手記
発刊後、「メビウス館の殺人」はまたたく間にベストセラーとなった。
それは、これまで培ってきた鴻守の名声によるものであるし、また、この作品の位置付けが分かりやすかったこともある。
孤島の館モノ、密室トリック、「そして誰もいなくなった」。
ミステリファンが鴻守作品に期待していたすべてがこの作品には詰まっていた。
しかし、この作品が高評価を得たかといえば、必ずしもそうではなかった。
その理由はもちろん読者の数だけあるのだが、ネット上の書き込みを見てる限りでは、やはり「犯人の独白」部分が足を引っ張っているようであった。
八雲と秋田が議論をした「矛盾点」を、目の肥えたミステリファンが見逃すはずがないのである。
もっとも、これも鴻守が「望んだ」ことなのである。
鴻守自身の意向により、あえて「矛盾点」が放置されたままの出版となったのであるから。
出版から1週間後、草奏社のオフィスに、2人の刑事が訪れてきた。
2人はそれぞれ、蝦野と清水と名乗った。
秋田が外出していてオフィスにいなかったため、八雲が応対した。
社長が対応してくれたことに刑事らは満足したようで、狭い応接間の小さな机で相対すると、若い清水の方が早速本題を切り出した。
「実は、社長に相談したいことがありまして」
「何の件ですか?」
「鴻守渓大の件です」
「鴻守先生がどうしたんだ?」
「実は、先日、亡くなりました」
「亡くなった!?」
ガンに侵されており、余命がわずかなことは聞いていたものの、それはあまりにも突然の訃報であった。
つい最近、「メビウス館の殺人」の売れ行きについて電話で話した際も、鴻守には一切弱った様子はなかったのである。
「驚かれるのも無理はないと思います。鴻守は、御社の看板作家でしたしね。それにこれを聞かれるともっと驚かれるとは思いますが」
清水が口にした言葉は、八雲が予想だにしないものであった。
「鴻守は、5人の人間を殺害した後に、自ら命を絶ったんです」
清水の言葉は、あまりにも具体的であったが、現実味は一切なかった。
まるでフィクション小説のような話である。
——待てよ。5人を殺害後に自殺? それはまるで——
「メビウス館の殺人じゃないか……」
八雲がぼやくように零した言葉に、ベテランの蝦野が大きく頷く。
「ああ、そうなんだよ。鴻守は、御社で出版された小説のとおりのことを実行したのさ。鴻守が大枚をはたいて建築した奇妙な館の中でね」
——本当にそんなことがあるというのか。
あまりにも現実離れしている。
八雲に対し、早く現実を受け入れろ、と言わんばかりに、蝦野は、事件の詳細をさらに語っていく。
「殺人のあった館が建てられていたのは、K県に属する有磨島という無人島。被害者は、全員鴻守とは親戚関係にある者だ。鴻守の本名は勝沢靖公というが、被害に遭ったのは、兄の勝沢太一、太一の妻である勝沢宏美、姉の湧住麻子、従兄弟の勝沢里也、そして同じく従兄妹の勝沢夏紀だ」
——アナグラムだ。
「メビウス館の殺人」の登場人物は、鴻守の親戚の名前の文字を入れ替えたものだったのである。
鴻守の本名は以前に聞いたことがあったが、出版契約はペンネームでも交わせるため、本名を完全に失念していた。
ただ、たしかに言われてみると、勝沢靖公で間違いなかったと思う。「メビウス館の殺人」の犯人である薩川幹康は鴻守の本名を並び替えたものだったのである。
「社長、俺たちが社長に相談したいことが何か分かったよな?」
「……『メビウス館の殺人』の出版中止ですよね」
「そうだ。書店からの回収もお願いしたい」
蝦野が清水にアイコンタクトを送ると、清水は、カバンの中から、丸まった羊皮紙を取り出した。
八雲は、それが一体何なのかをすぐに察した。
「社長、これは鴻守が拳銃で自殺する直前に記した手記です。館の地下室で、鴻守の死体とともに発見されました。社長にもこれを読んで欲しいんです」
清水が羊皮紙を机の上に置く。
手記の独特な丸文字は、間違いなく鴻守本人によるものだった。
そして、羊皮紙の端には赤い染みが付いているが、これはおそらく鴻守の血ということになろう。
拳銃で自らを撃つときに飛び散ったのだ。
八雲は、震える手で羊皮紙を拾い上げると、得体の知れない恐怖の中、その手記に目を通した。
………………
日頃の不摂生のためか、それとも日頃の行いが悪かったためか、私の身体は若くしてガンに侵され、医師からは余命宣告を受けた。
幸運なことに、私は、生涯独身であり、養うべき家族はいない。
また、先般日の目を見た『メビウス館の殺人』に続く新作のアイデアはなく、仮に私が普通の小説家であったのであれば、何も思い残すことなく、安らかに眠れることだっただろう。
しかし、私は普通の小説家ではない。
ミステリ作家なのである。
しかも、本格ミステリを書く人間なのである。
ゆえに、私には、死ぬまでにどうしてもやらなければならないことがあった。
それは、私の小説に書かれたトリックが、現実にも実現可能であることの証明である
私が世に放った作品は、ミステリファンを中心に、それなりの賛辞をいただいた。
それはとてもありがたいことであり、身にあまることだと思う。感謝したい。
また、世捨て人となりかけた私を拾ってくれた出版社である草奏社の八雲君、秋田君には、格別の感謝の言葉を贈りたい。
しかし、私の作品をすべての人が受け入れてくれたわけではなかった。
時代錯誤である、という批判は苦にしない。
それは自覚もしているし、むしろ狙ってそうしているところがある。
しかし、私にとってどうしても耐え難かった批判は、私の作品が「現実離れ」しているという批判である。
ミステリは、フィクションであるが、SFやファンタジーではない。
ゆえに、ミステリのトリックは、現実世界でも実行可能なものでなければならない、と私は考える。
それは本格ミステリであっても同じである。
ゆえに、私は、私の作品が「現実離れ」しているという批判に対しては、常に全力で論駁するようにしていた。
それは雑誌の対談でもそうであるし、知人との宴席の場でもそうだった。
私は、私の作品のトリックが、現実でも実行可能であることを、あらゆる知見や論理を用いて、説得的に説明しようとした。
しかし、大半の説得は無駄に終わった。
結局、私の作品が「現実離れ」していると批判する者は、本人が自覚しているかどうかはともかく、実証主義者なのである。
頭で考えてどうこう、というわけではなく、自分自身が実際に経験した事実しか信じられない人間なのだ。
余命宣告を受けたとき、私は、私の余生をかけ、私の作品が「現実離れ」していないことを証明しようと考えた。
それこそが、既存の私の作品の価値を上げ、死後の私の名声を高める上で、もっとも必要なことだと考えたからである。
そこで、私は、遺作である「メビウス館の殺人」を執筆し、そのとおりの犯罪を自ら実行してみせたのである。
私の作品のトリックが、現実でも実行可能であることを、「実証」したのだ。
しかも、もっとも「現実離れ」した種の本格ミステリである「そして誰もいなくなった」を題材として。
この手記を書いている私は、すでに親戚5人をこの世から葬っている。
その方法については、基本的には、「メビウス館の殺人」で薩川幹康が実行したとおりである。
もっとも、そっくりそのままそのとおりだったかといえば、それは違う。
大勢には影響しないであろう点で、「メビウス館の殺人」と私の犯した殺人とは異なっている。
たとえば、館の名前は、「メビウス館」ではなく、「輪廻館」である。作品と違う命名をしたのは、私の作品に興味のない親戚たちが、万が一、「メビウス館の殺人」というタイトルのみをどこかで知ってしまうことを恐れたからである。私の直近の作品と同じ名前の館に連れて行かれれば、愚かな親戚たちも、さすがに疑いを抱くだろう。
また、「メビウス館の殺人」の設定と違い、私は、未婚者であり、勝沢宏美(薩川未優)と結婚していたのは、私——勝沢靖公(薩川幹康)ではなく、勝沢太一(薩川一太)である。また、これは指摘するまでもないが、私——勝沢靖公(薩川幹康)の職業は、歯科医ではなく、作家である。
あと、大きく異なっている点としては、輪廻館には複数の監視カメラが仕掛けられており、地下1階の広間に置かれたモニターにより、被害者たちの行動が具に観察されていたことだろうか。そして、この監視カメラの映像は、今もなお残っている。この手記とともに、「実証」のためにぜひ活用して欲しい。
加えて、これもある意味では大きく異なっている点なのだが、勝沢太一は、薩川一太ほどは利口でも勇敢でもなかった。そのため、私は、本作の幹康以上に彼を誘導しなければならなかった。
たとえば、スピーカーによって流れた悲鳴を聞いた太一は、まず私の部屋に駆け込もうとし、私がいないことが分かると、すぐに1階の広間に降りようとした。ゆえに、私は、太一がシャンデリアの上を渡る覚悟をするまで、1階広間の鍵を閉め続ける必要があった。
また、夏紀を殺す際も、太一は廊下で飲むことを渋っていたため、無理やり誘う必要があった。
加えて、宏美の遺体を見つけた太一は、あろうことか、その場で気絶をして倒れてしまった。目を覚ましても隠し部屋を探そうと躍起になることはないだろうと思った私は,気絶をしたままの状態の一太に銃を向けた(ただし、小説同様、殺めたのちには、シャンデリアの上に飾りつけした)。
それ以外の点については、おおよそ「メビウス館の殺人」のとおりである。
各人を殺害した場所には、黒いインクでバツマークを付しておいた。ぜひとも小説と実際の犯行との照合作業に活用して欲しい。
草奏社の八雲君、秋田君には、最後の最後まで迷惑を掛けてしまい、大変申し訳なく思う。
秋田君が的確に指摘したとおり、「メビウス館の殺人」のエピローグとプロローグの「犯人の独白」部分は、本編と矛盾している。
なぜなら、「犯人の独白」部分は、薩川幹康による独白ではなく、私——勝沢靖公による独白だからである。
動機がすっぽり抜け落ちているという指摘もそのとおりである。
薩川幹康には、奇妙な館を建築し、親戚を一人一人殺していく動機などないのである。
その動機を有しているのは、私——勝沢靖公である。私の犯行、そして、この手記によって、はじめて「メビウス館の殺人」は、「犯人」の動機が明かされ、完結するのだ。
この手記を最初に手にするのは、おそらく警察関係者であろう。
警察関係者は、この手記を公表し、かつ、監視カメラの映像も公表して欲しい。
そうでなければ、私の苦労も、また、罪のない親戚たちの死までも無駄になってしまうからだ。
とはいえ、もしこの手記も監視カメラ映像も公表されなかったとしても、勘の良い読者は、「メビウス館の殺人」の不自然な「犯人の独白」と、メディアが報道する輪廻館での連続殺人とを結びつけて、私の偉大な功績に気付いてくると思う。
私は、世に生み出されたどの「そして誰もいなくなった」よりも優れた「そして誰もいなくなった」を生み出した。
そのことが見事「実証」されたのである。
今、私がいる地下1階の広間には、アガサ・クリスティ女史の銅像が置かれているが、私は、ついにアガサ・クリスティ女史を超えたのだ。
これで私の人生に一切悔いはない。
私に残されたことは、ここからいなくなることだけである。
………………
(了)
本作「メビウス館の殺人」を最後までお読みいただきありがとうございました。
本作は、半年以上前にステキブンゲイさんの方で連載を開始したものでしたが、正直言ってエタリかけました。
その要因は、仕事とプライベートが忙しくなったから、ということもありますが、それ以上に、本作に対する自信を喪失したから、というのも大きかった気がします。本作のアイデアはあまりにも大胆であり、昨年三十路を迎え、執筆歴も5年を迎えようとしている作者にしてはあまりにも「荒削り」だからです。あまりにも尖った作品であるため、読者の方々からものすごい不評を買うのではないかと怖くなりました。
とりわけ,本作の「動機」の部分は,思いついたときから興奮と恐怖が入り混じっていました。そのまま思いつかなかったことにしようかとも何度も悩みました。
ただ、活動報告などで、なろうのミステリ界隈の方々とお話ししていると、本格ミステリを切望している方が多く,お蔵入りとなりかけていた本作にも興味を持ってくださる方が多いことが分かりました。
生みの親の責任ではないですが,思いついてしまった以上は,この問題児である「メビウス館の殺人」を社会に出す必要があると思いました。
などとネガティブなことをたくさん書きましたが,ここまで本格的な本格を書けたことについてはとても満足しており,今後ミステリを書いていく上でも1つの指標となる作品かなと思っています。手のかかる子ほど可愛いものですよね。
本作のアイデアの中心となっているのは,言うまでもなく,館の「ねじれ」です。着想もすべてここからスタートしています。たしかYouTubeで手品動画を見ているときに思いつきました。
そして,この作品以上に,過去の読書経験が生きた作品はない気がしています。綾辻行人や東野圭吾からたくさん小道具を借りています。焼却炉=「水車館の殺人」,チェーンロック=「ウインクで乾杯」などです。あと,歌野晶午の「長い家の殺人」の影響も間違いなく受けてますね。創作内創作にしたのは、アンソニーホロヴィッツの「カササギ殺人事件」の影響かもしれません。
年末年始は創作漬けでした。そして,年始明けも職場でこの小説を書いていました。ヤバいですね。仕事がたまりすぎているので,そろそろ仕事モードに戻ります。とか言いつつ、次回作の構想を練ります。箸休めとして、ミステリじゃない作品を書くかもしれません。
本作に関しては,いかなる評価でも受け入れて,糧にしていく所存ですので,ブックマークと評価をよろしくお願いいたします。
また近々「館シリーズ」を書きたいです。
【2021年8月24日追記】
本作が、予想だにしなかったことに、なろうコン1次を突破しました。もちろん、嬉しかったですが、なろう受けを狙い、実際にptもそれなりに稼いでいた別の作品が軒並み落とされてこの作品が残ったのはまさにミステリーだなと思っています。
なろうコン1次を突破したから、というわけではないですが、大幅に加筆修正をしました。
「バツマーク」についてです。
実はこの下り、今日追記したものであり、当初は全く存在していませんでした。
鴻守の犯罪と幹康の犯罪との間のリンクが弱い(作中作の意味があまりない)のが悩みで、完結後にもぼんやりと解決策がないかと考えていたのですが、ついに浮かんだのが、この「バツマーク」でした。
普段、基本的に書いたら書きっぱなしで、読者様から指摘された矛盾とかは修補していたのですが、完結後にここまで大きな加筆をしたのは初めてです。
ただ、加筆後をお読みいただいた方には、この「バツマーク」が作品と切っても切り離せないものだと感じてくださってるはずです。
あ、次の館シリーズは今年中には書きますので(焦り)




