優しい、君
見たこともない、優しい微笑み。
聞いたことのない、優しい言葉。
優しい――君は、ダレ?
霞がかっていた意識が、布を一枚一枚取り去るようにゆっくりと覚醒していく。覚醒してしまえば、意識が体を把握し、瞼を開くまでそう時間はかからなかった。
ぱちりと開いた目が最初に認識したものは、木目のはっきりした板――どこかの天井だった。
(……何だ、これは?)
予想していた景色と違うことに、少年は戸惑う。
(アクシデントでも起きたのか)
現在置かれている状況を把握しようと少年は首を回して周りを確認するが、その表情はすぐに怪訝なものへと変わる。少年の目には信じられない物ばかり入ってきたからだ。
まず、少年は十歩もあれば端から端まで行けるような小さな部屋の、飾りも何もない質素なベッドに寝かされている。部屋にある家具も本棚と机と椅子だけで、実に慎ましやかだ。右の壁に一つのドアと左の壁に窓がある以外に、部屋の出入り口はなさそうだった。
少なくとも自分のいた場所から離れてしまっているということは、少年にも理解できた。そして拘束などされていないことから、取り合えずすぐに戦闘になることはなさそうであった。
そこまで確認すると、今度は自分の状態の確認を始める。
少年が望むと、視界の右側に少年の身体状況が報告された。結果を見て、少年は美しい顔を歪ませる。想像以上に悪かった。動力脈は半分寸断されている状況で、戦闘になったら平常時の半分も力が出せそうにない。燃料脈は1/3が故障しており、生体維持には問題ないが、活動に制限がかかることは必死だった。おまけに、声帯機能も故障している。
(生体維持機能に問題が生じていないだけマシか……)
そもそもなぜ目覚めて早々これほど重大な故障をかかえているのか、少年には分からない。いったい〝使徒〟は何をしているのか、と少年は自分を守護する存在を心の中で叱責する。
(……いや、〝記録〟をみれば何があったかすぐに分かるか)
少年は自身に内蔵されている〝記録〟を呼びだすが……
(……ない、な)
少年が知りたかったここ数時間の〝記録〟だけ欠落していた。それはつまり、眠る彼の代わりに記録する〝ゆりかご〟から、彼は出されていたということだ。
少年はゆっくりとベッドの上に体を起こした。カーテンの隙間から外を伺えば、世界は夕闇を迎えているところだった。
これからどうすればいいのかと思案していると、人間離れした少年の聴覚が近づいてくる足音を拾った。再びベッドに横たわることも考えたが、敵である可能性は低く、現状把握をするのであれば誰かしらと接触したほうがいいので、少年はそのままの姿勢で外の人物が来るのを待った。
音を立てないよう慎重に開けられたドアから覗いたのは、小さな少女だった。
黄金色の緩く波打つ髪の可愛らしい顔をした女の子は、少年と目が合うととても嬉しそうにエメラルドの瞳を細めて微笑む。
少年は息をすることも忘れ、少女に見惚れた。
(君、は……)
優しい微笑みの、人――
自分の中の一番新しい〝記録〟は酷く曖昧なもので、恐らく自分の目で見たものだろうと少年は思ったが、特に気にしていなかった。だって、あまりに都合が良すぎたから。
天使のように可愛らしい美少女が、こんな自分に向かって微笑み、少年が一番欲しかった言葉をくれる、だなんて。そんなのはお伽噺の中だけだと、現実主義者の少年は思っていたから。色々な機能が低迷して見た幻だと、そんな風に思っていた。
だから、彼女が幻じゃなくて、少年は嬉しかった。叫び出しそうなほど、泣きそうなほど、嬉しかった。声帯機能が故障していたから叫ばなかったし、涙腺など彼には備わっていないから泣かなかったけれど、それぐらい、嬉しかった。
「よかった、目が覚めたのね!ずっと起きないから、心配したのよ」
軽やかに近づいてくる少女の声は、やっぱり優しくて――あぁ、君だ、と少年は感動した。
「どこか痛いところはない?」
少年は首を横に振る。それ以外に意思を示す方法がなかった。
「よかった。あなた、森に倒れていたのよ。どうして、あんな誰もいないようなところで倒れていたの?」
これにも少年は首を横に振るしかない。少年にも分からないのだ。
少女はコテンと首を傾けると、少年に聞く。
「覚えてないの?」
少年は頷く。
「じゃあ、あなたのお名前は?」
返答に困ってしまった。少年には〝名前〟と言える物がなかったのだ。
仕方なく、これにも首を横に振って応じる。
「……そう……」
少女の美しい瞳が陰り、下を向いてしまう。少年は焦った。
(そんな、顔をしないで)
君を困らせたいわけではないのだと、自分にも分からないのだと、少年は伝えたいのに、言葉が出てこない。それがひどくもどかしくて、少年は知らず唇を噛む。
どうすればいいのか考えを巡らす少年だったが、突然少女が勢いよく顔を上げ、少年の手を自らの手で包みグッと顔を近づけてきたため、思考が停止してしまう。目の前にある可愛らしい顔にドキドキしつつも、その瞳がもう陰っていないことに少年は安堵する。
「あ、あのね!記憶がなくなっちゃったのは、悲しいことだけど、でも、思い出すかもしれないし、それに、それに、また始めればいいと思うの!きっと、神様があなたにくれたチャンスだよ!」
(…………なるほど。つまり、記憶喪失だと思われているのか)
必死に自分を慰めようとする彼女を可愛い、と思いつつ、少年の冷静な部分はそう判断した。
(それはそれで都合がいいかもしれない)
自分があまりに特殊な存在であることを少年は理解していた。そして人に知られてはいけない存在であることも。だから、このまま記憶喪失という設定でいこう、と少年は決めた。
少年が決意を固めている間も必死に少年を慰めようと「それに、それに」と言葉を紡ぐ少女に、少年はそっと微笑んだ。言葉の代わりに、感謝の気持ちだけは伝えようと。
少女は目を見開くと、カーと顔を朱に染める。その様があまりにも可愛くて、自然と少年の空いている手が少女の頬へと伸びていく――が。
「レベッカ、何をしている」
触れる直前、低い男の声が部屋に響いた。少女ははっとドアの方へ振り返ると「おじいちゃん!」と入口に立つ厳めしい老人の元へと行ってしまう。握られた手の温もりが離れて行ってしまい、少年は思わず老人を睨んだ。しかし老人は少年の視線を気にせず、いやむしろ少年の視界から少女を隠すように肩を抱き、少女に何か告げる。少女の言葉から、この老人が少女の祖父であることは分かっていたが、なぜか少女の肩に置かれた老人の手が癪に障って、焼き払ってしまいたい衝動に駆られた。おかしい、と少年は思う。なぜこんなにもイライラするのだろうか、と自問している間に、少女は部屋を出ていってしまった。慌てて後を追おうとベッドから降りた少年の前に、老人が立ちはだかる。
(邪魔だ)
そういう意図を含めて睨めば、老人の口から懐かしい言葉が零れた。
『なぜ、貴方様がこんなところに居られるのですか?』
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