描いた無数の言葉たち。それを今度は、誰かに伝える側になりたい。

 先生、僕はまだ、あなたのようには笑えません。誰かのために「優しい嘘」をつく自信もありません。でも、ペンを握っている時だけは、自分が少しだけ強くなれる気がするんです。

 書き終えて顔を上げると、窓の外には新緑が眩しく輝いていました。あの日、先生と見た枯れ木のような景色は、もうどこにもありません。


真由美さんとの再会 


 ある日曜日の午後、高橋は先生の自宅を訪ねました。

 真由美さんは、先生が亡くなった後も変わらぬ笑顔で迎えてくれました。

「高橋くん、いらっしゃい。……あら、少し顔つきが大人っぽくなったわね」

 リビングには、先生の遺影と、あの卒業式の日に撮った「黒板の絵」の写真が飾られていました。

 真由美さんは、持参したノートを見て、目を細めました。

「渉さんも喜んでいるわ。あなたがそのノートを、自分の物語に変えてくれていること」

「真由美さん。僕、先生に謝りたかったんです。……僕、先生が病気だって知った時、最初、残酷だなって思ったんです。なんで僕なんかに秘密を教えたんだろうって。でも、今は分かります。先生は、僕に『生きる責任』を分けてくれたんですよね」

 真由美さんは、紅茶を淹れながら静かに首を振りました。

「いいえ、それは違うわよ、高橋くん。渉さんはね、あなたに救われたの。一人で抱え込むには、死という真実は重すぎた。それをあなたが半分背負ってくれたから、あの人は最後まで『加藤先生』でいられたの。……ありがとうね」

 その言葉を聞いて、高橋は初めて、先生の前で我慢していた涙を流しました。それは悲しい涙ではなく、自分の存在が誰かの支えになれていたことを知った、温かな涙でした。


始まりのチャイム


 それからの高橋は、がむしゃらに勉強しました。

 学校を休みがちだった遅れを取り戻すのは簡単ではありませんでしたが、机に向かうのが苦しい時、カバンの中にあるノートの感触を確かめました。

 「三月十五日。チャイムが鳴る。僕の嘘は、今日、光になった」

 先生の最後の一行が、背中を押し続けてくれました。

 一年後、高橋は志望していた大学の文学部に合格しました。

 合格通知を手にしたその足で、母校へ向かいました。もう卒業したはずの学校。誰もいない放課後の教室。先生がかつて立っていた教壇に、高橋は静かに立ってみました。

 黒板は綺麗に消され、新しい学年の目標が書かれています。でも、その白い面には、はっきりと見えました。あの大樹の絵と、その根元に刻まれた『また、明日。』という文字が。

 高橋は手に持っていた新しいノートを開きました。加藤先生から引き継いだ黒いノートは、もう最後の一頁まで自分の言葉で埋まっていました。

「先生、新しいノートを買いました。ここからは、僕が見る新しい世界の記録です」

 チョークを一本手に取り、黒板の端に小さく、けれど消えないくらいの強さで書きました。

 『先生、授業に行ってきます』

 それは、自分自身に、そして天国の先生に誓った、嘘のない言葉でした。

 チャイムが鳴ります。それは終わりの合図ではなく、高橋という新しい物語の、始まりの合図でした。

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