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最後のチャイムまで、僕は嘘をつく  作者: 水前寺鯉太郎
第一章

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第一話:夕暮れの境界線

「※本作には医学的な描写が含まれますが、あくまで物語上の演出であり、実在の症例、治療法、医療機関を推奨・否定するものではありません。専門的な判断については必ず医師の診察を仰いでください。」


第一話:夕暮れの境界線と偽りのチャイム

病院の自動ドアが背後で閉まる音は、まるで世界の半分が断絶されたような響きがしました。

加藤渉は、受け取ったばかりの診断書が入った封筒を、ビジネスバッグの奥深くに押し込んだ。指先がわずかに震えています。二月の冷たい風がコートの隙間から入り込み、肺の奥まで凍てつかせるようだった。

「ステージIV……」

口の中で呟いてみた言葉は、自分のものとは思えないほど他人事のように響きます。

駅へ向かう道すがら、街はいつもと変わらない夕暮れを迎えていた。スーパーのタイムセールに急ぐ主婦、イヤホンをしてスマホに見入る大学生、そして——。

「あ、加藤センセー! お疲れさまでーす!」

聞き慣れた高い声に、加藤は反射的に肩を揺らしまきた。振り返ると、コンビニの前で肉まんを頬張る自分の教え子たちがいたのです。二年生の女子グループ。

「……ああ、お疲れ様。買い食いか?」

「ひどーい、育ち盛りなんですってば。先生、なんか顔色悪くないですか? 飲みすぎ?」

一瞬、心臓が跳ねる。加藤は眼鏡のブリッジを押し上げ、いつもの「真面目な教師」の仮面を被り直しました。

「ただの寝不足だ。お前らこそ、定期試験が近いんだから早く帰って勉強しろよ」

「はーい、おじいちゃん先生。じゃあねー!」

手を振って走り去る彼女たちの背中を見送りながら、加藤は小さく息を吐いた。彼女たちは知りません。自分の目の前にいる教師が、あと数ヶ月でこの世から消えるかもしれないということを。そして、自分もまた、それを教えるつもりは毛頭ありませんでした。

(……隠し通さなきゃな)

誰かに同情されたいわけじゃなく腫れ物に触るような目で見られたいわけでもありません

ただ、最期まで「加藤先生」として、この日常の中に溶け込んでいたい。

家の玄関が見えてくる。

窓からは温かなオレンジ色の明かりが漏れ、夕飯の支度をする匂いが漂ってきた。妻の足音が聞こえます。

加藤は一度、大きく深呼吸をして、頬を両手で叩きます。

「ただいま」と言うための、精一杯の笑顔を作りました。

その夜、彼は古い引き出しから、数年前に買い置きしていた一冊のノートを取り出します。

表紙には何も書かれていません。

最初のページを開き、彼は万年筆を走らせます。

『二月十五日。僕は今日、死ぬための準備ではなく、最後まで生き抜くための嘘をつくことに決めた。』


職員室の重い扉を開けると、そこにはいつも通りの、騒がしくも退屈な朝が待っていました。

「おはようございます……」

加藤の声は、コーヒーの香りとプリントを刷る輪転機の音にかき消されます。

自分のデスクに座ると、隣の数学教師、佐々木がいつもの調子で声をかけてきました。

「加藤先生、おはよう! 昨日は早退したって聞いたけど、どうしたんです? 顔色、あんまり良くないですよ。奥さんの手料理、食べ過ぎたんですか?」

佐々木はガハハと笑いながら、加藤の肩を軽くたたきました。

その衝撃が、昨夜から続く胃の鈍痛を呼び覚まします。加藤は一瞬、眉をひそめたが、すぐに穏やかな笑みを貼り付けました。

「いやぁ、お恥ずかしい。ちょっと胃もたれがひどくて。昨日、病院に行ったら『ただの逆流性食道炎だ』って言われましたよ。食べ過ぎ、飲み過ぎの現代病ですね」

口から出たのは、昨日までに用意していた「完璧な嘘」だったのです。

ステージIV。転移。余命。

そんな重々しい言葉は、この明るい職員室には似合いません。

「なんだ、そうか! 安心しましたよ。代わりの授業、僕がやろうかと思ったのに」

「いえ、大丈夫です。今日からまた、フル稼働ですよ」

加藤は手元の出席簿を強く握りしめます。

「大丈夫」という言葉が、自分の肺から空気を奪っていくような気がしました。

一時間目:二年生の国語

教室に入ると、チョークの粉が舞う独特の匂いが鼻をつきます。

教壇に立ち、黒板に向き合う。背後からは生徒たちの私語が聞こえてきます。

「おい、加藤、今日はなんか気合入ってね?」

「昨日、休みだったから充電完了したんじゃねーの?」

そんな声を背中で聞きながら、加藤は黒板に大きく**「夏目漱石」**と書き記しました。

指先が微かに震える。チョークがカチリと音を立てて折れた。

(……見ろ。誰も気づかない)

自分が死に向かっていることなど、この空間の誰も知りません。

それが寂しくもあり、同時に、自分を奮い立たせる唯一の拠り所でもあったのです。

「いいか、静かにしろ。今日は『こころ』の続きをやる。人間が抱える孤独と、秘密についてだ……」

加藤の声に、不思議な力がこもります。

それは、明日も当たり前に授業ができると信じている者には出せない、切実な響き。

ふと、教室の最後列に座る一人の生徒、高橋と目が合います。

不登校気味で、いつもは机に突っ伏しているはずの彼が、じっと加藤の顔を見つめている。

その瞳は、加藤が隠したはずの「死の影」を、見透かそうとしているようでした。


放課後の教室は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていました。窓から差し込む西日が、埃の舞う教室をオレンジ色に染め上げ、机の影を長く引き延ばしています。

加藤は、誰もいないことを確認してから、深く、重い溜息をつきました。張り詰めていた糸が切れたように、その場に崩れるように椅子に座り込みます。

放課後:一人の聖域

彼は震える手でビジネスバッグから、あの真っさらだった**「記録用のノート」**を取り出しました。

教壇の上、チョークの粉が薄く積もった教卓。そこにノートを広げると、彼は万年筆を握りました。

今の彼にとって、このノートを開く時間は、仮面を脱ぎ捨てて「ただの死にゆく男」に戻れる唯一の儀式でした。


二月十六日 放課後

今日、初めて同僚に嘘をついた。

「ただの胃炎だ」と笑った自分の顔が、ひどく醜く感じられた。

授業中、夏目漱石の『こころ』を解説しながら、先生(登場人物)の孤独が、冷たい水のように僕の肺を満たしていくのを感じた。

遺書を書くことでしか自分を証明できなかった彼と、今の僕は、一体何が違うのだろうか。

生徒たちの笑い声が痛い。

彼らの「また明日」という言葉が、鋭い刃物のように胸に刺さる。

僕には、その「明日」が、もう保証されていないというのに。


カツン、と万年筆を置く音が静かな教室に響きました。

加藤はノートを閉じ、そっと自分の胃のあたりをさすりました。鈍い痛みは、彼が生きている証拠であると同時に、終わりが近づいている合図でもあります。

「……まだ、倒れるわけにはいかない」

彼は自分に言い聞かせるように呟きました。

隠し通すと決めた以上、この苦しみも、恐怖も、すべてこのノートの中に閉じ込めておかなければならない。

異変の予兆

帰り支度を始めようとしたその時、教室の後ろの扉が、僅かに開いていることに気づきました。

風のせいか、それとも——。

廊下からは、バレー部の威勢のいい掛け声と、遠くで響く吹奏楽部のチューニングの音が聞こえてきます。加藤はノートを素早くバッグに隠し、いつもの「教師の顔」を貼り付けました。

「……誰かいるのか?」

返事はありません。

しかし、加藤の胸には、拭いきれない不安がよぎりました。

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