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バルコニー  作者: ソラ
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第27章:プロの世界、最初の一歩

ポートフォリオ作りは、順調、とは言い難いまでも、着実に進んでいた。レイの的確な助言と、ユイの嵐のような(時に的外れな)応援を受けながら、アオイは毎日、来る日も来る日も描き続けた。白紙のキャンバスへの恐怖は、いつしか創造する喜びへと変わっていた。


そんなある日の午後、アオイのスマートフォンがけたたましく鳴った。画面には『台風』の二文字。


「もしもし、ユイちゃん?」


『アオイちゃーん! ビッグニュース! なんと、例の先輩からスタジオ見学のOKが出ましたー!』


「え……ほんと!?」


『ほんとほんと! 日時は明後日の午後二時! 場所は後で送るね! これはもう、行くしかないでしょ!』


電話の向こうで、ユイは自分のことのように興奮している。アオイの心臓も、期待と、それと同じくらいの不安で、ドクドクと大きく脈打ち始めた。


プロの世界。本物の、アニメが作られている場所。


その響きは、甘美であると同時に、恐ろしかった。


当日、アオイはレイとユイに付き添われ、目的の駅に降り立った。そこから数分歩いた先、閑静な住宅街の中に、そのスタジオはひっそりと建っていた。想像していたようなガラス張りの近代的なビルではなく、少し古びた、三階建ての何の変哲もない建物。壁には、過去に制作したであろうアニメのポスターが、色褪せながらも誇らしげに貼られていた。


「……ここ、なんだ」


「うん! 見た目は地味だけど、すごい作品いっぱい作ってるんだよ!」


建物の前で深呼吸を繰り返すアオイの背中を、ユイがぽんと叩く。レイは何も言わず、ただ「頑張れ」というように、アオイの頭を一度だけ、くしゃりと撫でた。


ユイに連れられて中に入ると、受付で人の良さそうな、しかし目の下に濃いクマを作った男性が迎えてくれた。彼がユイの先輩の、武田さんだった。


「おー、ユイちゃん、久しぶり。で、こっちの子が?」


「そう! 私のイチオシ! 宮沢アオイちゃん!」


「はは、よろしくね。じゃあ、早速見て回ろうか」


武田さんに案内され、アオイはプロの世界へと、最初の一歩を踏み出した。


一歩、足を踏み入れた瞬間、アオイは息を呑んだ。


そこは、静かな熱気に満ちていた。外の喧騒が嘘のような静寂の中、聞こえるのはデジタルペンがタブレットを擦る音、マウスのクリック音、そして、低く唸るパソコンの排熱ファンの音だけ。


ずらりと並んだデスクでは、数えきれないほどのアニメーターたちが、まるで祈りを捧げるかのように、一心不乱にモニターに向かっている。デスク周りには、資料の本やフィギュアが山のように積まれ、壁という壁には、絵コンテや設定画、原画の数々がびっしりと貼られていた。


コーヒーと、紙と、インクの匂い。


(すごい……)


アオイは、まるで神聖な場所に迷い込んだかのような感覚に陥った。自分が大好きな物語たちが、ここで、この人たちの手によって、生み出されている。その事実に、鳥肌が立った。自分が、場違いで、ひどくちっぽけな存在に思えた。


「こっちが作画部で、あっちが仕上げ。で、こっちの奥が……」


武田さんの説明も、半分くらいしか耳に入ってこない。


「……背景美術の部署だよ」


案内されたのは、フロアの隅にある、ひときアップされた一角だった。他の部署よりも、さらに静かで、張り詰めた空気が漂っている。


そこで、一人の女性が黙々と背景画を描いていた。年は三十代後半だろうか。短く切った髪に、無駄のない動き。その鋭い眼差しは、一切の妥協を許さない、職人のそれだった。


「藤沢さん、お疲れ様です。ちょっと、見学の方を」


武田さんが声をかけると、藤沢と呼ばれた女性はゆっくりと顔を上げた。その視線が、アオイを射抜く。値踏みするような、厳しい目。アオイは思わず、びくりと体を硬直させた。


「……この子も、目指してるクチ?」


「はい! アオイちゃん、絵がすっごく上手いんですよ!」


ユイが、待ってましたとばかりに割って入る。


「見てくださいよ、藤沢さん! ポートフォリオ持ってきたんです!」


「ちょ、ユイちゃん!?」


アオイが止める間もなく、ユイはアオイのタブレットを藤沢さんの前に差し出していた。もう後には引けない。アオイは観念して、おそるおそる作品のファイルを開いた。


藤沢さんは無言で、アオイがここ数週間、寝る間も惜しんで描いた絵を、指でスワイプしていく。


沈黙が、重い。心臓の音が、やけに大きく聞こえる。


藤沢さんの指が、ふと、一枚の絵の上で止まった。


それは、アオイが先日描いた、プリンを食べながらニュースを読む、レイの絵だった。


藤沢さんは、その絵を数秒間じっと見つめた後、顔を上げて、アオイに初めて、まっすぐな視線を向けた。


「……あなたの技術は、まだ未熟ね」


その言葉は、刃物のようにアオイの胸に突き刺さった。血の気が、さっと引いていく。


「デッサンも甘いし、パースも正確じゃない。基礎が、全然できてない」


厳しい、プロの評価。やっぱり、私なんて……。アオイが唇を噛みしめた、その時。


「……でも」と、藤沢さんは続けた。


「この絵には、空気がある。光の捉え方が、綺麗ね。こういうのは、教えてすぐに描けるものじゃない」


「……え?」


「あなたは、『アニメの絵』を描こうとしすぎている。だから、線が硬い。でも、この絵は違う。あなたが見たもの、感じたものが、素直に描かれている」


藤沢さんは、レイの絵をもう一度見た。


「上手くなりたいなら、『アニメ』を描くのをやめなさい。あなたが描くべきなのは、あなた自身の目が見た、世界よ。光を、空気を、感情を描きなさい。基礎を、死ぬ気で学びなさい。……それができれば、いつか、あなたの居場所もできるかもしれないわね」


それだけ言うと、藤沢さんは再びモニターに向き直った。その横顔は、もうこちらに興味はないと告げていた。


帰り道、アオイはずっと黙り込んでいた。隣でユイが「『空気がある』って言われたじゃん! すごいよ!」と興奮気味に話しかけてくるが、その言葉もどこか遠くに聞こえた。


駅で待っていたレイと合流し、三人は無言で電車に揺られた。


部屋に戻り、コーヒーを淹れるレイの背中を見ながら、アオイは今日の出来事を反芻していた。


藤沢さんの言葉は、厳しかった。自分の未熟さを、これでもかというほど突きつけられた。


でも、不思議と、心は折れていなかった。むしろ、逆だった。


(……見てもらえた)


ただの素人の落書きとしてではなく、プロを目指す人間の作品として、真剣に。そして、厳しい言葉の中に、確かに、ほんの一粒の可能性を見出してくれた。


「あなたの居場所も、できるかもしれない」


その言葉が、胸の中で熱く燃えている。


「……レイさん」


「ん?」


「私ね、今日、スタジオで言われたんだ。技術は全然ダメだって」


そう言うアオイの目に、涙はなかった。そこには、今まで見たこともないような、強く、澄んだ光が宿っていた。


「……でもね、もっと上手くなりたいって、心の底から思った。学ぶことが、たくさん、たくさんある。だから、私、もっと描く。毎日、もっともっと、描くよ」


その宣言は、誰のためでもない、自分自身への誓いだった。


漠然とした夢が、今日、明確な目標に変わった。目指すべき場所と、そこへ至るための、険しくも確かな道筋。


アオイは自分の部屋に戻ると、真っ先にスケッチブックを開いた。その手にはもう、昨日までの迷いはなかった。

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