第64話『生きるという過ち』
2011年
◆◆◆◆がハールメス邸に来てから、3年が経ち、8歳になっていた。
廊下の真ん中で、長男ゾディアが鼻で笑う。
「相変わらず、見てるだけで気持ち悪くなるな」
何か気に食わないことがあれば、その矛先は必ず◆◆◆◆に向けられた。
長女ルビルは、わざとらしく髪を払って言う。
「ほんとよ。見てると小汚い“何か”が歩いてるみたい」
次女チフカは高い声で命令する。
「ねぇ、これ片づけてよ。早くしなさい、この愚図!」
言葉と一緒に、足や手が飛んできた。
殴られたところは紫色の痣へと変わり、蹴られた脇腹は息をするたびに痛む。
しかし、◆◆◆◆は決して泣き崩れなかった。
(パパが守るって言ってくれた。僕も“希望”なら負けちゃだめだ……)
その約束だけが、◆◆◆◆を人間として繋ぎ止めていた。
地下・奴隷の寝床
薄い藁布団の上に座り、◆◆◆◆は小さな手で握りしめた“宝物”を見る。
三人で撮った、ただの一枚の写真。
マスターのいるアエリモで、フリッグとオーリア、5歳の自分が並んで笑っているかつての光景。
その写真だけは、どんな暴力を受けても決して手放さなかった。
「おやすみ、パパ。明日もがんばるね」
小さく呟いて、布団に潜る。
◆◆◆◆は今日も、誰にも聞こえない声で祈るように眠りについた。
――“いつか笑って会える日”を信じながら。
約10か月にフルアで起きた革命がすべての歯車を狂わせた。
ハールメス・コープの根幹であるフルア産鉱物「オリチーム」。
レアマシーのフルア撤退により、供給量は減少した。
オリチームを失えば、ハールメスの主力であるバイオ・医療関連事業は立ち行かない。
そして同時期、ゾディア・ルビルが社長をしていた複数のグループ企業が、
彼らの乱暴な経営によって次々と倒産していった。
ハールメス家は、創業以来最も深刻な危機にあった。
ハールメス・コープ 株主総会
重厚な会議室の空気は、張り詰めている。
役員の怒号が飛んだ。
「社長! いったいどうなっているんだ!!」
別の役員が立ち上がり、資料を叩きつける。
「当社はこれまで、オリチームを基盤にバイオ・医療分野を中心に事業を展開し、さらに銀行部門で補ってきた。しかし、今はまるで違う!」
「その通りだ! いま世界では“エイダグループ”があらゆる分野を制圧している。
医療・軍需・IT・バイオ……ほぼ全てでトップシェアだ。
彼らに勝たなければ、ハールメス・コープの未来はない!」
別の役員も怒気を含んだ声で続けた。
「最近では“サンダーテック”とかいう新興企業まで台頭してきている。次々と新技術を発表して、世界中の投資を吸い上げているんだぞ!
このままでは、我々は完全に取り残される!」
会議室中がざわつく中、オーリアは額に汗をにじませながら言葉を絞り出す。
「オリチーム供給については、すでに私の方で確保はできています」
そして、小さく息を吸う。
「それから息子と娘に任せていた会社が倒産した件ですが、これは、私の不徳の致すところです。彼らには経営から手を引かせます」
その発言に、役員の一人が吐き捨てるように言った。
「やっとか! あなたのお子さんの横暴には、こちらも手を焼いていたんだ。彼らがいなくなるだけで、何億ドルの損失が抑えられると思っている!」
ハールメス邸
屋敷のリビングに、怒号が響いた。
「はぁぁぁ!? なんで俺たちが社長やめなきゃいけねぇんだよ!!」
ゾディアの怒声が壁を震わせ、ルビルも負けじと叫ぶ。
「冗談じゃないわ!! 私たちのおかげで会社は回ってたのよ!?
それに私たちにバラされてもいいわけ?」
「バラしても構わん。だが今の状況では、君たちの言い分は“ただの逆ギレ”としか映らんぞ。会社をここまで追い込んだ責任は、トップである“君たち”にある。親として庇うことはできない」
その言葉に、ゾディアは髪を掻きむしりながら怒鳴った。
「ふざけんなよ!! こんなの納得できるわけねぇだろ!!」
ルビルがゾディアの腕を取るようにして頷く。
「ゾディア、ここは一度引いておきましょう。
どうせ“時間が経てば、全部バラせる”んだから」
その一言に、オーリアの表情が青ざめ、肩が微かに震える。
ゾディアたちはその反応を楽しむかのように薄笑いを浮かべた。
「そういうことだ、父上。俺たちは“黙ってあげる”。わかってるよな?」
オーリアは唇を噛みしめ、それでも“父”として、そして“社長”としての面子を保とうと絞り出す。
「では、こうしよう。今回の失敗を糧に、君たちには“別の会社”を任せる。そこで再び学び、経験を積め。このままでは、また同じ過ちを繰り返すだけだ」
それは、脅しに屈する屈辱でもあり、後継者としての教育を諦められない父の焦燥であり、同時に一族から社長の椅子を奪われないための“保身”。
いつのまにか、オーリアは“地位と名誉”に囚われた一族の男になっており、その精神はすでに崩壊寸前であった。
その晩。
「やめてください……」
震える声とは裏腹に、ゾディアは楽しげに笑っていたる。
手には冷たい光を反射するナイフ。
ルビルとチフカは両側から◆◆◆◆の腕を掴んでいた。
◆◆◆◆は必死に逃げようとする。
「ゴミはおとなしくしなさい!」
ルビルの怒号が飛び、ゾディアは鼻で笑った。
「お前のせいだ。会社が潰れたのも、父上から脅される羽目になったのも。全部……お・ま・え・の・せいなんだよ」
「そうよ、虫唾が走るの!」
ルビルも続く。
チフカは無垢な笑みを浮かべたまま、ナイフの先を見つめている。
「ねぇ、はやく。どうなるのか見たいわ!」
◆◆◆◆は涙で顔を濡らしながら必死に叫ぶ。
「ぼ、僕、なにもしてない……! お願いだから……やめて……やめてください!」
ゾディアが笑い、その顔には一片の理性もなかった。
「うるさいッ!」
しゃっ!!!
空気が裂けた。
「ぎゃあああああああああああッ!!!!!」
◆◆◆◆は崩れ落ち、小さな手で右目を押さえながら床を転がり続けた。
流れ出る鮮血は床に赤い池を作り、その中で◆◆◆◆は身をよじって叫び続ける。
「あああああ!! 痛い!! 痛いよぉぉぉぉぉ!!」
しかし、返ってきたのは“笑い声”だった。
「ざまぁねぇな。クズには片目で十分だろ?」
ゾディアは見下すように吐き捨てる。
「あなたなんか、生きている価値なんてないわ」
ルビルの嘲笑が突き刺さった。
「もっと! もっとやりましょう!!」
頬を赤らめたチフカが足を振り上げる。
そして三人は、痛みでもだえる◆◆◆◆を、獣のように蹴り始めた。
何度も。何度も。何度も――。
使用人が駆けつけるまで、肉を打つ音と、押し殺した悲鳴だけが響き続けた。
その右目に光が戻ることはなく、◆◆◆◆の“世界”そのものが抉り取られる。
地下・奴隷の寝床
右目を包帯で巻かれた顔。折れた肋骨、腫れた顔、砕けた心。
◆◆◆◆は涙をぽたぽたと落とす。
(僕……なにもしてないよ。パパとただ一緒に暮らしたいだけなのに。
どうして、生まれただけで……ゴミとか奴隷とか言われるの……?)
あの日以来、父の姿は見ていない。
その夜、限界を超えた◆◆◆◆は、泣きながら闇に願った。
「パパに会いたいよ……。僕、生きてていいのかわからなくなっちゃう」
◆◆◆◆の悲痛の叫びは地下に響き、誰にも聞こえないまま消えていく。
それから4年の時が過ぎ、◆◆◆◆は12歳になっていた。
右目は永遠に閉じ、残った片方の瞳にも光すらなかった。
毎日、殴られ、罵られ、命令され続けた八年間。
尊厳というものはとうに消え、何を感じるべきかさえ忘れかけている。
父・オーリアへの想いもゆっくりと色褪せていた。
しかし、その日世界が、突然動く。
使用人が奴隷部屋の扉を乱暴に開き、叫んだ。
「よく聞け!! レアマシー政府から通達だ!本日をもって、すべての奴隷制度は廃止となった! 労働も拘束も、一切禁ずる! ここにいるお前たちは今日から“人間”として生きるんだ!!」
ざわめきが広がり――泣き崩れる者、呆然とする者、互いに抱き合う者。
◆◆◆◆は、ゆっくりと顔を上げた。
(え……自由? 僕も……?)
その瞬間、消えていたはずの左の瞳に、小さな光が戻った。
◆◆◆◆は立ち上がるや否や、外へと駆け出す。
「おい! どこへ行くつもりだ!!」
ゾディアが怒鳴り、目の前に立ちはだかった。
「お前はずっと俺の奴隷だ!! 逃げられると思うなよ!!」
もう、◆◆◆◆の足は止まらない。
「もうお前なんかの言うこと聞かない!!」
自分より遥かに大きな相手を、初めて全力で殴った。
鈍い音と共に、ゾディアが床に転げ落ちる。
「っ……誰にも殴られたことないのに!!」
◆◆◆◆は屋敷を走り抜け、塀を越え、石畳の道を走り続けた。
(これでパパと一緒に暮らせる! 僕はやっと自由に“パパ”って言える!!)
ようやく、ハールメス・コープが見える。
SPに囲まれたオーリア・ハールメスは黒い車から降り立った。
その姿を遠くに見つけた瞬間、◆◆◆◆の胸が跳ねる。
「パパ!!」
SPが前に飛び出すが、オーリアは片手を上げて制した。
「お前たちは帰っていい。私はこの子に用事がある」
ハールメス・コープ社・地下
静寂が支配する巨大な金庫扉の前で、オーリアはしゃがむ。
◆◆◆◆は満面の笑顔で胸を高鳴らせた。
「8年待ったよ!! これでパパと暮らせるよね!? やっと一緒に――」
オーリアは、重たい溜息を吐く。
「もう私の前に現れるな」
「……え?」
「お前は私の汚点であり、後ろめたい影だ」
◆◆◆◆は瞬きも忘れて、ただ父を見つめていた。
「パ、パパ? 何言ってるの?
パパだって……笑って過ごしたいって言ったよね……?」
オーリアは冷たく指を突きつける。
「事情が変わったんだ。理解しろ。私は今や“世界三大企業の社長”であり、ハールメス家の当主だ」
言葉は刃物のように鋭く、容赦がなかった。
「そんな私に――黒人との子がいたと知れたらどうなる。
家も、名誉も、未来も、崇高な使命も全て終わる」
◆◆◆◆の呼吸が震え、目が泳ぐ。
「僕は……パパの子だよ? なんでダメなの?」
その質問に、オーリアの手が容赦なく動いた。
――バシンッ!!!
乾いた音が金庫室に反響する。
「馬鹿が。奴隷制度が消えても差別は消えない。
露呈した瞬間、私は“終わり”なんだ。何度言わせる?」
◆◆◆◆は頬を押さえながら、涙があふれて止まらない。
「うぁぁぁぁ……いやだ……パパ……一緒に暮らそうって……
僕……ずっと……パパに会いたくて……たくさん頑張って――」
「子供は泣いていればいいよな」
オーリアの声は乾ききっていた。
「私だって泣きたいよ。お前みたいな“過ち”を生かしてしまったことにな」
◆◆◆◆の膝が崩れ落ちそうになる。
それでも、必死に立ち上がり、父のスーツをつかんだ。
「行かないで……パパ……お願い……ひとりにしないで……」
「やめろ」
オーリアは迷いなく、何度も、何度も、何度も殴りつけた。
「生きてるだけで迷惑なんだよ」
殴打の衝撃は、ただの痛みではなかった。
足は力を失い、◆◆◆◆は抗う余地もなく地面へ叩きつけられる。
胸の奥で、何度踏み潰されても消えなかった小さな希望がゆっくりと砕けていく音がした。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
(なんで……なんでなの。僕、ずっと頑張ったのに……
ずっと待ってたのに……全部ムダだったの? こんなの……あんまりだよ……)
涙でぐしゃぐしゃになりながら、最後の言葉がこぼれる。
「ママ……ごめん……」
その瞬間、◆◆◆◆の心の奥で、長い間必死に守ってきた小さな灯りが完全に音を立てるように消える。
かつて「希望」と呼ばれた光は、父の言葉によって、完全に影の中へと沈んでいった。




