出会い
ヒュート村の外れ、フローレインの入り口には一軒の小さな家が建っていた。年季の入ったレンガ造りの二階建て。蔦が巻き付き、所々ヒビの入った家は一見廃墟のように見えなくもないが、煙突から立ち上るゆるゆるとした煙が、ここに人が住んでいることを知らせている。
と、ふいに家のドアが開き、小さな女の子が足取りも軽く出てくる。レベッカ・メーフィス――それが、この少女の名前だった。レベッカは緩く波打つ黄金色の髪をなびかせて家を振り返り、「おじいちゃん、行ってくるね!」と大きな声でそう言うと、踊るように森へと入っていった。
レベッカは、学校が休みの日には森に入り、木苺やキノコを取ってくるのが日課となっていた。祖父との二人暮らしで、少しでも家計の足しになれば、と思って始めたことだったが、今では森で動物たちと戯れたり、人の目を気にせず歌を歌ったりできるこの森で過ごす時間を、レベッカは何よりも楽しみにしていた。
(今日は何の歌を歌おうかな)
鼻歌交じりに、レベッカは歩を進める。この森はあまり人の手が入っておらずきちんとした道はないのだが、暇さえあれば森に入っているレベッカは、迷うことなく進むことができた。
しかし、森の奥へ入って十分が過ぎようという時になって、レベッカはふいに違和感を覚えた。
(音が、ない)
いつもは美しい鳥の囀りや、獣たちのたてる足音で森は満ちているのに、今日は風が木の葉を揺らす音しかしないのだ。そう気が付くと、なんだかいつもより森が薄暗いような気すらしてくる。まるで、森から生き物がいなくなってしまったようで、自分だけ逃げ遅れてしまったようで、レベッカは足元から蛇のように這い上がってくる恐怖に小さな体を震わせる。音がない、というだけで、見慣れた森が知らない場所のように思えた。
戻った方がいい、と少女の理性は告げる。しかしどうしてか、レベッカは歩を止めることができなかった。今日、無理して森に入らなければならない理由はない。木苺はジャムにしたものが沢山あったし、キノコもまだ残っていたはずだ。歌だって、祖父に断って家で練習すればいい。分かっているのに、レベッカの足は前に出続ける。まるで、何かに呼ばれているように、誘われるように、レベッカは奥へ奥へと進んでいった。
何かから守るように、細い腕で自分の体を抱きしめたレベッカは、森の奥にある泉までやってきた。森に入った時いつもレベッカが歌の練習をするお馴染みの場所なのだが、この場所はほとんど人に知られていない。きっと、何かあっても誰も助けには来られないだろうという考えが頭に浮かび、レベッカは体の震えを大きくする。震えて歯がカチカチと鳴る音がより恐怖を煽るので、レベッカは唇を噛んで必死に止めた。
(大丈夫。だって、私は誰よりこの森に詳しいもの)
目を閉じ大きく息を吸うと、肺一杯に広がる土と、木と、花と、獣の匂い。いつもの森の匂いだ。
少しだけ落ち着いたレベッカは、いつものように泉の縁に膝を付き、泉の水を飲もうとして、ふと視界の隅に何かを捉えた。視線を向けると、泉の反対側に何かが落ちている。
(何、アレ……えっ!?)
レベッカは慌てて立ち上がり、泉の反対側へと走る。だって、あれは――
(人だわ!しかもお爺さん!)
自分以外にこの場所を知っている人がいることにも驚いたが、それよりも倒れていることのほうが問題だ。
助けなきゃ、と危機感に足を動かしていくが、近づくにつれ、そのお爺さんがなんだか普通でないことにレベッカは気付いた。まず、着ている服はボロボロで、体中泥まみれな上、靴も履いていない。少なくとも、まともな生活をしていた人でないことは確かだ。それに、お爺さんはずいぶんと小柄だった。きっとレベッカより少し背が高いくらいだろう。足も腕も細くて、でも皺もシミもない肌をしている。レベッカがその人をお爺さんだと思ったのは、その人が立派な白髪をしていたからだ。体は子どものようなのに、髪の毛だけ歳をとってしまったようだった。そして、何よりレベッカの目を引いたのは、泥の間から覗く刺青だ。
(〝奴隷〟って人、かな……)
田舎で育ったレベッカは、奴隷を見たことがなかった。確か、村長の息子が「奴隷は足に鎖を付けられて、刺青を入れられる」というようなことを言っていたような気がしたが、この人の足には鎖がない。
(ひょっとしたら、逃げてきたのかも)
レベッカは〟奴隷”が何かを知らない。〝奴隷〟は人ではなく〝物〟であり、故に人権も意思もなく、持ち主に逆らうことは決して許されない。まして、逃げるなど殺されて当然のことで、それを幇助することも罰せられる行為なのだが、レベッカにそんな知識はなかった。
レベッカはゆっくりとうつ伏せになっていた人を仰向けにする。そして、息を呑んだ。
体だけだと思われた刺青は、両頬にまで広がっていた。顔は比較的汚れておらず刺青の紋様がはっきりとわかる。模様というよりは文字のような形をとったそれは、まるで何かを戒めているようで、意味は分からなかったが見ていて気持ちのいいものではなかった。そっと視線を刺青からはずし、レベッカはその人の顔を観察する。
透けるような白い肌に、小さく色づいた唇。鼻筋はスッと通っていて、瞼が下ろされているため瞳の色は分からないが、睫毛は女の人がお化粧で張り付ける物(〝着け睫毛〟という名前をレベッカは知らない)くらい長い。とても綺麗な人だった。少なくとも、レベッカが今まで出会った人の中ではこの人が一番綺麗だ、とレベッカはしばしその美貌に見惚れていた。
(こんなに綺麗なのに、どうして刺青なんて入れたのかしら)
こんなに綺麗な顔に墨を入れるなんて、なんて酷いことをするのだろう、とレベッカは刺青を入れた人に怒りを覚えた。と同時に、この人を守らなければ、という使命感が芽生える。
(だってきっと、沢山怖い思いをしたんだわ)
レベッカが両の手の拳を握りしめた時、その人の長い睫毛が震えた。
はっとレベッカは屈み、その人の顔を覗き込む。
ゆっくりと持ち上げられる瞼。
現れた瞳の色は、突き抜けるような空。
吸い込まれそうなほど澄んだ瞳に、レベッカは一瞬息をすることも忘れた。
やがてその人の瞳がレベッカを捉えると、レベッカの顔は自然と綻ぶ。
ただ、その瞳に映れたことが嬉しかった。
そっと、レベッカは子どもをあやす母親のように優しく告げた。
「もう大丈夫。大丈夫よ。怖いことは、何もないわ」
その人は小さく睫毛を震わせて。
再び眠りの世界へと落ちていった。
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