第28章:グラス一杯の「答え」
スタジオ見学から一週間が経った。あの日以来、アオイの世界は変わった。藤沢さんの厳しい、けれど的確な言葉は、彼女の中で道標となっていた。
『あなた自身の目が見た、世界を描きなさい』
その言葉を胸に、アオイは毎日ひたすらペンを握った。窓から見える雲の形。コーヒーカップに映る天井の照明。レイが読んでいた本の、少しよれたページ。日常に溢れる、今まで見過ごしていた「光」と「空気」を、一つ一つ懸命にスケッチしていく。
そんな日々が続いていたある日、またしても嵐は前触れなくやってきた。
「アオイちゃーん! 緊急連絡! 緊急連絡!」
ユイが息を切らしながら部屋に転がり込んでくる。その手には、一枚のメモが握られていた。
「先輩経由で、あの藤沢さんから伝言よ!」
「えっ!?」
アオイの心臓が、どきりと跳ねる。ユイはったメモを、った。
「課題、『コップ一杯の水を、それが最も美味しそうに見えるように描きなさい』。以上!」
「……え? コップ一杯の、水?」
予想外の課題に、アオイは目をぱちくりさせた。キャラクターでもなければ、壮大な背景でもない。ただの、水。
「そう! 締め切りは特にないけど、できたら先輩に送ってって! きっと、アオイちゃんの本気度を試してるんだよ! がんばってね!」
言うだけ言って、ユイは「私、これから合コンだから!」と、再び嵐のように去っていった。
一人残された部屋で、アオイは「水……」と呟きながら、目の前のテーブルに置かれた自分のグラスを見つめた。透明で、形がなく、あまりにも身近で、あまりにも平凡なモチーフ。
(美味しそうに、描く……)
それは、ただ正確に模写するのとは訳が違う。感情に、感覚に、訴えかける絵を描けということだ。藤沢さんらしい、シンプルで、だからこそ奥が深い課題だった。
本格的に取り掛かる前に、ふと、父の顔が思い浮かんだ。そういえば、ここ数日話していない。気分転換も兼ねて、アオイはスマートフォンを手に取った。
数回のコールの後、少し眠そうな父の声が聞こえた。
『おお、アオイか。どうした』
「ううん、別に用事はないんだけど。元気かなって」
『元気も元気だ。こっちの生活にも慣れたぞ。ただなあ、近所のスーパー、ろくな漬物が置いてなくてな』
「ふふ、お父さんらしいね」
他愛のない会話が、心地いい。父は、アオイの就職活動が難航しているだろうと思っているのか、あえてその話題には触れてこない。
『それで、お前の方はどうだ。ちゃんと食べてるのか? コンビニ弁当ばっかりじゃ、体に悪いぞ』
「だ、大丈夫だよ。ちゃんと……食べてる、かな」
レイが毎日のように作ってくれる栄養満点の食事を思い浮かべながら、曖昧に答える。
『そうか? ならいいが……。仕事探しはどうだ。まあ、焦ることはない。綺麗なオフィスで、受付のお姉さんみたいな仕事でも見つかれば、父さんは安心なんだが』
「う、うん……まあ、色々見てるところ……」
父が想像する「娘にぴったりの仕事」と、今自分が目指している世界の、あまりのギャップ。アオイは思わず苦笑した。今、自分がアニメスタジオの課題に取り組んでいるなんて言ったら、父はどんな顔をするだろうか。きっと、心底心配するに違いない。
だから、今はまだ言えない。自分の力で、ちゃんと一歩を踏み出せたと確信するまでは。
それでも、電話越しの父は、娘の声の調子に何かを感じ取ったようだった。
『……まあ、何に挑戦してるのかは知らんが』
その声は、少しだけ優しかった。
『なんだか、前より元気な声をしてるじゃないか。何事も、一生懸命やれ。父さんは、いつでもお前のことを応援してるぞ』
「……うん」
『じゃあな、また電話する』
「うん、またね。お父さんも、体に気をつけて」
通話が切れた後も、アオイはしばらくスマートフォンの画面を見つめていた。
(応援してる、か……)
何も知らないのに。ただ、娘だからというだけで、信じて、応援してくれる。その無条件の信頼が、じんわりと胸に広がって、アオイの心を温かい勇気で満たした。
「よし!」
アオイは気合を入れ直し、タブレットに向かった。
しかし、最初の数時間は、惨憺たるものだった。
描いては消し、描いては消しを繰り返す。完璧な円柱のグラス。正確な水面の楕円。物理法則に忠実な光の屈折。出来上がったのは、美術の教科書に載っていそうな、無機質で、何の感情も湧かない「水の絵」だけだった。
「……美味しく、見えない」
焦りと、自分の画力のなさに、涙が滲みそうになる。行き詰って頭を抱えていると、静かに玄関のドアが開いた。いつの間にか、レイが来ていた。
「……何してる」
「……課題が、出たの。でも、全然描けなくて……」
レイは黙ってアオイのタブレットを覗き込むと、それからキッチンに向かい、グラスに氷と水を注いで、アオイの前に置いた。
「……」
「……この課題、俺には絵のことは分からん。だが」
レイは、アオイの目をまっすぐに見て、問いかけた。
「お前にとって、水が一番美味いのは、どんな時だ?」
その一言が、雷のようにアオイの頭を撃ち抜いた。
(……そっか)
私は、ただ「物」としての水を描こうとしていた。でも、違う。「美味しい」は、感情だ。体験だ。物語だ。
一番、美味しい水。
アオイの脳裏に、一つの情景が鮮やかに浮かび上がった。
真夏の、うだるように暑い日。部活もない、蝉の声だけが響く午後。縁側で、汗をだらだら流しながら、祖母が持ってきてくれた、氷がカラリと鳴る、冷たい麦茶の入ったグラス。
あの時の、最初の一口の、喉を駆け抜けていく、あの感動。
(……あれだ)
描くべきものが、決まった。
アオイは一度、全てのデータを消去した。そして、まっさらなキャンバスに、記憶の中の情景を再現し始めた。
強い日差しが差し込む、古い木製のテーブル。その上に置かれた、少し不格好な、厚めのガラスのコップ。中には、ゴツゴツとした氷が詰められ、なみなみと水が注がれている。グラスの表面には、びっしりと水滴が浮かび、数本、筋になってテーブルへと垂れている。水の中には、輪切りのレモンが一つ。
彼女が集中したのは、光の表現だった。グラスを通して屈折し、テーブルに映る、ゆらゆらとした光の模様。氷に反射する、鋭く、きらめくハイライト。水滴の一つ一つが宿す、小さな輝き。
それは、単なる水の絵ではなかった。暑い夏の日の記憶、喉の渇き、そして、それを潤す一瞬の至福。その全てを、一枚の絵に閉じ込める作業だった。
気づけば、窓の外はとっぷりと暮れていた。レイは、いつからそこにいたのか、静かに彼女の後ろに立って、その作業を見守っていた。
「……できた」
呟きと共にペンを置いたアオイの額には、玉の汗が光っていた。
画面には、ただの「コップ一杯の水」があった。しかし、それは見る者の喉を渇かせ、記憶の底にある夏の匂いを呼び覚ますような、圧倒的なまでの「答え」だった。
レイは、完成した絵をしばらく無言で見つめていた。そして、おもむろにキッチンに行くと、自分のために、氷と水をグラスに注ぎ、一気にそれを飲み干した。
そして、空になったグラスを手に、一言だけ、ぽつりと言った。
「……美味そうだな」
それは、アオイにとって、世界で一番の賛辞だった。
アオイは、達成感に満ちた笑顔で、その一枚の絵を、ユイ経由で送るためのメールに、そっと添付した。藤沢さんの目にどう映るかは、まだ分からない。でも、確かな手応えが、彼女の胸にはあった。




