第十話:最後の一頁(ページ)、白銀(はくぎん)の記憶
最後の一頁、白銀の記憶
卒業式の朝。校庭の桜はまだ固い蕾のままでしたが、空はどこまでも高く、澄み渡っていました。
加藤先生の病状は、もはや車椅子なしでは移動すらままならないところまで進んでいました。それでも、彼は真由美さんに頼み込み、誰よりも早く学校へ向かいました。卒業生たちが登校してくる前、静寂に包まれた「僕たちの教室」へ。
僕と真由美さんは、先生の両脇を支えながら、ゆっくりと、一段ずつ階段を上りました。
「……ありがとう、二人とも。ここからは、一人でやらせてくれ」
教壇の前に立った先生は、震える足で車椅子から立ち上がりました。その姿は、まるで枯れ木が最後の力を振り絞って新芽を吹こうとしているような、神々しささえ感じさせるものでした。
黒板に刻む、形なき命
先生が手に取ったのは、一本の白いチョークでした。
かつては当たり前のように握っていたその小さな塊が、今の彼には、何キロもある鉄の棒のように重く感じられたはずです。
「高橋、見ていてくれ。これが、僕の最後の授業だ」
先生は黒板に向き合いました。
最初は、おぼつかない足取りで、細い線が引かれました。しかし、描き進めるうちに、先生の動きにはかつての瑞々しさが戻っていきました。
カツン、カツン。
静まり返った教室に、チョークが黒板を叩くリズムだけが響きます。
描かれたのは、精密な風景画ではありませんでした。
それは、荒々しくも力強い、一本の巨大な**「大樹」**でした。
根元には、これから広い世界へと旅立つ生徒たちの姿を模したような、小さな芽がいくつも描かれています。そして、その大樹の枝葉は、黒板の枠をはみ出さんばかりに広がり、無数の「言葉」が葉のように舞っていました。
『勇気』『誠実』『孤独』『愛』……。
先生がこれまでの授業で伝えたかった、けれど伝えきれなかった言葉たちが、白い粉となって黒板に命を宿していきます。
先生は、激しい息切れに何度も膝をつき、真由美さんが差し出す水を一口飲んでは、また立ち上がりました。
一筆ごとに、彼の命が削られ、黒板へと移り変わっていくようでした。僕はその光景を、涙で霞む目を拭いもせず、一秒たりとも逃さぬよう心に焼き付けました。
最後の署名
一時間以上かけて描き上げられたその絵は、もはや単なる落書きではありませんでした。それは、加藤渉という男の人生そのものでした。
「……できた」
先生は最後に、大樹の根元に小さく、いつもの几帳面な字でこう書き添えました。
『また、明日。』
明日が来ないことを誰よりも知っている彼が、最後に遺した、最高に優しく、最高に切ない「嘘」でした。
鳴り響く、始まりのチャイム
卒業生たちが登校してくる気配が聞こえ始めた頃、先生は満足げな表情で車椅子に身を預けました。
「高橋、ノートを……」
僕は言われるがまま、いつもの黒いノートを開きました。先生は、自分の手でペンを握り、震える文字で最後の一行を記しました。
三月十五日。
チャイムが鳴る。僕の嘘は、今日、光になった。
あとは、彼らがそれぞれの物語を書き足していくだけだ。
ペン先が、ノートの終わりに辿り着きました。
先生はふっと息を吐き、静かに目を閉じました。それは、まるで長い授業を終えた後の、心地よい微睡みに身を任せるような、安らかな横顔でした。
エピローグ
先生が亡くなったのは、その一週間後のことでした。
葬儀の日、高橋くん——僕の手には、一冊の黒いノートがありました。
真由美さんが「あなたが持っているべきだわ」と言って、僕に託してくれたものです。
僕は、先生が最後に描いた黒板の絵をスマホで撮った写真を見返しました。
生徒たちは、あの絵を見て泣き、そして笑って旅立っていきました。先生の「嘘」を、みんなが最高の「真実」として受け止めたのです。
僕はノートの最後のページ、先生の署名の下に、自分の言葉を書き加えました。
先生。記録は僕が引き継ぎます。
あなたが教えてくれた「今日を生きる理由」を、僕は一生、書き続けます。
僕はペンを置き、青く澄み渡った空を見上げました。
風に乗って、どこからか先生の、あの少し厳格で、でも温かな声が聞こえた気がしました。
「さあ、授業を始めようか」
僕たちの新しい日々が、今、ここから始まります。
(第一章・完)




